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● 1997/06/25
『
経営学の基本は金勘定ではない。
「環境認識をどうするか」ということと、その環境に合った組織体をどう構成するかである。
うまく機能している組織は、環境が変わらない限り反映する。
動物は困難な環境に直面して、より生存しやすい形・状態に変化する。
それによって環境に適応し、さらに環境変化の中で生き残っていく。
それが「進化論」の教えるところである。
進化する動物の陰で、もはや完全に環境に適応してしまって、それ以上の進化を失ってしまったのが下等動物である。
日本経済を取り巻く環境は確実に変化している。
変革しえなかった前時代の企業は、分解リサイクルさせていただくのがいちばんいい。
日本における組織学・経営学の元祖は徳川家康である。
彼は環境を固定し、その環境に合う組織を作った。
環境を固定するには何をすればよいかを考えた。
まず、彼は新しいものを持ち込んでくる南蛮・紅毛、すなわち西洋というものに不安を感じた。
新しいものが入ってくることによって環境が変わることを恐れた。
それが鎖国となる。
鎖国が完成するのは家康の没後のことであるが、それを準備したのは家康である¥。
もう一つ、経済力のある人間が出ることに危惧を持った。
経済力のある人間を作らないようにする。
徳川にとって経済力のをもたれては困るのが諸大名である。
諸大名の経済力を抑えこむために参勤交代の制度を作った。
15代将軍慶喜のときの日本の人口は三千万人です。
家康の時代の人口も三千万人。
およそ260年の歳月を経て、ものの見事に経済力が同じなのである。
この国の限られた国土から得られる食料エネルギーの量は限定されている。
食料エネルギーの量は「人口」を規定します。
固定的環境で暮らせば、人々は固定的な味方に陥る。
既存の味方、慣習に頼れば自分自身で考えずにすむ。
アメリカの経営学は移民を集めた労働市場と量産品を求める市場の上に立つ大企業を前提にしている。
人間管理のコツは軍隊から学んでいる。
それは、巨大な軍事組織を管理するための方法を基礎にしている。
よって小規模事業経営に応用するには少なからず無理がある。
中小企業では仕事の内容はすぐ変わる。
そのような中小企業の経営は、学問として扱いにくいから学校では取り上げようとしない。
』
【習文:目次】
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2012年3月31日土曜日
★ 和算で数に強くなる !:高橋誠
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● 2009/04/10
『
第二章 誰がはじめて植木算で木を植えたのか
明治時代には植木算がなかった?
植木算と植え木算でないものの違いとは
江戸時代には植木算はなかった
誰が最初に植木算で木を植えたのか?
植木算が自覚される
明治時代の初めの教科書に次の問題があります。
問題1 (注:メートル法に直して記述する)
15mの地に、松の木5本あり、しかる時、松の木の間は何mなりや。
問題が載っている教科書は、明治6年に刊行された「小学算術書 巻之四」で、小学3年後期用のものです。
刊行したのは文部省、編集したのは師範学校。
当時は、国定教科書ではなかったので日本中で使われたものではありませんが、広く普及した代表的な教科書です。
「植木算」で考えることを知っている私たちは、木は両端にも植えられているのかどうかが、とてもキになります(!)
図2-1を見てください。
両端に植えられていれば木と木の間は4カ所になり、ひとつの間の長さは「15÷4=3.75m」となります(①)。
両端に植えられていなければ②で、間は6ケ所になり、「15÷6=2.5m」。
しかし、この問題の教科書による正解は、「15÷5=3m」なのです。
木の植え方を③のように考えているわけです。
①の計算方法を「植木算」といいます。
植木算のポイントは、道の両端に木を植えるから、木と木の間の数は、木の本数より「1」少なくなる、
すなわち「木の本数-1=木の間の数」と考えることにあります。
明治31年に出た『算術問題の解き方』という本では、植木算の考えか方を
「片手を広げるとき、5本の指と指との間隔は4つあり、このことを心裡に銘記すべし」
と説明しています。
』
<■>
「植木算」なる言葉があることをはじめて知った。
少なくとも私は小学校でも中学校でもこの言葉は習っていない。
経験としては半世紀以上も昔に出会っている。
小学校の時である、先生がこんなたぐいの問題を出した。
「3mのところに、50cmおきに花を植えると花は何本いるか」
算術的には6本になる(300cm÷50cm=6)。
50人クラスのほとんど(中には問題の意味がわからない生徒が一人二人いた)が「6本」と答えていた。
だが、どういうわけか自分だけ「7本」にしていた。
どうやったかというと、なんてことはない試験用紙に線を引いて、その線を短い縦線で区切っていった。
一つの線分を50cmとして6つの線分が引けたところで3mとして、その線とタテ区切り線の交点’を数えたら「7ケ」であり、答えを「7」としたのである。
実をいうとその前に伏線がある。
試験で先生が「300÷50=6」なんて簡単な答えを求めるような問題を出すはずがない、
どこかにヒッカケがあるはずだと、と思い込み、これは絶対「7本」だ、これが正解だと思ったわけである。
で、先生の正解はというとなんと素直に「6本」なのである。
ヒッカケはなかったのである。
逆に先生に呼ばれて「なんで7本なのだ」と質問された。
図にして説明すると、「ああそうか、そうだな」といって、私のもマルにしてくれた。
つまり、先生自身が「植木算」なるものを知らなかった、ということなのである。
たまたま私は絵で解法したために説得力に富んでいた、というわけである。
では、「6」か「7」のどちらが正解かというと、どちらも正解である、ということである。
言い換えると「問題の出し方が間違っている」ということである。
問題が悪い、ということである。
問題は異論のでないように作成すべきだということである。
でも、最近の教育では「植木算」が強く刷り込まれているようです。
本書から別の例をあげてみます。
『
今の私たちは「4km2の土地に1km2ごとにマクドナルドがある」と聞くと、店の数は4店と思うのが普通だと思います。
図3-1の①のように。
では、「3kmの道に1kmごとにマクドナルドがある」と聞くと、店の数は何店と思うでしょうか。
mixi のあるコミュで、この質問をしたところ、「3店」と答える人と「4店」と答える人が半々でした。
(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29978834&comm_id=63370)
4店と答えた人は、植木算的に③のように考えているのでしょう。
長さの場合は、わたしたちには植木算の考え方が刷り込まれているために、
起点がどこなのか、
その起点と店との関係はどうなっているのか
が意識に上り、長さの起点に店を置く人が、半数はいるということのようです。
』
単純にいうと、これも問題が悪いという典型でしょう。
【習文:目次】
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● 2009/04/10
『
第二章 誰がはじめて植木算で木を植えたのか
明治時代には植木算がなかった?
植木算と植え木算でないものの違いとは
江戸時代には植木算はなかった
誰が最初に植木算で木を植えたのか?
植木算が自覚される
明治時代の初めの教科書に次の問題があります。
問題1 (注:メートル法に直して記述する)
15mの地に、松の木5本あり、しかる時、松の木の間は何mなりや。
問題が載っている教科書は、明治6年に刊行された「小学算術書 巻之四」で、小学3年後期用のものです。
刊行したのは文部省、編集したのは師範学校。
当時は、国定教科書ではなかったので日本中で使われたものではありませんが、広く普及した代表的な教科書です。
「植木算」で考えることを知っている私たちは、木は両端にも植えられているのかどうかが、とてもキになります(!)
図2-1を見てください。
両端に植えられていれば木と木の間は4カ所になり、ひとつの間の長さは「15÷4=3.75m」となります(①)。
両端に植えられていなければ②で、間は6ケ所になり、「15÷6=2.5m」。
しかし、この問題の教科書による正解は、「15÷5=3m」なのです。
木の植え方を③のように考えているわけです。
①の計算方法を「植木算」といいます。
植木算のポイントは、道の両端に木を植えるから、木と木の間の数は、木の本数より「1」少なくなる、
すなわち「木の本数-1=木の間の数」と考えることにあります。
明治31年に出た『算術問題の解き方』という本では、植木算の考えか方を
「片手を広げるとき、5本の指と指との間隔は4つあり、このことを心裡に銘記すべし」
と説明しています。
』
<■>
「植木算」なる言葉があることをはじめて知った。
少なくとも私は小学校でも中学校でもこの言葉は習っていない。
経験としては半世紀以上も昔に出会っている。
小学校の時である、先生がこんなたぐいの問題を出した。
「3mのところに、50cmおきに花を植えると花は何本いるか」
算術的には6本になる(300cm÷50cm=6)。
50人クラスのほとんど(中には問題の意味がわからない生徒が一人二人いた)が「6本」と答えていた。
だが、どういうわけか自分だけ「7本」にしていた。
どうやったかというと、なんてことはない試験用紙に線を引いて、その線を短い縦線で区切っていった。
一つの線分を50cmとして6つの線分が引けたところで3mとして、その線とタテ区切り線の交点’を数えたら「7ケ」であり、答えを「7」としたのである。
実をいうとその前に伏線がある。
試験で先生が「300÷50=6」なんて簡単な答えを求めるような問題を出すはずがない、
どこかにヒッカケがあるはずだと、と思い込み、これは絶対「7本」だ、これが正解だと思ったわけである。
で、先生の正解はというとなんと素直に「6本」なのである。
ヒッカケはなかったのである。
逆に先生に呼ばれて「なんで7本なのだ」と質問された。
図にして説明すると、「ああそうか、そうだな」といって、私のもマルにしてくれた。
つまり、先生自身が「植木算」なるものを知らなかった、ということなのである。
たまたま私は絵で解法したために説得力に富んでいた、というわけである。
では、「6」か「7」のどちらが正解かというと、どちらも正解である、ということである。
言い換えると「問題の出し方が間違っている」ということである。
問題が悪い、ということである。
問題は異論のでないように作成すべきだということである。
でも、最近の教育では「植木算」が強く刷り込まれているようです。
本書から別の例をあげてみます。
『
今の私たちは「4km2の土地に1km2ごとにマクドナルドがある」と聞くと、店の数は4店と思うのが普通だと思います。
図3-1の①のように。
では、「3kmの道に1kmごとにマクドナルドがある」と聞くと、店の数は何店と思うでしょうか。
mixi のあるコミュで、この質問をしたところ、「3店」と答える人と「4店」と答える人が半々でした。
(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29978834&comm_id=63370)
4店と答えた人は、植木算的に③のように考えているのでしょう。
長さの場合は、わたしたちには植木算の考え方が刷り込まれているために、
起点がどこなのか、
その起点と店との関係はどうなっているのか
が意識に上り、長さの起点に店を置く人が、半数はいるということのようです。
』
単純にいうと、これも問題が悪いという典型でしょう。
【習文:目次】
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★ クラウド時代とクール革命:角川歴彦
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● 2010/03/10
『
GDPとは国で1年間に作り出された財とサービスの価値から、それを作るのに必要とされる原材料(中間生産物)の価格を差し引いたものをいう。
ハリウッドの対策が日本ではヒットしない現象が起こっている。
日本で何が起こっているのか。
日本経済は1989年に株価がピークをつけて以降、極端な金余り現象がバブル経済の崩壊となり未曾有の長期不況、いわゆる「失われた10年」に突入する。
この長い停滞期間に、日本人の心の中からは、アメリカに盲従する機運が失われていった。
1990年代のバブル崩壊による景気後退の中で、日本人の物欲は急速に衰え、生活様式が様変わりした。
長い低迷気を経て、物質文明への欲求は弱まり、変わって精神文化が成熟していった。
「失われた10年」の中で、
日本は物質文明の国から精神文化の国へと転換
を図り、文化の質が劇的に変化した。
精神文化への傾斜で、アメリカ文化の長所短所を素直に評価できるようになった。
こうした動きはアジアのなかでも日本だけにみられる現象となった。
アジアの他の国々は、まだ「モノへの欲求」が強く、
物質文明を追い求めている段階にある。
「web2.0」現象とは何かと問われれば、百万人単位で人を集まることを可能にしたことだ、と答えよう。
21世紀を特別にしているのは「大衆が創る文化」と「ネットワークによる知性の時代」ということだ。
