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● 1997/04[1996/02]
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キリスト教世界で一般に「旧約聖書」と呼びならはされている書物は、本来はユダヤ教の聖典として成り立ったものだ。
(「旧約聖書」という名は、のちにこの書物がキリスト今日の正典とされたときに、キリスト以後の教えを「新約」と呼ぶのに対比してつけられたものにすぎない)
ユダヤ教の本来の呼び名によれば、これは「律法」「預言者」「諸書」の三部からなり、総称して「タナハ」と呼ばれるのである。
そのそれぞれは次のような構成になっている。
①.律法(トーラー)
モーセ五書:「創世記」「出エヂプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」
②.預言者(ネヴィイーム)
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③.諸書(ケトウヴィーム)
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「バベルの塔」の物語は創世記第11章におさめられており、「律法」の一部分ということになる。
この「律法」は「タナハ」全体の中で、もっとも早く正典化された部分であり、また内容的にももっとも重要なものとされている。
ときには、「タナハ」全体を「トーラー」と呼ぶこともあるくらいである。
それでは、この「律法:トーラー」とはいかなる書なのだろうか?
ヘブライ語の「トーラー」とは、「律法」と訳されるとおり、「定め」「掟」といった意味の言葉である。
そして実際、この「律法」の五書は、いたるところに、神がイスラエルの民に与えたとされるさまざまの法律や宗教的戒律の記述を含んでいるのである。
すなわち神ヤハウエがイスラエルの民と契約を結び、彼らがヤハウエの掟を忠実に守るならば、ヤハウエはかれらに、
土地を与え、
子々孫々の繁栄
を約束する、ということになっている。
「律法」の基本にあるのは、
「ヤハウエとイスラエルの民とのあいだの契約」
である。
この契約は、律法の中で重ねて繰りかえし確認され、その場面に応じて「アブラハム契約」とか「シナイ契約」とか呼ばれる。
その最も基本となるべき最初の契約が「アブラハム契約」で、ヤハウエはアブラハムにこう語ったとされている。
「
おまえの故郷、おまえの親族、おまえの父の家を離れ、私がおまえに示す地へ行け。
私はおまえを大いなる民とし、おまえを祝福し、おまえの名を偉大なものとしよう。
」
ヤハウエの約束のうちには、子孫の繁栄ということがうたわれたり、いまある苦境からの救出ということがふくまれたりするのであるが、一つ一貫して変わらないのは、
「土地の約束」
である。
最初、アブラハムに「私がおまえに示す地」と語られるのが、モーセへの言葉の中で語られる
「カナーンの地」
であり、実際にヤハウエはアブラハムをそこまで連れて行って、これをおまえの子孫に与える、と行って見せてやるのである。
しかし、この「土地の約束」は、はなはだ奇妙な約束であった。
というのも、それは現に人の住み着いている土地だったからである。
創世記第12章の、ヤハウエがアブラハムのそのその約束の土地を見せる場面では、はっきりと、
「当時、この地にはカナーン人がいる」
と語られている。
つまり、ここでのヤハウエは他人の土地を勝手にアブラハムに約束してしまっている訳で、客観的に言えば、この神の「土地の約束」は、まことに顰蹙すべき約束なのである。
けれども、ユダヤ教において、このアブラハム契約の顰蹙すべき側面が深刻な神学的問題となったことは、一度もなかった。
というのも、このユダヤ教の神ヤハウエは、「イスラエルの民の神」であると同時に、「全地の神」でもある。
したがって、その地にどの民族が住んでいようと、それはすべて本来ヤハウエのものであり、ヤハウエはそれを好きな時に好きなように取り上げて、好きな民族に与えることができるという訳なのである。
イスラエルの民の神が、同時に全地の神でもあるという、この一風変わった「二重性格」は、ユダヤ教の根本的特色をなすものと言えるのであるが、それによって、イスラエルの建国にまつわる根本的は「暴力」が、いわば正々堂々と公認されることになったのである。
しかし、他方では、神による「土地の約束」が、これほど明確な形で建国の出発点に据えられてしまったことは、ある難しい問題を生み出したともいえる。