このような大衆文化の登場が、わずか20年間に起こった。
社会のさまざまな場面で大衆が参加し、大衆の嗜好や意思が社会を動かす機械が増えている。
こうした現象を「クール革命」と名づけよう。
ポストweb2.0の恩恵で人々は気軽につぶやいて、自由に情報発信できるようになった。
大衆地震がコンテンツを作り、公開することでウエブ空間に「巨大知」が形成され、巨大知はリアルタイムの情報発信が増えるにつれてさらに肥大化しつつある。
インターネットの情報は玉石混淆である。
役に立つ情報、面白い情報というのはわずかで、ほとんどは無用で無意味なノイズのような情報だ。
しかし、巨大知は圧倒的な情報量にこそ価値があるのだ。
有りのままの情報を知ることで判断の分岐点になる可能性もある。
質が高いか低いかは関係ない。
「大衆が素直な感想を発信している」ことに大きな意義があるのだ。
気づいてみると日米の大手家電メーカーは、「ソフトウエア会社の下請け」になっている。
googleはリアルタイム検索の価値がわからなかった。
固定化された知識と評価の高いサイトの情報にこだわりすぎたためだ。
グーグル検索から生まれる「集合知」で圧倒的にリードしていても、巨大知がもたらす情報価値は理解を超えていた。
』
『ブラック・スワン』(ナンシー・ニコラス・タレブ著、望月衛訳、ダイヤモンド社刊)
著者はありえないこと、極端な現象を「ブラック・スワン現象」という。
著者は「拡張」可能か、不可能かを区分する。
一定労働した後は勝手に収入が増える仕事は拡張可能であり、
収入を増やすためには新たに時間を費やして仕事を増やさなければならないのは拡張不可能
というのだ。
アメリカ経済は、アイデアを生み出すことに勢力を注ぐ。
その結果として製造業の仕事は減り、同時に生活水準は上がっている。
アメリカはかって世界史上に存在したことがない「知財国家」に近づきつつあるのかもしれない。
見えているものから予測したり、見えていないものを推測することは容易にできる。
黒い白鳥に振り回されることはないし、歴史もジャンプしない。
』
【習文:目次】
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● 2010/03/10
『
GDPとは国で1年間に作り出された財とサービスの価値から、それを作るのに必要とされる原材料(中間生産物)の価格を差し引いたものをいう。
ハリウッドの対策が日本ではヒットしない現象が起こっている。
日本で何が起こっているのか。
日本経済は1989年に株価がピークをつけて以降、極端な金余り現象がバブル経済の崩壊となり未曾有の長期不況、いわゆる「失われた10年」に突入する。
この長い停滞期間に、日本人の心の中からは、アメリカに盲従する機運が失われていった。
1990年代のバブル崩壊による景気後退の中で、日本人の物欲は急速に衰え、生活様式が様変わりした。
長い低迷気を経て、物質文明への欲求は弱まり、変わって精神文化が成熟していった。
「失われた10年」の中で、
日本は物質文明の国から精神文化の国へと転換
を図り、文化の質が劇的に変化した。
精神文化への傾斜で、アメリカ文化の長所短所を素直に評価できるようになった。
こうした動きはアジアのなかでも日本だけにみられる現象となった。
アジアの他の国々は、まだ「モノへの欲求」が強く、
物質文明を追い求めている段階にある。
「web2.0」現象とは何かと問われれば、百万人単位で人を集まることを可能にしたことだ、と答えよう。
21世紀を特別にしているのは「大衆が創る文化」と「ネットワークによる知性の時代」ということだ。
このような大衆文化の登場が、わずか20年間に起こった。
社会のさまざまな場面で大衆が参加し、大衆の嗜好や意思が社会を動かす機械が増えている。
こうした現象を「クール革命」と名づけよう。
ポストweb2.0の恩恵で人々は気軽につぶやいて、自由に情報発信できるようになった。
大衆地震がコンテンツを作り、公開することでウエブ空間に「巨大知」が形成され、巨大知はリアルタイムの情報発信が増えるにつれてさらに肥大化しつつある。
インターネットの情報は玉石混淆である。
役に立つ情報、面白い情報というのはわずかで、ほとんどは無用で無意味なノイズのような情報だ。
しかし、巨大知は圧倒的な情報量にこそ価値があるのだ。
有りのままの情報を知ることで判断の分岐点になる可能性もある。
質が高いか低いかは関係ない。
「大衆が素直な感想を発信している」ことに大きな意義があるのだ。
気づいてみると日米の大手家電メーカーは、「ソフトウエア会社の下請け」になっている。
googleはリアルタイム検索の価値がわからなかった。
固定化された知識と評価の高いサイトの情報にこだわりすぎたためだ。
グーグル検索から生まれる「集合知」で圧倒的にリードしていても、巨大知がもたらす情報価値は理解を超えていた。
』
『ブラック・スワン』(ナンシー・ニコラス・タレブ著、望月衛訳、ダイヤモンド社刊)
著者はありえないこと、極端な現象を「ブラック・スワン現象」という。
著者は「拡張」可能か、不可能かを区分する。
一定労働した後は勝手に収入が増える仕事は拡張可能であり、
収入を増やすためには新たに時間を費やして仕事を増やさなければならないのは拡張不可能
というのだ。
アメリカ経済は、アイデアを生み出すことに勢力を注ぐ。
その結果として製造業の仕事は減り、同時に生活水準は上がっている。
アメリカはかって世界史上に存在したことがない「知財国家」に近づきつつあるのかもしれない。
見えているものから予測したり、見えていないものを推測することは容易にできる。
黒い白鳥に振り回されることはないし、歴史もジャンプしない。
』
【習文:目次】
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★ 桃色トワイライト:イースター島のモアイ:三浦しをん
_
● 2010/03/15[2005/08]
『
○月27日(木)
イースター島に行きたい。
イースター島ってすごくいいところらしい。
忘れないように日記に書いておこう。
Nさんによるとイースター島のモアイって驚くほど大きんだそうだ。
そんな大きな石像が、シマノ断崖絶壁の上に、海に向かって立っている。
というイメージは誤りで、ほとんどのモアイはゴロンゴロンと半ば地面に埋まった状態で転がっているらしい。
スゴイなあ。
モアイは、万博とかで引っ張りだこらしい。
そりゃそうだよな。
あんな謎めいた巨大石像、ぜひパビリオンに飾りたいものだもの。
それで、世界中に貸し出されていくんだけど、律儀にちゃんと返してくるのは日本ぐらいなんですって。
けれど、その律儀さが思いもよらぬ事態を引き起こすこともあるらしい。
モアイを元のあった場所に戻すために、日本人はクレーンとかショベルカーとかを運び入れたらしい。
そんで、その操作方法を島の人にも教えて、つでにクレーンもあげて帰っていったんですって。
そんな重機は持って帰るより、置いていった方が安上がりなんだろう。
島の人たちはもちろん、
「スゲエ、これおもしろいよ!」
ってことで、クレーンに夢中になっちゃった。
地面に埋まっているモアイをどんどん掘り起こして、次々に立て始めているらしい。
考古学的な測量をきちんととか、もちろんいっさいナシ。
「今度はオレにやらせてくれ!」
「ずるいぞ、次は俺だぞ!」
ってな感じで、我先にとモアイを直立させる。
さらに、変な帽子をかぶっているモアイがいるじゃない。
あの帽子(もちろん巨大)もそのへんに落ちてるらしんだけど、クレーンで帽子を拾って、勝手に適当なモアイにかぶせちゃってるそうだ。
「このモアイ、前に来たときは帽子なんてかぶってなかったよな‥‥」
っていうのが、島のそこここに立っているそうだ。
ブラボー!
いいよ、すごくいい島だよ。
イースター島に行きたい。
』
【習文:目次】
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● 2010/03/15[2005/08]
『
○月27日(木)
イースター島に行きたい。
イースター島ってすごくいいところらしい。
忘れないように日記に書いておこう。
Nさんによるとイースター島のモアイって驚くほど大きんだそうだ。
そんな大きな石像が、シマノ断崖絶壁の上に、海に向かって立っている。
というイメージは誤りで、ほとんどのモアイはゴロンゴロンと半ば地面に埋まった状態で転がっているらしい。
スゴイなあ。
モアイは、万博とかで引っ張りだこらしい。
そりゃそうだよな。
あんな謎めいた巨大石像、ぜひパビリオンに飾りたいものだもの。
それで、世界中に貸し出されていくんだけど、律儀にちゃんと返してくるのは日本ぐらいなんですって。
けれど、その律儀さが思いもよらぬ事態を引き起こすこともあるらしい。
モアイを元のあった場所に戻すために、日本人はクレーンとかショベルカーとかを運び入れたらしい。
そんで、その操作方法を島の人にも教えて、つでにクレーンもあげて帰っていったんですって。
そんな重機は持って帰るより、置いていった方が安上がりなんだろう。
島の人たちはもちろん、
「スゲエ、これおもしろいよ!」
ってことで、クレーンに夢中になっちゃった。
地面に埋まっているモアイをどんどん掘り起こして、次々に立て始めているらしい。
考古学的な測量をきちんととか、もちろんいっさいナシ。
「今度はオレにやらせてくれ!」
「ずるいぞ、次は俺だぞ!」
ってな感じで、我先にとモアイを直立させる。
さらに、変な帽子をかぶっているモアイがいるじゃない。
あの帽子(もちろん巨大)もそのへんに落ちてるらしんだけど、クレーンで帽子を拾って、勝手に適当なモアイにかぶせちゃってるそうだ。
「このモアイ、前に来たときは帽子なんてかぶってなかったよな‥‥」
っていうのが、島のそこここに立っているそうだ。
ブラボー!
いいよ、すごくいい島だよ。
イースター島に行きたい。
』
【習文:目次】
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2012年3月28日水曜日
★ 官僚の責任:残された選択肢は一つ:古賀茂明
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● 2011/08/16[2011/07/29]
官僚の責任:古賀茂明著
『
まえがき
政治家たちがどうしようもないのは事実である。
その無能、無責任ぶりには腹が立ってしかたがないという国民が大多数だと思う。
しかしその裏には、政治家同様、この非常事態に際して自らの責任を放棄して恥じない人間たちがいる。
それどころか、自分たちの利権維持のために汲々として懲りない人間たちがいる。
そう、霞が関の住人である官僚たちである。
これだけの国難(東日本大震災)にあってもなお、無意識のうちに省益のことを考え、みずからの利権確保に奔走する彼らの姿は、政治家と違って国民の目に直接ふれることが少ないだけに余計タチが悪い。
官僚の思考がそのような回路を辿るのは、もはや彼らの習性と言うしかない。
何か物事を進めるときには自動的に自分たちの利益を最優先するように、いわばプログラミングされているのである。
「官僚=優秀」----そういうイメージを一般の方々は抱いているかもしれない。
が、だとすれば、いまこの国を覆っている重苦しさはどういうことなのか。
ほんとうに官僚が優秀であるならば、どうしてこの国は、国民の多くが将来に対して明るい希望を持ちにくくなってしまったのか。
つまり、官僚はけっして優秀ではないし、必ずしも国民のことなど考えて仕事をしていないのだ。
たとえ官僚になるまでは優秀だったとしても、いつの間にか「国民のために働く」という本分を忘れ、省益の追求にうつつを抜かす典型的な「役人」に堕していく。
それが「霞が関村」の実態なのである。
』
『
おわりに
日本のみならず、世界的にも大きなショックを与えた東日本大震災から、かなりの時間が経過した。
被災地の人々をはじめ、日本国民は何とか復興へと踏み出しつつあるが、肝心の政府からは、復興策のの内容と道筋についての明確なメッセージは示されないままだ。
<<略>>
こうして見てくると、
民主党政権は既得権グループと闘おうとしていない
ことがわかる。
農業(農協)保護、中小企業(団体)保護の姿勢は自民党と基本的には同じ。
本書では取り上げなかったが、医師会擁護も同じだ。
民主党や自民党のような「バラマキの成長戦略」としてではなく、おもに
制度改革を促す新たな「闘う成長戦略」
を実行しなければならない。
そして公務員改革を断行して、官僚が真の政治家を全力で支える。
それが理想だ。
現実には、それがかない可能性はかなり低い。
日本の財政破綻は「想定外」に早く到来する可能性が高くなっているといっても過言ではない。
一刻も早い公務員制度改革が必要なのだ。
日本が将来に向けて行わなければならないさまざまな改革を、効果的に進める大前提となるのが公務員改革だからである。
役所に限ったことではないのだが、あるものを別の方向へ変えようとすると、必ずそれを押し戻そうとする力が働く。
したがって、まったく白紙から線を引き直すしかないのだ。
役人にそれをするだけのインセンテイブはない。
つまり、官僚には自浄能力は期待できないのだ。
変えられるのは、やはり政治家だ。
自民党は、かっての自民党体質を拭えない長老に支配されている。
かれらに変革を求めるのは無理だ。
なぜなら、彼らは官僚に育てられたと言ってもいいからだ。
自民党の政治家と官僚はもちつもたれつの関係なのだ。
その点、民主党にはそういった縛りがないぶん、官僚に妙な気を使う必要はなかった。
改革を断行できる土壌はあった。
だが、すでに述べたような理由で挫折。
結果、むしろ官僚支配が強まってしまった。
とはいえ、
「変えよう、かえなければいけない」
というメンタリテイは、まだ失われていない。
政権についてかなりの時間が経過したことで、官僚との付き合い方や使い方をそれなりに学び、身につけてきている。
そうなると残された選択肢は一つ。
改革への意志をもった民主党の政治家を中心に、志を同じくする自民党の若手がごうりゅうすることだ。
民主と自民の大連立など本気で願っているような古いタイプ
----民主党ならオザワグループのような人たちや、現政権内部にもいる改革派ぶった権力亡者たち、自民党なら「来た道に戻りたい」グループの長老たち-----
の政治家にはお引き取り願ったうえで、____
<<略>>
そういうダイナミックな動きが起き、その代表者が真の意味での「政治主導」、いや、総理が直接、各省庁、各大臣に支持できる「総理主導」の仕組みを実現しない限り、改革はどこまでいっても難しいのではないかと思う。
政治家たちを動かすのは何か。
国民の強い意志---やはりこれしかない。
誤解を恐れず言いたい。
今回の東日本大震災は、よりよい明日を築くための契機となりうる。
なにがなんでも絶対にそうしなければいけない。
日本にはポテンシャルがある。
けっしてヤル気がないわけではない。
あとは、行動に移すだけなのだ。
2011年6月 古賀茂明
』
『
あとがきを書き終えたあとで
本書校了の3日前、すなわち2011年6月24日。
私は経産省の松永和夫事務次官から正式に退職勧奨の通告を受けた。
どういうわけか、人事権者であり海江田万里経済産業大臣とは結局、一度も会わせてもらえなかった。
これまで一年半以上、次のポストを探すから待っていろ、と言われ続けてきた。
退職期日は7月15日。
猶予は3週間足らず。
先方による一方的な通告だった。
当日は、私が大腸ガンの手術を受けから5年目の一連の定期検査の一つが行われる日である。
状況がこのまま推移すれば、役人生活最後の日は、残念ながら休暇で終了となる。
かりにそうなれば、7月16日からは晴れて自由の身だ。
ただし、その裏側には仕事がないという現実もつきまとう。
しかし、怖いものは何もない。
役所にいようがいまいが、日本人であることには変わりない。
いままでどおり、次代を担う若者たちが活躍できる舞台を整えるべく、どこにいても力を尽くしていきたいと思う。
』
(私見:
「残された選択肢はひとつしかない」というのは、そうだろうかと思う。
それはいまの体制での残された選択肢に過ぎない。
今、日本は変化している。
「変革ではない」、変化しているのである。
「イワシ」の話ではないが、数十年周期でやってくるレジーム・シフトの過程に入ってきている、といった方がわかりやすいかもしれない。
明らかに変化の過程に入っている。
人が意志的に変革をするのではなく、既存の体制自体が崩れる過程に入ってきている。
例えば、大阪維新の会の出現などその典型であろう。
これ一見、個人的なハシズムのように見えるが、実際は生態的変化であり、それに橋下氏がうまく乗っているにすぎない。
おそらく今後、既成のスタイルにはみあたらないような形で、
第二波、第三波と生態的な変化
が押し寄せてくるだろう。
そこでは、日本を作っている既存の憲法などというものを易々と乗り越えてしまっている。
それは憲法改正論議といったものではなく、体制の変化なのである。
体制の生態的変化なら、もはや憲法改正などというのは二次的なもの、つまり
「オマケの手続き」に過ぎなくなってくる
のである。
大阪都などという構想は既存の思考の中からは絶対に生まれないものである。
今、そういった強いていえば
魑魅魍魎とおもわれそうなもの
が徘徊しはじめている。
これからもっともっとすごいものが現れるだろう。
日本は変化している。
何かの力に突き動かされて、変化しようとしている。
それは人間の恣意的変革ではない何モノかである。
日本はそういう時代過程に入りつつある。
おそらく平成20年代を最後に自民党、小沢グループ、石原老人、亀井老人、平沼老人といったところは賞味期限切れで消えていくだろう。
30年代に姿を残こしているのは民主党の若手、大阪維新の会、そして新しく台頭してくるであろう魑魅魍魎妖怪変化グループといったところだろう。
数十年まえにレジームシフトがおこり、日本は人口増加という時代動向に乗せられた。
それが経済を押し上げるという形で動いた。
新たなレジームシフトは人口減少という生態変化の時代に入った。
まさに「イワシはどこへ消えたのか」ならぬ、
「日本人はどこへ消えたのか」
がおころうとしている。
今世紀半ばの人口は1億人前後になると見込まれている。
ということはこれから向こう40年にわたって日本からは毎年70万人の人が消えていく。
70万人とはどれほどの数か。
静岡市が71万人、世田谷区についで2番目に人口の多い練馬区も同じく71万人。
大雑把にいうと、毎年静岡市あるいは練馬区が日本から一づつ消えていくことになる。
それが少なくとも40年、おそらくは60年続くだろうと予想されている。
推定では8,500万人くらいになるまで、日本人は消え続けるだろうという。
もちろん永遠に減り続けることはない。
無限に増え続けることがなかったように。
はるかな先の話だが、そこでまた新たなレジームシフトが起こることになるだろう、と思われる。
この生態的な問題がすべての今後の日本の在り方の基本になる。
「人が減り続ける」という動かしがたい現実が目の前ある。
こういう動きのなかでどういう形をとっていくのがもっとも適当かということである。
この展望の下で、明日の日本を作っていくことになる。
レジームシフト、すなわち生態的変化が目に見える形で現れているのである。
これに解答する形でしか、政治改革あるいは官僚改革は答えられないはずである。
「闘う成長戦略」などという言葉遊びは空虚だ、
ということである。
【習文:目次】
_
● 2011/08/16[2011/07/29]
官僚の責任:古賀茂明著
『
まえがき
政治家たちがどうしようもないのは事実である。
その無能、無責任ぶりには腹が立ってしかたがないという国民が大多数だと思う。
しかしその裏には、政治家同様、この非常事態に際して自らの責任を放棄して恥じない人間たちがいる。
それどころか、自分たちの利権維持のために汲々として懲りない人間たちがいる。
そう、霞が関の住人である官僚たちである。
これだけの国難(東日本大震災)にあってもなお、無意識のうちに省益のことを考え、みずからの利権確保に奔走する彼らの姿は、政治家と違って国民の目に直接ふれることが少ないだけに余計タチが悪い。
官僚の思考がそのような回路を辿るのは、もはや彼らの習性と言うしかない。
何か物事を進めるときには自動的に自分たちの利益を最優先するように、いわばプログラミングされているのである。
「官僚=優秀」----そういうイメージを一般の方々は抱いているかもしれない。
が、だとすれば、いまこの国を覆っている重苦しさはどういうことなのか。
ほんとうに官僚が優秀であるならば、どうしてこの国は、国民の多くが将来に対して明るい希望を持ちにくくなってしまったのか。
つまり、官僚はけっして優秀ではないし、必ずしも国民のことなど考えて仕事をしていないのだ。
たとえ官僚になるまでは優秀だったとしても、いつの間にか「国民のために働く」という本分を忘れ、省益の追求にうつつを抜かす典型的な「役人」に堕していく。
それが「霞が関村」の実態なのである。
』
『
おわりに
日本のみならず、世界的にも大きなショックを与えた東日本大震災から、かなりの時間が経過した。
被災地の人々をはじめ、日本国民は何とか復興へと踏み出しつつあるが、肝心の政府からは、復興策のの内容と道筋についての明確なメッセージは示されないままだ。
<<略>>
こうして見てくると、
民主党政権は既得権グループと闘おうとしていない
ことがわかる。
農業(農協)保護、中小企業(団体)保護の姿勢は自民党と基本的には同じ。
本書では取り上げなかったが、医師会擁護も同じだ。
民主党や自民党のような「バラマキの成長戦略」としてではなく、おもに
制度改革を促す新たな「闘う成長戦略」
を実行しなければならない。
そして公務員改革を断行して、官僚が真の政治家を全力で支える。
それが理想だ。
現実には、それがかない可能性はかなり低い。
日本の財政破綻は「想定外」に早く到来する可能性が高くなっているといっても過言ではない。
一刻も早い公務員制度改革が必要なのだ。
日本が将来に向けて行わなければならないさまざまな改革を、効果的に進める大前提となるのが公務員改革だからである。
役所に限ったことではないのだが、あるものを別の方向へ変えようとすると、必ずそれを押し戻そうとする力が働く。
したがって、まったく白紙から線を引き直すしかないのだ。
役人にそれをするだけのインセンテイブはない。
つまり、官僚には自浄能力は期待できないのだ。
変えられるのは、やはり政治家だ。
自民党は、かっての自民党体質を拭えない長老に支配されている。
かれらに変革を求めるのは無理だ。
なぜなら、彼らは官僚に育てられたと言ってもいいからだ。
自民党の政治家と官僚はもちつもたれつの関係なのだ。
その点、民主党にはそういった縛りがないぶん、官僚に妙な気を使う必要はなかった。
改革を断行できる土壌はあった。
だが、すでに述べたような理由で挫折。
結果、むしろ官僚支配が強まってしまった。
とはいえ、
「変えよう、かえなければいけない」
というメンタリテイは、まだ失われていない。
政権についてかなりの時間が経過したことで、官僚との付き合い方や使い方をそれなりに学び、身につけてきている。
そうなると残された選択肢は一つ。
改革への意志をもった民主党の政治家を中心に、志を同じくする自民党の若手がごうりゅうすることだ。
民主と自民の大連立など本気で願っているような古いタイプ
----民主党ならオザワグループのような人たちや、現政権内部にもいる改革派ぶった権力亡者たち、自民党なら「来た道に戻りたい」グループの長老たち-----
の政治家にはお引き取り願ったうえで、____
<<略>>
そういうダイナミックな動きが起き、その代表者が真の意味での「政治主導」、いや、総理が直接、各省庁、各大臣に支持できる「総理主導」の仕組みを実現しない限り、改革はどこまでいっても難しいのではないかと思う。
政治家たちを動かすのは何か。
国民の強い意志---やはりこれしかない。
誤解を恐れず言いたい。
今回の東日本大震災は、よりよい明日を築くための契機となりうる。
なにがなんでも絶対にそうしなければいけない。
日本にはポテンシャルがある。
けっしてヤル気がないわけではない。
あとは、行動に移すだけなのだ。
2011年6月 古賀茂明
』
『
あとがきを書き終えたあとで
本書校了の3日前、すなわち2011年6月24日。
私は経産省の松永和夫事務次官から正式に退職勧奨の通告を受けた。
どういうわけか、人事権者であり海江田万里経済産業大臣とは結局、一度も会わせてもらえなかった。
これまで一年半以上、次のポストを探すから待っていろ、と言われ続けてきた。
退職期日は7月15日。
猶予は3週間足らず。
先方による一方的な通告だった。
当日は、私が大腸ガンの手術を受けから5年目の一連の定期検査の一つが行われる日である。
状況がこのまま推移すれば、役人生活最後の日は、残念ながら休暇で終了となる。
かりにそうなれば、7月16日からは晴れて自由の身だ。
ただし、その裏側には仕事がないという現実もつきまとう。
しかし、怖いものは何もない。
役所にいようがいまいが、日本人であることには変わりない。
いままでどおり、次代を担う若者たちが活躍できる舞台を整えるべく、どこにいても力を尽くしていきたいと思う。
』
(私見:
「残された選択肢はひとつしかない」というのは、そうだろうかと思う。
それはいまの体制での残された選択肢に過ぎない。
今、日本は変化している。
「変革ではない」、変化しているのである。
「イワシ」の話ではないが、数十年周期でやってくるレジーム・シフトの過程に入ってきている、といった方がわかりやすいかもしれない。
明らかに変化の過程に入っている。
人が意志的に変革をするのではなく、既存の体制自体が崩れる過程に入ってきている。
例えば、大阪維新の会の出現などその典型であろう。
これ一見、個人的なハシズムのように見えるが、実際は生態的変化であり、それに橋下氏がうまく乗っているにすぎない。
おそらく今後、既成のスタイルにはみあたらないような形で、
第二波、第三波と生態的な変化
が押し寄せてくるだろう。
そこでは、日本を作っている既存の憲法などというものを易々と乗り越えてしまっている。
それは憲法改正論議といったものではなく、体制の変化なのである。
体制の生態的変化なら、もはや憲法改正などというのは二次的なもの、つまり
「オマケの手続き」に過ぎなくなってくる
のである。
大阪都などという構想は既存の思考の中からは絶対に生まれないものである。
今、そういった強いていえば
魑魅魍魎とおもわれそうなもの
が徘徊しはじめている。
これからもっともっとすごいものが現れるだろう。
日本は変化している。
何かの力に突き動かされて、変化しようとしている。
それは人間の恣意的変革ではない何モノかである。
日本はそういう時代過程に入りつつある。
おそらく平成20年代を最後に自民党、小沢グループ、石原老人、亀井老人、平沼老人といったところは賞味期限切れで消えていくだろう。