すなわち、イスラエルの民にとって、
その国土がいつまでたっても本当の意味での自分たちの土地とは成り得ない、
という問題である。
「カナーンの地」は、あくまでも神との契約によって、イスラエルの民へと授けられたものであるのだか、それは彼らにとっては、いわば永遠の、
「神からの借地」
なのであり、、決して自分たちの「持ち家」とはなりえないのである。
ユダヤ教というものは、一面ではなはだ民族的宗教でありなが、また他方では、その神が「全地の神」でもあえという、特殊な性格を持っている。
これを普通「選民思想」という言葉で呼ぶのであるが、これは単なる「民族主義」や「中華思想」とはまっったく異なるものである。
単にその民族に固有の「守り神」がついていて、危機に際してその民族を守り、鼓舞してくれる、ということであれば、そういうもののない民族はない、とさへいえる。
しかし、それは「選民思想」ではない。
そこでは、それらの「守り神」の守備範囲がその民族のサイズとほぼ一致しているからである。
彼らが他の民族と戦うとき、必ず勝たせてもらえるかどうかの保証は、そこにはない。
「守り神」がどのくらい協力であるかは、実際に戦ってみなければわからないのである。
また一方で、いわゆる「中華思想」なるものは、むしろ「神」を抜きにしたところで成り立っている。
たとえば、漢民族が自らを世界の中心にあるものと理解していたのは、彼らの民族文化全体を背景にしてのことであって、何らかの神を後ろ盾に仰いでのことではなかった。
これに対して、正真正銘の「選民思想」は、全宇宙を支配する神が、ある特定の一民族を選び、ひいきする、ということによって成り立つ。
神がイスラエルの民の守るべき戒律と、この神がイスラエルの民に約束し、また与えた特別の恩恵の数々とについての記述が「律法」の大部分を占めている。
ところが、その中にひとつだけ、それらの部分とは全く違った、異質な記述の部分が存在する。
「律法」の一番初めの部分----創世記第1章にはじまり、第11章まで続いている、いわゆる「原初史」と呼ばれる部分がそれである。
この原初史においてはまだ「イスラエルの民」というものは現れていない。
この「原初史(Urgeschichte)」という名も、それがいまだ「イスラエルの歴史」になる以前の歴史である、というところからつけられた名である。
そこでは、この神ヤハウエが天地をつくった時のこと、人類最初の人間をつくった時のことに始まり、いかにして人類が諸民族に分かれ分散していったか、ということが語られている。
つまり、ここに描かれる神は、純然たる「全地の神」としてのヤハウエなのである。
「選民思想」にもとづく宗教としてのユダヤ教にとっては、その神を確かに「全地の神」として描き出す部分は、必要不可欠なのである。
分量からすれば、この原初史の部分が「タナハ」全体に占める割合は、ほんのわずかなものに過ぎない。
しかし、このほんの僅かな一部分こそが、ユダヤ教をユダヤ教たらしめていると言っても、決して大袈裟ではないのである。
そして、そればかりなく、この原初史の部分こそ、このユダヤ教の内から、一見それとは大きく異なる、キリスト教という新宗教が生まれ出てくる、その芽を内に含んだ部分であった、と言えるのである。
キリスト教徒たちは、自分たちのキリスト信仰をつづった諸書を「新約」と称し、他を「旧約」と称する。
この呼び方は、あたかも自分たちこそが、正統の「アブラハム契約」の更新者である、と言わんばかりである。
これはユダヤ教の立場からすれば、許しがたい僭称であるということになる。
ユダヤ教徒の目から見れば----また、客観的な立場から見ても----これは明らかに一種の宗教的簒奪というべきものである。
しかし、この「宗教的簒奪」は、一面では、たしかにユダヤ教自身居よって準備されたものである。
モーセに託された言葉にみるとおり、全地はヤハウエのものであり、したがってこの神ヤハウエは「全地の神」である。
たしかにこの神はイスラエルの民に特別の好意を示しているが、その本質は決して「イスラエルの民の神」なのではない。
この神はあくまでも全地・全人類・全宇宙の神なのである。
原初史の最後の挿話にあたるのが、「バベルの塔」の物語である。
とすれば、この原初史のなんたるかについて考えることなしには、「バベルの塔」の物語を正しく解釈することも不可能なのである。
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【習文:目次】
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