30年代に姿を残こしているのは民主党の若手、大阪維新の会、そして新しく台頭してくるであろう魑魅魍魎妖怪変化グループといったところだろう。
数十年まえにレジームシフトがおこり、日本は人口増加という時代動向に乗せられた。
それが経済を押し上げるという形で動いた。
新たなレジームシフトは人口減少という生態変化の時代に入った。
まさに「イワシはどこへ消えたのか」ならぬ、
「日本人はどこへ消えたのか」
がおころうとしている。
今世紀半ばの人口は1億人前後になると見込まれている。
ということはこれから向こう40年にわたって日本からは毎年70万人の人が消えていく。
70万人とはどれほどの数か。
静岡市が71万人、世田谷区についで2番目に人口の多い練馬区も同じく71万人。
大雑把にいうと、毎年静岡市あるいは練馬区が日本から一づつ消えていくことになる。
それが少なくとも40年、おそらくは60年続くだろうと予想されている。
推定では8,500万人くらいになるまで、日本人は消え続けるだろうという。
もちろん永遠に減り続けることはない。
無限に増え続けることがなかったように。
はるかな先の話だが、そこでまた新たなレジームシフトが起こることになるだろう、と思われる。
この生態的な問題がすべての今後の日本の在り方の基本になる。
「人が減り続ける」という動かしがたい現実が目の前ある。
こういう動きのなかでどういう形をとっていくのがもっとも適当かということである。
この展望の下で、明日の日本を作っていくことになる。
レジームシフト、すなわち生態的変化が目に見える形で現れているのである。
これに解答する形でしか、政治改革あるいは官僚改革は答えられないはずである。
「闘う成長戦略」などという言葉遊びは空虚だ、
ということである。
【習文:目次】
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2012年3月25日日曜日
★ イワシはどこへ消えたのか:レジーム・シフト:本田良一
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● 2009/03/25
図でみるようにマイワシは88年をピークに減り始めた。
一方で、サンマは88年を境にづ得始めた。
後でわかったことだが、この88年に海では私たちにきづかない間に「異変」が起きていたのだ。
マイワシが減り、サンマが増える。
このようにある種の魚が減るにつれて、別の魚が増えいく現象は「魚種交代」として昔から経験的に知られていた。
ときに魚種交代は社会や経済に大きな影響を与える。
では、なぜ魚種交代は起きるのだろう。
人間が獲り過ぎるからだろうか。
サンマもマイワシと同様、いつか消えてしまうのであろうか。
食卓にのぼることが多いイカ、ブリ、カツオなどは魚種交代とは無関係なのだろうか。
1988年、海にどんな「異変」がおきたのだろうか。
この疑問を解決する案内人となり、キーワードとなるのが「レジーム・シフト」だ。
レジーム・シフトとは地球規模のシステム変動を示す新しい概念だ。
<略>
このレジーム・チェンジが、大気-海洋-海洋生態系という仕組みの基本構造(レジーム)が「数十年」の周期で転換する「レジーム・シフト」という概念に発展する。
この現象は海の中では、「魚種交代」という形で現れる。
「レジーム」とは「体制」のことだ。
政界や経済界で「戦後レジームからの脱却」という場合は、戦後の政治、経済の仕組みを大きく変えることを意味する。
同様に、この「レジーム・シフト」は、気候や生態系などが数十年周期で転換することを指す。
環境は
「大気-海洋-海洋生態系という地球の基本的な構造(レジーム)」
によって決定される。
10年ぶりに改定され、2008年1月に発売された『広辞苑』第6版にも「レジーム・シフト」は新語として採用された。
それには「大気・海洋・海洋生態系からなる地球の動態の基本構造が数十年間隔で転換すること」という説明がある。
学会、社会で認知されたとはいえ、レジーム・シフトについての一般の理解はまだ少ない。
だが、環境問題の重要性と、それへの関心が今後ますます高まるにつれて、この概念は大きな役割を果たすことになる。
日本は周囲を生みに囲まれ、6,852の島(周囲100m以上)から構成されている。
そのうち約400の島に人が住む海洋国家である。
最東端の東京都南鳥島から最西端の沖縄県与那国島まで「3,143km」
最北端の北方領土の択捉島から最南端の東京都沖ノ鳥島まで「3,020km」。
沖ノ鳥島は東にいくと、米国ハワイのホノルルよりも南にあたり、西へいくと、ベトナムのハノイより南に位置する。
国土面積は「約38万km2」しかなく、世界で59番目になる。
だが領海を含む排他的経済水域は、その約11.7倍と広がり、「約447万km2」となる。
これは世界第6番目の広さになる。
ある年を境に環境が大きく変わってしまうことがある。
これを「レジーム・シフト」という。
それは社会生活や経済活動の中でも見られる。
2008年秋に、アメリカの住宅バブル崩壊に端を発した金融危機は、瞬く間に世界的な大不況に発展した。
経済環境が一変し、派遣社員など非正規労働者に加え、正社員のリストラの嵐が吹き始めた。
いわば「経済のレジーム・シフト」がおきたといえるだろう。
ある事件や政策をきっかけに、内閣支持率が大きく低下し、派閥やグループの動きが加速する。
政界再編の動きが出たり、さらには総選挙の結果、与野党が逆転して政権交代が起こる。
これらは「政界のレジーム・シフト」といえないだろうか。
「資源が低いときは、じっと我慢してチャンスを待つ。
このとき資源回復の芽を摘んではならない」
レジーム・シフトの父、東北大学名誉教授の川崎健さんの指摘は、そうした状況でも示唆的だ。
環教の変化を常にモニターして、その動向を把握しておくこと。
【習文:目次】
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● 2009/03/25
図でみるようにマイワシは88年をピークに減り始めた。
一方で、サンマは88年を境にづ得始めた。
後でわかったことだが、この88年に海では私たちにきづかない間に「異変」が起きていたのだ。
マイワシが減り、サンマが増える。
このようにある種の魚が減るにつれて、別の魚が増えいく現象は「魚種交代」として昔から経験的に知られていた。
ときに魚種交代は社会や経済に大きな影響を与える。
では、なぜ魚種交代は起きるのだろう。
人間が獲り過ぎるからだろうか。
サンマもマイワシと同様、いつか消えてしまうのであろうか。
食卓にのぼることが多いイカ、ブリ、カツオなどは魚種交代とは無関係なのだろうか。
1988年、海にどんな「異変」がおきたのだろうか。
この疑問を解決する案内人となり、キーワードとなるのが「レジーム・シフト」だ。
レジーム・シフトとは地球規模のシステム変動を示す新しい概念だ。
<略>
このレジーム・チェンジが、大気-海洋-海洋生態系という仕組みの基本構造(レジーム)が「数十年」の周期で転換する「レジーム・シフト」という概念に発展する。
この現象は海の中では、「魚種交代」という形で現れる。
「レジーム」とは「体制」のことだ。
政界や経済界で「戦後レジームからの脱却」という場合は、戦後の政治、経済の仕組みを大きく変えることを意味する。
同様に、この「レジーム・シフト」は、気候や生態系などが数十年周期で転換することを指す。
環境は
「大気-海洋-海洋生態系という地球の基本的な構造(レジーム)」
によって決定される。
10年ぶりに改定され、2008年1月に発売された『広辞苑』第6版にも「レジーム・シフト」は新語として採用された。
それには「大気・海洋・海洋生態系からなる地球の動態の基本構造が数十年間隔で転換すること」という説明がある。
学会、社会で認知されたとはいえ、レジーム・シフトについての一般の理解はまだ少ない。
だが、環境問題の重要性と、それへの関心が今後ますます高まるにつれて、この概念は大きな役割を果たすことになる。
日本は周囲を生みに囲まれ、6,852の島(周囲100m以上)から構成されている。
そのうち約400の島に人が住む海洋国家である。
最東端の東京都南鳥島から最西端の沖縄県与那国島まで「3,143km」
最北端の北方領土の択捉島から最南端の東京都沖ノ鳥島まで「3,020km」。
沖ノ鳥島は東にいくと、米国ハワイのホノルルよりも南にあたり、西へいくと、ベトナムのハノイより南に位置する。
国土面積は「約38万km2」しかなく、世界で59番目になる。
だが領海を含む排他的経済水域は、その約11.7倍と広がり、「約447万km2」となる。
これは世界第6番目の広さになる。
ある年を境に環境が大きく変わってしまうことがある。
これを「レジーム・シフト」という。
それは社会生活や経済活動の中でも見られる。
2008年秋に、アメリカの住宅バブル崩壊に端を発した金融危機は、瞬く間に世界的な大不況に発展した。
経済環境が一変し、派遣社員など非正規労働者に加え、正社員のリストラの嵐が吹き始めた。
いわば「経済のレジーム・シフト」がおきたといえるだろう。
ある事件や政策をきっかけに、内閣支持率が大きく低下し、派閥やグループの動きが加速する。
政界再編の動きが出たり、さらには総選挙の結果、与野党が逆転して政権交代が起こる。
これらは「政界のレジーム・シフト」といえないだろうか。
「資源が低いときは、じっと我慢してチャンスを待つ。
このとき資源回復の芽を摘んではならない」
レジーム・シフトの父、東北大学名誉教授の川崎健さんの指摘は、そうした状況でも示唆的だ。
環教の変化を常にモニターして、その動向を把握しておくこと。
【習文:目次】
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2012年3月24日土曜日
:解体新書 巻の一
_
● 神保町ミュージアムより
『
解体新書 巻の一
日本 若狭 杉田玄白翼 訳
同藩 中川淳庵麟 校
東都 石川玄常世通参
官医 東都 桂川甫周世民閲
◇第一 解体大意(解剖学総論)
◯.解体の書(解剖書)とは解剖の方法を述べる本である。
また、身体の形および名称、ならびに諸々の臓器の外形および内面とその主たる働きを説明するものである。
◯.こうしたことを明らかにしたいと思う者は、ただちに死体解剖をするのにまさることはない。
そのつぎに禽獣を解剖するのがよい。
◯.解剖の方法は6つある。
その一は、骨および間接を調べることである。
その二は、腺のある場所を調べることである。
(これは中国人もいままでに記述していないものであり、大きさも大小さまざまで、場所もいろいろな所にある)
その三は、神経を調べることである。
(これは、中国人がいままでに記述していないもので、視覚、聴覚、言動はこれによって支配されているのである)
その四は、脈管の走行および脈の触れるところを調べることである。
(これは中国人の述べていることと一致しない)
その五は、臓器の形状およびその作用を調べることである。
その六は、筋肉の走行を調べることである。
(これは、中国人の述べていることと一致しない)
◯.解剖の方法をくわしく知りたいと思うものに要点が3つある。
その一は、解剖にくわしい者に師事することである。
その二は、同志と道具が揃うことである。
その三は、古今の解剖書をすべて熟読すべきことである。
◯.解剖する者が重要と考えていることに4つある。
その一は、身体の外形を知ることである。
その二は、内部構造を知ることである。
その三は、病因および死因を知ることである。
その四は、死体が腐敗して朽ちる過程をよく観察して、全貌をしることである。
◇第二 形体名目篇(形体、名称)
<<以下 略>>
』
【習文:目次】
_
● 神保町ミュージアムより
『
解体新書 巻の一
日本 若狭 杉田玄白翼 訳
同藩 中川淳庵麟 校
東都 石川玄常世通参
官医 東都 桂川甫周世民閲
◇第一 解体大意(解剖学総論)
◯.解体の書(解剖書)とは解剖の方法を述べる本である。
また、身体の形および名称、ならびに諸々の臓器の外形および内面とその主たる働きを説明するものである。
◯.こうしたことを明らかにしたいと思う者は、ただちに死体解剖をするのにまさることはない。
そのつぎに禽獣を解剖するのがよい。
◯.解剖の方法は6つある。
その一は、骨および間接を調べることである。
その二は、腺のある場所を調べることである。
(これは中国人もいままでに記述していないものであり、大きさも大小さまざまで、場所もいろいろな所にある)
その三は、神経を調べることである。
(これは、中国人がいままでに記述していないもので、視覚、聴覚、言動はこれによって支配されているのである)
その四は、脈管の走行および脈の触れるところを調べることである。
(これは中国人の述べていることと一致しない)
その五は、臓器の形状およびその作用を調べることである。
その六は、筋肉の走行を調べることである。
(これは、中国人の述べていることと一致しない)
◯.解剖の方法をくわしく知りたいと思うものに要点が3つある。
その一は、解剖にくわしい者に師事することである。
その二は、同志と道具が揃うことである。
その三は、古今の解剖書をすべて熟読すべきことである。
◯.解剖する者が重要と考えていることに4つある。
その一は、身体の外形を知ることである。
その二は、内部構造を知ることである。
その三は、病因および死因を知ることである。
その四は、死体が腐敗して朽ちる過程をよく観察して、全貌をしることである。
◇第二 形体名目篇(形体、名称)
<<以下 略>>
』
【習文:目次】
_
: 凡例
_
『
凡例
一.
この書はオランダ人ヨハン・アタン・キュルムスが著した「ターヘル・アナトミア」という書物を訳したものである。
ここ二百年来、オランダ人を招き、彼らにオランド医術を学んだ者は多かった。
だが、その人々はわずか一、二の治療法を学んだだけでオランダ医術を生活の資としていた。
とても蘭書を読んで、医術を修業するまでにはならなかった。
思うにオランダの国の技術はひじょうにすぐれている。
知識や技術の分野において、人力の及ぶかぎりきわめ尽くしていないものはない。
そのなかでももっともすみやかに世界に恩恵を与えることができるものは医術である。
ただ、その言語がチンプンカンプンで、文字が曲がり釘のようであり、文法がまた違うので、よい本やよい治療法があるといっても、それらがせけんに広く流布されて、ほめたたえられることはなかった。
自分の家は代々オランダ流の外科を家業としてきた。
また、それに関する日本語本も所蔵する。
私は家業を継いで、子供のときからつねにこの方面に慣れ親しみ、見習ってきた。
それで外科書を覗き見ることもあったのである。
しかし世人の目にふれることのひじょうにまれな本であるから、むずかしくて分からないことについて質問しようにも質ねようがなく、どうしてよいかわらず、コ師[目の見えない楽士]が介添えを探しているような思いをしていた。
こうした状態におかれ、思い切って気持ちを切り替え、新たに中国の古今の遺書を読み始めることにして、ここ数年それをくり返し、ていねいに読んできたのである。
つづいて中国の治療法や学説を研究してみると、それは無理なこじつけが多く、しかも抜けたところがあるため、これをはっきりさせようとすると、ますますわからなくなり、これを正そうとするといよいよ間違ってしまい、日常使えるような治療法は一つもない。
それで疲れ果ててしまい、ちょうど邯鄲で歩き方を真似た少年のようになってしまった。
思うに蘭書の分かりにくいところは十のうち七に過ぎない。
だが、中国の学説は、使えるものは十のうち一つあればよいほうである。
そこで再び家学[オランダ流外科]を一所懸命に勉強して、他の流派に目を向けないことにした。
近頃、私の医術も多少人に知られるようになって、治療を求めてくる病人の数は、日を追ってふえてきた。
こうなるとまた漢方も蘭方も不十分なことに情けなく思うことがある。
そこで広く世間に同学の士を求めると、一、二人私の気持ちをよく分かってくれる人を得ることができたのである。
このような状況のなかで、しだいにオランダの医書を読もうということになり、それをあわてずゆっくりと、相談しながら読んでいったところ、歳月はどんどん過ぎ去っていったが、そのうちじつに氷が解けるようにすらすらと筋道が分かるよになったのである。
その後、この内容を実物に照らし合わせて調べてみると、ぴったり一致して心理を得とくすることができた。
したがって解剖書を読み、そこに述べてある学説どおりに解剖して視れば、しくじることはひとつもない。
内蔵、関節、骨、脳、血管、神経の位置と正しい配列をはじめて知ることができたのである。
なんと愉快なことではないか。
そこで漢方の学説をみると、前者[蘭方]はほぼ正しいけれど、後者[漢方]はひとんどでたらめに近い。
ただ、霊枢[中国のもっとも古い医書]に
「解剖して、観察する」
という文章があり、中国でも大昔、解剖が行われたのは確かである。
ただ後世の人にそれが伝わらず、そのかすだけを信じて、でたらめを言い、そのまま数千年にわたって真実を識らなかったとはなんと哀しいことではないか、ほんとうに残念なことである。
よく考えると、解剖は外科の要となるものでかならず知っておかなければいけない。
いろいろな症状が生ずる場所は解剖を学ばないで知ることはできない。
オランダ人の医術が素晴らしいのもここにその根元がある。
だからとくに医術の上達を望む者は、かりそめにも解剖学を土台にして始めるのでなければ、けっして望みを達することはできない。
そこで、わが国の医者で解剖学を無視している者は、はたしてどういう心構えでいるのであろうか。
彼らは骨身を削って為し遂げた業績がないことはもっともなことである。
だから自分は多くの蘭書のなかからとくに解剖書を抜き出して翻訳を行い、初心者に手本として示した。
ひとたび道がひらければ、あとはすみやかにすべてが理解されるようになる。
その時がくれば、あとは死体をうまく活用し、骨と肉とのじつに巧妙な関係を会得することができるようになることを期待する。
ああ、私がこの仕事をこれまでにやり遂げることができたのじゃ、実に天の恵み深い心によるものである。
それがなくしてどうして人力のみでこれを成し遂げることができたであろうか。
世間の人々のうちオランダ医学に関心ある人に対して、私はみずからそそかに郭槐(注:カクカイ:カイは当て字:)[中国戦国時代の燕の賢人。言い出した当人から始めることのたとえを引いた人として有名]にたとえている。
もし、そのことで世間から非難や攻撃を受けても、それに負けてはいない。
一.
アナトミイは解体と訳す。
ターヘルは表である。
したがって、いまこの本を『解体新書』と題した。
一.
原本には注があったが、今回は形体に関するものだけ選んで訳し、他はすべて省略した。
一.
本書における文章の行のとりかたは原本に従っていて、翻訳の過程で改めてはいない。
「これに属するもの」とあると、そこで行を改めて一字下げて書き出している。
さらに「これに属するもの」とあると改行して一字下げて書き始めているが、これ全体を一章とみなして読んでほしい。
このような書き方は和書や漢書、古今の書籍で見るものとまったく違うところであるが、これは原書の姿をできるだけそのままに示したためである。
読者はこの点をよく了解してほしい。
一.
解剖書は図と学説を照らし合わせて読むことがもっとも重要なことである。
したがって文節ごとにかならず図がある。
両者に符号をつけて図を見るための便宜をはかっている。
読者は称号してうまく図を見ることができる。
これをおろそかにしないでほしい。
一.
原書の符号はすべて国字[アルファベット]を使っている。
ここではそれに変えて日本の国字[イロハ]を用いて、図を見やすいようにした。
一.
本書に掲載した図と学説はみな、オランダの解剖書を参考にしてもっとも明瞭なものを選び、これを採用して理解しやすいようにした。
そのような図を採った書物は、
ⅰ.トンミュス解体書(官医桂川法眼所蔵)
ⅱ.ブランカール解体書(同)
ⅲ.カスパル解体書(翼{玄白}所蔵)
ⅳ.コイテル解体書(同、ラテン語で記す)
ⅴ.アンブル外科書解体編(中津侍医前野良沢所蔵)
である。
学説を引用した書物は、
カスパル解体書(官医桂川法眼所蔵、ラテン語で記す)
ヘリンスキース解体書(官医山脇法眼所蔵)
パルヘイン解体書(小浜藩中川淳庵所蔵)
パルシトス解体書(同)
ミスケル解体書(処士[民間人]石川玄常所蔵、アルメニア国の本)
である。
ここで図を引用した本の上にすべて符号をつけてあるのは、図の符号と称号して見るように読者の便宜をはかったのである。
一.
原本の図で微細な部分の見にくいところは、ことごとく顕微鏡(オオムシメガネ)でこれを見て模写したのである。
一.
難解な個所はすべて、いろいろなオランダの解剖書および動物、植物の図譜、および天文、地理、器械、衣服等の書物を参考にし、それをその個所の下に注としてつけた。
あるいはそれらの本から説をとり、それをもとに作った解釈を傍らに書き、読者の便宜をはかった。
一.
訳し方には三通りある。
第一は翻訳という。
第二は義訳という。
第三は直訳という。
オランダ語で「ベンデレン」という言葉は骨である。
これを骨(ほね)と訳すことが翻訳である。
また、「カラカベン」という言葉は、骨であるが軟らかいものを指す。
「カラカ」というのは鼠が器物を齧るときに立てる音をいうのである。
そこで軟らかいという意味をとり、「ベン」というのが「ベンデレン」の略であるからこれを訳して軟骨とした。
これが義訳である。
また「キリイル」と発音する」言葉は、それに相当する言葉が東洋の医学にはなく、意味をとろうにもその解釈ができない。
そのような場合には、そのまま「機里爾(キリイル)」と訳した。
これが直訳である。
私の訳はみなこの例に示した通りである。
読者はこれを了解してほしい。
一.
西洋諸国が支那(シーナ)と読んでいるのは、すなわちいまの清国である。
わが国の昔からこの国を、漢あるいは唐のようにいろいろな呼び方をしてきた。
元の陶宗儀の「輟耕録」、清の廖リンキ(廖文英)の「正字通」の序文にはいずれも漢とある。
そこで、この本ではこの二人にならって漢と呼ぶが、これは東西の両漢[前漢と後漢]をさしているのではない。
一.
この本で直訳したときにあてた文字は、すべて中国人が訳した西洋諸国の地名をオランダバンコク地図と照合し、それを集め、当てたものである。
これらはその横に倭訓を記し、読者の便宜をはかった。
その訳語には憶測で作ったものは一つもない。
一.
格致編[第三編]では医学の基本になるものをことごとく挙げている。
したがってオランダ語で名称を記し、その訳語を注につけた。
これはただ学者のために便宜をはかるために行ったことである。
その他、門脈[第18編]などのところでときどきオランダ語名を記しているが、それも」格致編の場合と同じような理由からそれにならったのである。
一.
この本を読んだ者は、十中八九まで考え方が当然変わるであろう。
中国では、古今の医科で臓腑骨折[からだの構造]について説いた者は少なくない。
しかし、そのなかで古代の論には真実をついたものもときにあり、きわめてつまらないように見えても価値があるものもある。
ところが後世の馬玄台[明代の医家]、孫一奎[明代の医家]、滑伯仁[金・元時代の医家]、張景岳[明代の医家]といった人の学説は、三蕉や椎節[脊椎骨の数]の理論がみな一致しない。
それぞれが自分の都合の良いように考え、憶測し、こじつけており、大昔から今に至るまで一つの学説にまとまったことがない。
ああ、なんとまあずいぶん粗略な医学であることか。
もし内臓や骨節がその場所を少しでも違うことがあれば、人間はどうして生きられようか。
治療はなにを基準にすればよいのであろうか。
わが国では、先輩たちが真実を知りたいと、ときどき解剖を行って視た。
しかし、古い考えに染まっているために、内臓や骨が旧説と違うのを見ると、いたずらに事実を疑うのである。
それはまるで燕国の人が永く国外にいて帰郷したとき、国を前にしながら、他国を燕だといつわられてもそれを疑わなかった話と似ている。
また、解剖したからといっても、九にそれを活用することができず、かえって混乱におちいってしまう。
あるいはまた解剖で名医として天下に名をとどろかせた者がいたが、だれも解剖の方法を知らず、おしいことに結局はとりとめのないことで終わった。
世間には小事にこだわらない人もいるけれども、汚れた習慣に耳目がまどわされて、いまだ雲や霧をかきわけ青天[真理]を見ることができないのである。
つまり、考え方を一新しなければその室[真理]のなかに入ることができない。
ああ、人には有能、不能がある。
私は才能がないから他の仕事はとてもできないが、ただこの仕事にあらんかぎりの努力を尽くしてきて、医学を明らかにすることができた。
これは昔の先輩たちに対しても少しも恥じることではないが、そもそものはじまりは、要するにものの考え方を一新させることにある。
もし私と同じ志を持ち、この本に述べることに従えば、考え方を一新するであろう。
そうなることを切に望んでいる。
しかし、そうは言うものの私はうまい文章を作ることに慣れていない。
それでこの本では、その内容が分かるようにすることだけを心掛けた。
これを読んで理解できないことがあれば、私が生きているかぎりいつでも質問をし、訪ねてくれることはかまわない。
私の友人、杉田玄白が訳したところの「解体新書」が出来上がった。
自分にこの本の図を写してくれという。
それはまさに紅毛の画[洋画]で見事なものである。
自分のように才能がない者があえて背伸びをしてやってもとても追いつけるものでない。
そうはいっても画くことができないといえば、友人が大いに困るであろう。
ああ、友人を困らせるよりは、むしろ悪臭[恥]を永遠に流すことににしよう。
世の君子、このことを許してくれれば幸いである。
東羽秋田藩 小野田直武
』
【習文:目次】
_
『
凡例
一.
この書はオランダ人ヨハン・アタン・キュルムスが著した「ターヘル・アナトミア」という書物を訳したものである。
ここ二百年来、オランダ人を招き、彼らにオランド医術を学んだ者は多かった。
だが、その人々はわずか一、二の治療法を学んだだけでオランダ医術を生活の資としていた。
とても蘭書を読んで、医術を修業するまでにはならなかった。
思うにオランダの国の技術はひじょうにすぐれている。
知識や技術の分野において、人力の及ぶかぎりきわめ尽くしていないものはない。
そのなかでももっともすみやかに世界に恩恵を与えることができるものは医術である。
ただ、その言語がチンプンカンプンで、文字が曲がり釘のようであり、文法がまた違うので、よい本やよい治療法があるといっても、それらがせけんに広く流布されて、ほめたたえられることはなかった。
自分の家は代々オランダ流の外科を家業としてきた。
また、それに関する日本語本も所蔵する。
私は家業を継いで、子供のときからつねにこの方面に慣れ親しみ、見習ってきた。
それで外科書を覗き見ることもあったのである。
しかし世人の目にふれることのひじょうにまれな本であるから、むずかしくて分からないことについて質問しようにも質ねようがなく、どうしてよいかわらず、コ師[目の見えない楽士]が介添えを探しているような思いをしていた。
こうした状態におかれ、思い切って気持ちを切り替え、新たに中国の古今の遺書を読み始めることにして、ここ数年それをくり返し、ていねいに読んできたのである。
つづいて中国の治療法や学説を研究してみると、それは無理なこじつけが多く、しかも抜けたところがあるため、これをはっきりさせようとすると、ますますわからなくなり、これを正そうとするといよいよ間違ってしまい、日常使えるような治療法は一つもない。
それで疲れ果ててしまい、ちょうど邯鄲で歩き方を真似た少年のようになってしまった。
思うに蘭書の分かりにくいところは十のうち七に過ぎない。
だが、中国の学説は、使えるものは十のうち一つあればよいほうである。
そこで再び家学[オランダ流外科]を一所懸命に勉強して、他の流派に目を向けないことにした。
近頃、私の医術も多少人に知られるようになって、治療を求めてくる病人の数は、日を追ってふえてきた。
こうなるとまた漢方も蘭方も不十分なことに情けなく思うことがある。
そこで広く世間に同学の士を求めると、一、二人私の気持ちをよく分かってくれる人を得ることができたのである。
このような状況のなかで、しだいにオランダの医書を読もうということになり、それをあわてずゆっくりと、相談しながら読んでいったところ、歳月はどんどん過ぎ去っていったが、そのうちじつに氷が解けるようにすらすらと筋道が分かるよになったのである。
その後、この内容を実物に照らし合わせて調べてみると、ぴったり一致して心理を得とくすることができた。
したがって解剖書を読み、そこに述べてある学説どおりに解剖して視れば、しくじることはひとつもない。
内蔵、関節、骨、脳、血管、神経の位置と正しい配列をはじめて知ることができたのである。
なんと愉快なことではないか。
そこで漢方の学説をみると、前者[蘭方]はほぼ正しいけれど、後者[漢方]はひとんどでたらめに近い。
ただ、霊枢[中国のもっとも古い医書]に
「解剖して、観察する」
という文章があり、中国でも大昔、解剖が行われたのは確かである。
ただ後世の人にそれが伝わらず、そのかすだけを信じて、でたらめを言い、そのまま数千年にわたって真実を識らなかったとはなんと哀しいことではないか、ほんとうに残念なことである。
よく考えると、解剖は外科の要となるものでかならず知っておかなければいけない。
いろいろな症状が生ずる場所は解剖を学ばないで知ることはできない。
オランダ人の医術が素晴らしいのもここにその根元がある。
だからとくに医術の上達を望む者は、かりそめにも解剖学を土台にして始めるのでなければ、けっして望みを達することはできない。
そこで、わが国の医者で解剖学を無視している者は、はたしてどういう心構えでいるのであろうか。
彼らは骨身を削って為し遂げた業績がないことはもっともなことである。
だから自分は多くの蘭書のなかからとくに解剖書を抜き出して翻訳を行い、初心者に手本として示した。
ひとたび道がひらければ、あとはすみやかにすべてが理解されるようになる。
その時がくれば、あとは死体をうまく活用し、骨と肉とのじつに巧妙な関係を会得することができるようになることを期待する。
ああ、私がこの仕事をこれまでにやり遂げることができたのじゃ、実に天の恵み深い心によるものである。
それがなくしてどうして人力のみでこれを成し遂げることができたであろうか。
世間の人々のうちオランダ医学に関心ある人に対して、私はみずからそそかに郭槐(注:カクカイ:カイは当て字:)[中国戦国時代の燕の賢人。言い出した当人から始めることのたとえを引いた人として有名]にたとえている。
もし、そのことで世間から非難や攻撃を受けても、それに負けてはいない。
一.
アナトミイは解体と訳す。
ターヘルは表である。
したがって、いまこの本を『解体新書』と題した。
一.
原本には注があったが、今回は形体に関するものだけ選んで訳し、他はすべて省略した。
一.
本書における文章の行のとりかたは原本に従っていて、翻訳の過程で改めてはいない。
「これに属するもの」とあると、そこで行を改めて一字下げて書き出している。
さらに「これに属するもの」とあると改行して一字下げて書き始めているが、これ全体を一章とみなして読んでほしい。
このような書き方は和書や漢書、古今の書籍で見るものとまったく違うところであるが、これは原書の姿をできるだけそのままに示したためである。
読者はこの点をよく了解してほしい。
一.
解剖書は図と学説を照らし合わせて読むことがもっとも重要なことである。
したがって文節ごとにかならず図がある。
両者に符号をつけて図を見るための便宜をはかっている。
読者は称号してうまく図を見ることができる。
これをおろそかにしないでほしい。
一.
原書の符号はすべて国字[アルファベット]を使っている。
ここではそれに変えて日本の国字[イロハ]を用いて、図を見やすいようにした。
一.
本書に掲載した図と学説はみな、オランダの解剖書を参考にしてもっとも明瞭なものを選び、これを採用して理解しやすいようにした。
そのような図を採った書物は、
ⅰ.トンミュス解体書(官医桂川法眼所蔵)
ⅱ.ブランカール解体書(同)
ⅲ.カスパル解体書(翼{玄白}所蔵)
ⅳ.コイテル解体書(同、ラテン語で記す)
ⅴ.アンブル外科書解体編(中津侍医前野良沢所蔵)
である。
学説を引用した書物は、
カスパル解体書(官医桂川法眼所蔵、ラテン語で記す)
ヘリンスキース解体書(官医山脇法眼所蔵)
パルヘイン解体書(小浜藩中川淳庵所蔵)
パルシトス解体書(同)
ミスケル解体書(処士[民間人]石川玄常所蔵、アルメニア国の本)
である。
ここで図を引用した本の上にすべて符号をつけてあるのは、図の符号と称号して見るように読者の便宜をはかったのである。
一.
原本の図で微細な部分の見にくいところは、ことごとく顕微鏡(オオムシメガネ)でこれを見て模写したのである。
一.
難解な個所はすべて、いろいろなオランダの解剖書および動物、植物の図譜、および天文、地理、器械、衣服等の書物を参考にし、それをその個所の下に注としてつけた。
あるいはそれらの本から説をとり、それをもとに作った解釈を傍らに書き、読者の便宜をはかった。
一.
訳し方には三通りある。
第一は翻訳という。
第二は義訳という。
第三は直訳という。
オランダ語で「ベンデレン」という言葉は骨である。
これを骨(ほね)と訳すことが翻訳である。
また、「カラカベン」という言葉は、骨であるが軟らかいものを指す。
「カラカ」というのは鼠が器物を齧るときに立てる音をいうのである。
そこで軟らかいという意味をとり、「ベン」というのが「ベンデレン」の略であるからこれを訳して軟骨とした。
これが義訳である。
また「キリイル」と発音する」言葉は、それに相当する言葉が東洋の医学にはなく、意味をとろうにもその解釈ができない。
そのような場合には、そのまま「機里爾(キリイル)」と訳した。
これが直訳である。
私の訳はみなこの例に示した通りである。
読者はこれを了解してほしい。
一.
西洋諸国が支那(シーナ)と読んでいるのは、すなわちいまの清国である。
わが国の昔からこの国を、漢あるいは唐のようにいろいろな呼び方をしてきた。
元の陶宗儀の「輟耕録」、清の廖リンキ(廖文英)の「正字通」の序文にはいずれも漢とある。
そこで、この本ではこの二人にならって漢と呼ぶが、これは東西の両漢[前漢と後漢]をさしているのではない。
一.
この本で直訳したときにあてた文字は、すべて中国人が訳した西洋諸国の地名をオランダバンコク地図と照合し、それを集め、当てたものである。
これらはその横に倭訓を記し、読者の便宜をはかった。
その訳語には憶測で作ったものは一つもない。
一.
格致編[第三編]では医学の基本になるものをことごとく挙げている。
したがってオランダ語で名称を記し、その訳語を注につけた。
これはただ学者のために便宜をはかるために行ったことである。
その他、門脈[第18編]などのところでときどきオランダ語名を記しているが、それも」格致編の場合と同じような理由からそれにならったのである。
一.
この本を読んだ者は、十中八九まで考え方が当然変わるであろう。
中国では、古今の医科で臓腑骨折[からだの構造]について説いた者は少なくない。
しかし、そのなかで古代の論には真実をついたものもときにあり、きわめてつまらないように見えても価値があるものもある。
ところが後世の馬玄台[明代の医家]、孫一奎[明代の医家]、滑伯仁[金・元時代の医家]、張景岳[明代の医家]といった人の学説は、三蕉や椎節[脊椎骨の数]の理論がみな一致しない。
それぞれが自分の都合の良いように考え、憶測し、こじつけており、大昔から今に至るまで一つの学説にまとまったことがない。
ああ、なんとまあずいぶん粗略な医学であることか。
もし内臓や骨節がその場所を少しでも違うことがあれば、人間はどうして生きられようか。
治療はなにを基準にすればよいのであろうか。
わが国では、先輩たちが真実を知りたいと、ときどき解剖を行って視た。
しかし、古い考えに染まっているために、内臓や骨が旧説と違うのを見ると、いたずらに事実を疑うのである。
それはまるで燕国の人が永く国外にいて帰郷したとき、国を前にしながら、他国を燕だといつわられてもそれを疑わなかった話と似ている。
また、解剖したからといっても、九にそれを活用することができず、かえって混乱におちいってしまう。
あるいはまた解剖で名医として天下に名をとどろかせた者がいたが、だれも解剖の方法を知らず、おしいことに結局はとりとめのないことで終わった。
世間には小事にこだわらない人もいるけれども、汚れた習慣に耳目がまどわされて、いまだ雲や霧をかきわけ青天[真理]を見ることができないのである。
つまり、考え方を一新しなければその室[真理]のなかに入ることができない。
ああ、人には有能、不能がある。
私は才能がないから他の仕事はとてもできないが、ただこの仕事にあらんかぎりの努力を尽くしてきて、医学を明らかにすることができた。
これは昔の先輩たちに対しても少しも恥じることではないが、そもそものはじまりは、要するにものの考え方を一新させることにある。
もし私と同じ志を持ち、この本に述べることに従えば、考え方を一新するであろう。
そうなることを切に望んでいる。
しかし、そうは言うものの私はうまい文章を作ることに慣れていない。
それでこの本では、その内容が分かるようにすることだけを心掛けた。
これを読んで理解できないことがあれば、私が生きているかぎりいつでも質問をし、訪ねてくれることはかまわない。
私の友人、杉田玄白が訳したところの「解体新書」が出来上がった。
自分にこの本の図を写してくれという。
それはまさに紅毛の画[洋画]で見事なものである。
自分のように才能がない者があえて背伸びをしてやってもとても追いつけるものでない。
そうはいっても画くことができないといえば、友人が大いに困るであろう。
ああ、友人を困らせるよりは、むしろ悪臭[恥]を永遠に流すことににしよう。
世の君子、このことを許してくれれば幸いである。
東羽秋田藩 小野田直武
』
【習文:目次】
_
★ 『解体新書:杉田玄白』 全現代語訳:酒井シズ
_
● 2009/12/18[1998/8/10]
『
解体新書を出版するにあたっての序文
紅毛訳官(オランダ通詞)
オランダの国の技術はひじょうにすぐれている。
人間の精神力と知識・技巧の限りを尽くして為しとげたその技術は、古今東西を通じてその右に出るものはまったくないのである。
したがって上は天文学、医術から、下は器械、衣服に至るまでオランダの技術があまりにも精妙巧緻なものであるために、それを観ることで眼のまえがぱっと開け、まったく思いがけない思いをしない人はいないのである。
そのためであろうか、オランダは自国の珍しい品物を船に積み、世界各国と貿易している。
日月の照らす所、霜露の落ちるところで行かない所はまったくない。
このことは世界広しといっても珍しいことでないであろうか。
わが将軍がオランダ人の入国を許してから今まで数百年になる。
彼らが来日して商売するようになると、幕府は長崎に邸を作り、オランダ人を住まわせ、彼らのために通訳を置き、互いに言葉を交わし、意志を伝え、欲求するところを満足させ、利益をあげている。
毎年3月には江戸に行き、将軍に拝謁し、産物を献上しているのである。
そこで日本の通訳についてオランダの天文学や医学を学ぶ者は以前から少なくなかっった。
しかし、オランダ人のもたらす書物と文章は、われわれには耳慣れないものであるため、明確に解釈することは容易なことではないのである。
時には名声を求め、自分は蘭書を学びたいという者がいる。
そして、一、二の通訳の門を叩き、入門するが、その結末は無駄なものとなって、さまよい歩き、その修業の半ばにも行かないでやめる者も以前から少なくない。
また、時には通訳について通訳の術を学ぶ場合に、長く習って通訳の術を習熟したとしても、いざ書物と文章に臨むとまったく目がくらんで読めずに素通りしてしまうことも以前から少なくなかった。
自分[吉雄耕牛]は通訳の家に生まれて、祖父の業を継ぎ、子供のときから通訳の術を習い、いつもそれを身近に使い、その奥義を極めるばかりになっている。
しかし、オランダの学問の奥底や、その進歩してくわしくなる点については、私の場合でも容易に極めることができないのである。
以前、中津の医官前野良沢という人物が自分を長崎に尋ねた。
自分は良沢は豪傑で、立派は人物と見た。
彼はオランダ語を非常に勤勉に学び、一日中倦むことなく勉強をしていた。
自分は彼が学問に情熱的であることをたいへん好ましく思い、自分の薀蓄を傾けて伝授した。
以来、この出藍の器は尋常な人物ではなくなった。
自分のもとを去って東都[江戸]に戻ってから、一、二の同好の士とますます勉学を深めたが、それはとどまるところを知らないほどであったという。
自分がオランダ人といっしょに東都に来るたびに、いつも良沢は宿[長崎屋]に来て質問したり、同好の士を連れてきて自分を喜ばしている。
滞留中はいつも会って話をし、返ってからは千里の道を手紙でねんごろな挨拶をよこすのである。
だが、東都はいろいろな人間がおおぜい集まっているところであり、しかも、[江戸の]風俗は昔から浅薄で派手好きで、名をあげることのみはかり、利をむさぼる者が多いと自分は思っていたのである。
いまでは自分は前野君とは古い知り合いであるが、他は行きずりの人である。
そうであるから彼らがやたらにていねいで親切な言葉をかけてくることは、おそらく本心ではないのであろう。
自分としては内心いやな感じがすると思って、あまり彼らのことを気にとめないで数年を過ごした。
今年、癸巳の張る[安永二年(1773)]、またオランダ人と東都に来た。
前野君はまた同好の士を引きつれて自分を訪ねた。
ていねいな挨拶は昔通りである。
そのなかに若狭の医官杉田玄白という人がいた。
かれは自分の著した「解体新書」を出し、自分に見せ、
「 翼[玄白]は良沢氏に学び、おそれながらも遠くにおられる先生の教えの一端を受け、そこでやっと蘭書のうち解剖書を選び、これを読み、良沢氏に従って解釈し、従って訳し、ついにこのようなものを創り上げるまでになりました。
これはじつにうれしいことでございます。
そこで先生に一度お目通しいただいて疑問のヶ所を質すことをお願いできますならば、われわれが死んでもこの本は朽ちることがないでしょう」
と、述べた。
自分はこれを受けとり、読んだところ、内容が詳細で論旨がよく通り、事柄と言葉を原書と比べてみると一つも間違いがなかった。
そこで学問に忠実であるとはこういうことかと感心し、思わず涙がはらはらとこぼれた。
そしてはたと書物を閉じて、ため息をつき、ああついにこの快挙がなされたと感嘆したのであった。
わが国の幕府がオランダ人の入国を許して数百年がたつ。
その間にでた学者の数は数えきれない。
しかし、学者は翻訳することはできなかった。
また、通訳は文章が拙いのである。
そのため、いまだかって筋道をたててこの道を世に弘めた者はいなかったのである。
いま二人の豪傑の資質をもった学問に熱心で好ましい人がその精神力と智、巧を尽くしてついにここまで到達した。
これからのち、世の医者で志のある者がこの書物によって人間の成長やたくさんの骨の一を知ったうえで治療を施したならば、上は王侯から下は一般庶民に至るまで世紀をうけたすべての人々が天命をまっとうしないで夭折するようなことがなくなるであろう。
そうあってほしいと願っている。
また、後世も同じ志を持つ者は、これからはこの本を読めばそのための努力や施策は半分もいらないであろう。
ああ二君がこの仕事で手柄を立てたことはなんといっても最高なことだろう。
じつに天下後世にとっての徳である。
これからは幕府の人たちも、オランダ人が医学にくわし、おおいに人のためになるものであることが始めてわかるであろう。
ああなんとこの壮挙は素晴らしいことか。
大昔から今日までこの二人のような人物はまだいなかった。
ああ、以前自分は、この人たちを名をあげることのみはかり、利をむさぼる者と決めつけていたが、それは間違っていた。
二君がこれを勉めてくれることを心から望んでいる。
二人は丁重に
「これは自分たちの功績ではありません。
まことに先生の徳であります。
厚かましいお願いですが、先生に一言いただいて巻首に載せ、それをもって永く栄誉としたいのです」
といった。
自分はそれを辞退して言った。
吉雄永章は懦夫であるが、幸いに諸君の勉励努力のおかげで曹丘になることができた。
自分はこの盛挙にあずかるために生きてきただけのことである。
それをまことに深く恥ずかしく思っている。
下手な文章で見苦しいものを添えることは、永章にはとてもできない。
言うまでもなく、この書が発刊されて歳月がたてば、世間は自然に本書が基調であることがわかってくる。
永章が序文を書くことでこの書物の値打ちをあげる必要はないであろう、と。
しかし、二人はどうしても聞いてくれない。
とうとう自分が二人とどうして識り合ったかそのいきさつを記して、序文とすることになった。
安永二年{1773} 癸巳の春 三月
オランダ語通訳 西肥[長崎]
吉雄永章 撰
甲午孟春[安永三年正月]
東江源鱗 書
』
【習文:目次】
_
● 2009/12/18[1998/8/10]
『
解体新書を出版するにあたっての序文
紅毛訳官(オランダ通詞)
オランダの国の技術はひじょうにすぐれている。
人間の精神力と知識・技巧の限りを尽くして為しとげたその技術は、古今東西を通じてその右に出るものはまったくないのである。
したがって上は天文学、医術から、下は器械、衣服に至るまでオランダの技術があまりにも精妙巧緻なものであるために、それを観ることで眼のまえがぱっと開け、まったく思いがけない思いをしない人はいないのである。
そのためであろうか、オランダは自国の珍しい品物を船に積み、世界各国と貿易している。
日月の照らす所、霜露の落ちるところで行かない所はまったくない。
このことは世界広しといっても珍しいことでないであろうか。
わが将軍がオランダ人の入国を許してから今まで数百年になる。
彼らが来日して商売するようになると、幕府は長崎に邸を作り、オランダ人を住まわせ、彼らのために通訳を置き、互いに言葉を交わし、意志を伝え、欲求するところを満足させ、利益をあげている。
毎年3月には江戸に行き、将軍に拝謁し、産物を献上しているのである。
そこで日本の通訳についてオランダの天文学や医学を学ぶ者は以前から少なくなかっった。
しかし、オランダ人のもたらす書物と文章は、われわれには耳慣れないものであるため、明確に解釈することは容易なことではないのである。
時には名声を求め、自分は蘭書を学びたいという者がいる。
そして、一、二の通訳の門を叩き、入門するが、その結末は無駄なものとなって、さまよい歩き、その修業の半ばにも行かないでやめる者も以前から少なくない。
また、時には通訳について通訳の術を学ぶ場合に、長く習って通訳の術を習熟したとしても、いざ書物と文章に臨むとまったく目がくらんで読めずに素通りしてしまうことも以前から少なくなかった。
自分[吉雄耕牛]は通訳の家に生まれて、祖父の業を継ぎ、子供のときから通訳の術を習い、いつもそれを身近に使い、その奥義を極めるばかりになっている。
しかし、オランダの学問の奥底や、その進歩してくわしくなる点については、私の場合でも容易に極めることができないのである。
以前、中津の医官前野良沢という人物が自分を長崎に尋ねた。
自分は良沢は豪傑で、立派は人物と見た。
彼はオランダ語を非常に勤勉に学び、一日中倦むことなく勉強をしていた。
自分は彼が学問に情熱的であることをたいへん好ましく思い、自分の薀蓄を傾けて伝授した。
以来、この出藍の器は尋常な人物ではなくなった。
自分のもとを去って東都[江戸]に戻ってから、一、二の同好の士とますます勉学を深めたが、それはとどまるところを知らないほどであったという。
自分がオランダ人といっしょに東都に来るたびに、いつも良沢は宿[長崎屋]に来て質問したり、同好の士を連れてきて自分を喜ばしている。
滞留中はいつも会って話をし、返ってからは千里の道を手紙でねんごろな挨拶をよこすのである。
だが、東都はいろいろな人間がおおぜい集まっているところであり、しかも、[江戸の]風俗は昔から浅薄で派手好きで、名をあげることのみはかり、利をむさぼる者が多いと自分は思っていたのである。
いまでは自分は前野君とは古い知り合いであるが、他は行きずりの人である。
そうであるから彼らがやたらにていねいで親切な言葉をかけてくることは、おそらく本心ではないのであろう。
自分としては内心いやな感じがすると思って、あまり彼らのことを気にとめないで数年を過ごした。
今年、癸巳の張る[安永二年(1773)]、またオランダ人と東都に来た。
前野君はまた同好の士を引きつれて自分を訪ねた。
ていねいな挨拶は昔通りである。
そのなかに若狭の医官杉田玄白という人がいた。
かれは自分の著した「解体新書」を出し、自分に見せ、
「 翼[玄白]は良沢氏に学び、おそれながらも遠くにおられる先生の教えの一端を受け、そこでやっと蘭書のうち解剖書を選び、これを読み、良沢氏に従って解釈し、従って訳し、ついにこのようなものを創り上げるまでになりました。
これはじつにうれしいことでございます。
そこで先生に一度お目通しいただいて疑問のヶ所を質すことをお願いできますならば、われわれが死んでもこの本は朽ちることがないでしょう」
と、述べた。
自分はこれを受けとり、読んだところ、内容が詳細で論旨がよく通り、事柄と言葉を原書と比べてみると一つも間違いがなかった。
そこで学問に忠実であるとはこういうことかと感心し、思わず涙がはらはらとこぼれた。
そしてはたと書物を閉じて、ため息をつき、ああついにこの快挙がなされたと感嘆したのであった。
わが国の幕府がオランダ人の入国を許して数百年がたつ。
その間にでた学者の数は数えきれない。
しかし、学者は翻訳することはできなかった。
また、通訳は文章が拙いのである。
そのため、いまだかって筋道をたててこの道を世に弘めた者はいなかったのである。
いま二人の豪傑の資質をもった学問に熱心で好ましい人がその精神力と智、巧を尽くしてついにここまで到達した。
これからのち、世の医者で志のある者がこの書物によって人間の成長やたくさんの骨の一を知ったうえで治療を施したならば、上は王侯から下は一般庶民に至るまで世紀をうけたすべての人々が天命をまっとうしないで夭折するようなことがなくなるであろう。
そうあってほしいと願っている。
また、後世も同じ志を持つ者は、これからはこの本を読めばそのための努力や施策は半分もいらないであろう。
ああ二君がこの仕事で手柄を立てたことはなんといっても最高なことだろう。
じつに天下後世にとっての徳である。
これからは幕府の人たちも、オランダ人が医学にくわし、おおいに人のためになるものであることが始めてわかるであろう。
ああなんとこの壮挙は素晴らしいことか。
大昔から今日までこの二人のような人物はまだいなかった。
ああ、以前自分は、この人たちを名をあげることのみはかり、利をむさぼる者と決めつけていたが、それは間違っていた。
二君がこれを勉めてくれることを心から望んでいる。
二人は丁重に
「これは自分たちの功績ではありません。
まことに先生の徳であります。
厚かましいお願いですが、先生に一言いただいて巻首に載せ、それをもって永く栄誉としたいのです」
といった。
自分はそれを辞退して言った。
吉雄永章は懦夫であるが、幸いに諸君の勉励努力のおかげで曹丘になることができた。
自分はこの盛挙にあずかるために生きてきただけのことである。
それをまことに深く恥ずかしく思っている。
下手な文章で見苦しいものを添えることは、永章にはとてもできない。
言うまでもなく、この書が発刊されて歳月がたてば、世間は自然に本書が基調であることがわかってくる。
永章が序文を書くことでこの書物の値打ちをあげる必要はないであろう、と。
しかし、二人はどうしても聞いてくれない。
とうとう自分が二人とどうして識り合ったかそのいきさつを記して、序文とすることになった。
安永二年{1773} 癸巳の春 三月
オランダ語通訳 西肥[長崎]
吉雄永章 撰
甲午孟春[安永三年正月]
東江源鱗 書
』
【習文:目次】
_
★ 教授の異常な弁解:土屋賢二
_
● 2009/12/10
『
まえがき
はっきり言おう。
本書はだれにでもおすすめできる本ではない。
本書に登場した人、とくにその中でも怒りやすい人は。読まない方がお互い楽しい人生をを送ることができると信じる。
本書をとくにおすすめしたいのは次のような人だ。
1.読解力がない人
文字は読めなければ読めないほどいい。
本のどちらが上かも分からなければ最高だ。
本書はそういう人のためにある。
なんとか読めても、本書の内容を理解出来ないような人にも、おすすめである。
どんなに読解力がなくても本書を買うことはできる(人間は読書よりも先に買い物の能力が発達する)。
そういう人が本書を買って、しかも読まない、これほどの贅沢があるだろうか。
読んで失望する心配のない人、それが読解力のない人だ。
本書はそういう人を決して失望させることはないと断言する。
2.文学的造詣の深い人
名文を読み慣れている人が本書を読めば、「こんなものでも文章といえるのか」という疑問を抱くはずだ。
文章と呼ぶにははばかられるような文章が数カ所だけならまだしも、一冊まるまる書き連ねてあるのだ。
文章とは何か、文学的価値とは何か、という根本的問題をつきつけられることになる。
場合によっては文章の概念の書き換えを迫る可能性まで秘めている。
世の中、何が起こるかわからない。
奇跡が起きればなんだって可能なのだ。
3.アラ探しばかりする人
本にかぎらず、他人の欠点やミスを見つけて喜ぶという、ゆがんだ性格の持ち主がいるが、本書はその人たちのためにあると言っても過言ではない。
目を皿のようにしてアラ探しをしなくても、簡単にアラが見つかるからだ。
一ページに最低でも3カ所はアラがあるから、どのページもそういう人の期待を裏切ることはない。
これほどアラが多く、突込みどころ満載の本はないと自負している。
私自身、アラ探しするタイプだから自信をもって言えるが、本書はそういう人を絶対に失望させることはない。
4.軽率な人
人類の90パーセントは軽率な人だ。
軽率な人の失敗は枚挙にいとまがない。
それでも失敗を繰り返すのは、十分は反省もなく、ロクに考えもしないで行動するからだ。
なぜ本書がこのタイプの人に向いているかというと、「おすすめだ」と書けば、買ってみようと軽率に思い込んでくれるからだ。
軽率でないと、そもそも本書を買うということが難しい。
軽率な人は少なくとも本書を買う可能性を秘めている。
軽率な人は過去に失敗をなんども重ねてきているから、本書を買って失敗したと思っても、簡単にあきらめがつく。
5.考えすぎる人
考えすぎる人は、過去の失敗に懲りて、慎重に考えるようになった人である。
だが、慎重に考えているうちに判断が二転三転し、結果的に誤ってしまう。
こういう人は、基本的に考えが足りない人と同じである。
こういう人には本書がおすすめだ。
本書を買えば、考えすぎると失敗におわるということを自覚するいい機会になる。
もちろんどんなに自覚しても考えすぎる癖は治らないだろうが、人間は一生努力を続けることが大事なのだ。
6.損得にこだわらない人
本書を買っても決して得にはならない。
役に立つわけでもなく、知恵がつくわけでもない。
それでも買うことができるとしたら、損得にこだわらない人か、判断のできない人か、どちらかだ。
どちらにしても、結果となる行動は同じである。
けっかさえ同じなら原因は気にしなくていい。
もし本書を買って損をしたしたと思うようなら、まだ自分は損得にこだわる人間だったと反省し、より太っ腹な人間を目指すことが期待できる。
7.損得にこだわる人
このタイプの人は、損得にこだわるあまり、結果的に損をしてしまう。
このタイプの人は、何度損をしても、損に慣れることはない。
損をするたびに悔しい思いを抱き、損を取り返してやろうと、今度こそ儲けてやろうとチャレンジを繰り返し、そのたびに傷を広げている。
本書を買って悔しい思いをすれば、損を取り返そうとするチャレンジ精神が活性化し、活力が湧き出てくるにちがいない。
たとえさらに損をすることになっても、チャレンジ精神を持ち続けることが尊いではないか。
もしチャレンジ精神が衰えてきたら、品書をもう一冊買うことをおすすめする。
本書は「週刊文春」連載のコラム「ツチヤの口車」を集めたものだ。
このコラムは「週刊文春」の中で、「刺身のつま」「箸休め」といった重要な一を占めている。
メインデイッシュとなる本を読みながら、ときどき本書を読むのが一番いい読み方である。
メインデイッシュとなる本を選ぶなら、私の本をおすすめする。
』
『
このたび『妻と罰』が刊行された。
これを機に、格差社会の問題を考えてみたい。
ちなみに、『妻と罰』は、本欄「ツチヤの口車」の中から自信のない原稿を集めたものである(自信のある原稿がないのだ)。
おそらく、『妻と罰』という書名はどうせドフトエフスキーの、『罪と罰』をもじっているだけで、内容は似ても似つかないに決まっていると思う人もいるだろうが、それは誤解である。
どちらの本も、「この世は不条理だ」という世界観を貴重としているという重要な点で共通しているのだ。
『妻と罰』は、妻が罰を加えるのか、それとも妻に罰が加えられるのかという点だ。
『罪と罰』は<罪に対して罰が加えられる>という意味だから、それに対応させれば、『妻と罰』は<妻に対して罰が加えられる>という意味になるはずだ。
だが出来た本を見ると、表紙にはわたしが色々な仕方で罰せられている姿が描かれている。
そういえば、出版社が提案する書名は以前から、『ツチヤの貧格』など、わたしの品格を落とすようなものばかりだった。
罰せられるのはわたしに決まっていると速断したのだ。
わたしが嘆いていると、学生が説明した。
「『罪と罰』の場合は、正確に言うと、<罪に罰が下る>のではなく、<罪を犯した人に罰が下る>という関係になっています。
だから、<妻と罰>も、<妻をもらった人に罰が下る>となるはずです’
とうてい納得できる説明ではない。
男の中には
「妻をもらったこと自体、罪なのに、妻をもらったという理由で罰を受けるのは不当だ。
罰を受けたために罰を受けるようなものだ」
と、憤慨する者もいるに違いない(わたしではない)。
だがどちらが罰する側になるかは大した問題ではない。
問題は格差社会だ。
家庭というものは、最も小さく、かつ最も過酷な社会である。
その中で罰する・罰せられるという関係が生じ、しかも再チャレンジの機会もセーフテイネットもない。
最初は平等な立場から出発するのに、なぜ男女の間で勝ち組と負け組ができてしまうのか。
格差社会の解明のために、わたしの事例を考察してみよう。
わたしが結婚して間もないころ、妻とキャラメルを食べながらテレビを見ていた。
粘着力の強いキャラメルだということが分かったので、わたしは妻に「用心しないと歯の詰め物がとれるぞ」と注意した。
妻もわたしも虫歯が多いのだ。
数分後、妻が「あっ」と叫んだ。
詰め物がとれたのだ。
この瞬間だ、わたしの優位が確立したのは。
わたしは優位を確実にするために、妻の頭の隅々まで深く浸透するように、
「だから注意しなきゃ詰め物がとれると言っただろう」
と、繰り返しさとした。
このときが、妻との関係におけるわたしの絶頂期だった。
まだ優劣上下が決まっていない時期だけに、この出来事は決定的な意味を持つ。
このちょっとした出来事が勝ち組・負け組を決めたのだ。
私の優位がゆらいだのは、
-----
<< 略 >>
-----
この日を境に、妻がわたしを見る目から尊敬の色が消えた。
こうなったらもはや挽回は不可能だ.
キャラメル一個で勝ち組・負け組が確定し、終生逆転不可能となったのだ。
多くの家庭で同様のことが起こっていると思うが、くれぐれもキャラメルは食べないことだ。
』
【習文:目次】
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● 2009/12/10
『
まえがき
はっきり言おう。
本書はだれにでもおすすめできる本ではない。
本書に登場した人、とくにその中でも怒りやすい人は。読まない方がお互い楽しい人生をを送ることができると信じる。
本書をとくにおすすめしたいのは次のような人だ。
1.読解力がない人
文字は読めなければ読めないほどいい。
本のどちらが上かも分からなければ最高だ。
本書はそういう人のためにある。
なんとか読めても、本書の内容を理解出来ないような人にも、おすすめである。
どんなに読解力がなくても本書を買うことはできる(人間は読書よりも先に買い物の能力が発達する)。
そういう人が本書を買って、しかも読まない、これほどの贅沢があるだろうか。
読んで失望する心配のない人、それが読解力のない人だ。
本書はそういう人を決して失望させることはないと断言する。
2.文学的造詣の深い人
名文を読み慣れている人が本書を読めば、「こんなものでも文章といえるのか」という疑問を抱くはずだ。
文章と呼ぶにははばかられるような文章が数カ所だけならまだしも、一冊まるまる書き連ねてあるのだ。
文章とは何か、文学的価値とは何か、という根本的問題をつきつけられることになる。
場合によっては文章の概念の書き換えを迫る可能性まで秘めている。
世の中、何が起こるかわからない。
奇跡が起きればなんだって可能なのだ。
3.アラ探しばかりする人
本にかぎらず、他人の欠点やミスを見つけて喜ぶという、ゆがんだ性格の持ち主がいるが、本書はその人たちのためにあると言っても過言ではない。
目を皿のようにしてアラ探しをしなくても、簡単にアラが見つかるからだ。
一ページに最低でも3カ所はアラがあるから、どのページもそういう人の期待を裏切ることはない。
これほどアラが多く、突込みどころ満載の本はないと自負している。
私自身、アラ探しするタイプだから自信をもって言えるが、本書はそういう人を絶対に失望させることはない。
4.軽率な人
人類の90パーセントは軽率な人だ。
軽率な人の失敗は枚挙にいとまがない。
それでも失敗を繰り返すのは、十分は反省もなく、ロクに考えもしないで行動するからだ。
なぜ本書がこのタイプの人に向いているかというと、「おすすめだ」と書けば、買ってみようと軽率に思い込んでくれるからだ。
軽率でないと、そもそも本書を買うということが難しい。
軽率な人は少なくとも本書を買う可能性を秘めている。
軽率な人は過去に失敗をなんども重ねてきているから、本書を買って失敗したと思っても、簡単にあきらめがつく。
5.考えすぎる人
考えすぎる人は、過去の失敗に懲りて、慎重に考えるようになった人である。
だが、慎重に考えているうちに判断が二転三転し、結果的に誤ってしまう。
こういう人は、基本的に考えが足りない人と同じである。
こういう人には本書がおすすめだ。
本書を買えば、考えすぎると失敗におわるということを自覚するいい機会になる。
もちろんどんなに自覚しても考えすぎる癖は治らないだろうが、人間は一生努力を続けることが大事なのだ。
6.損得にこだわらない人
本書を買っても決して得にはならない。
役に立つわけでもなく、知恵がつくわけでもない。
それでも買うことができるとしたら、損得にこだわらない人か、判断のできない人か、どちらかだ。
どちらにしても、結果となる行動は同じである。
けっかさえ同じなら原因は気にしなくていい。
もし本書を買って損をしたしたと思うようなら、まだ自分は損得にこだわる人間だったと反省し、より太っ腹な人間を目指すことが期待できる。
7.損得にこだわる人
このタイプの人は、損得にこだわるあまり、結果的に損をしてしまう。
このタイプの人は、何度損をしても、損に慣れることはない。
損をするたびに悔しい思いを抱き、損を取り返してやろうと、今度こそ儲けてやろうとチャレンジを繰り返し、そのたびに傷を広げている。
本書を買って悔しい思いをすれば、損を取り返そうとするチャレンジ精神が活性化し、活力が湧き出てくるにちがいない。
たとえさらに損をすることになっても、チャレンジ精神を持ち続けることが尊いではないか。
もしチャレンジ精神が衰えてきたら、品書をもう一冊買うことをおすすめする。
本書は「週刊文春」連載のコラム「ツチヤの口車」を集めたものだ。
このコラムは「週刊文春」の中で、「刺身のつま」「箸休め」といった重要な一を占めている。
メインデイッシュとなる本を読みながら、ときどき本書を読むのが一番いい読み方である。
メインデイッシュとなる本を選ぶなら、私の本をおすすめする。
』
『
このたび『妻と罰』が刊行された。
これを機に、格差社会の問題を考えてみたい。
ちなみに、『妻と罰』は、本欄「ツチヤの口車」の中から自信のない原稿を集めたものである(自信のある原稿がないのだ)。
おそらく、『妻と罰』という書名はどうせドフトエフスキーの、『罪と罰』をもじっているだけで、内容は似ても似つかないに決まっていると思う人もいるだろうが、それは誤解である。
どちらの本も、「この世は不条理だ」という世界観を貴重としているという重要な点で共通しているのだ。
『妻と罰』は、妻が罰を加えるのか、それとも妻に罰が加えられるのかという点だ。
『罪と罰』は<罪に対して罰が加えられる>という意味だから、それに対応させれば、『妻と罰』は<妻に対して罰が加えられる>という意味になるはずだ。
だが出来た本を見ると、表紙にはわたしが色々な仕方で罰せられている姿が描かれている。
そういえば、出版社が提案する書名は以前から、『ツチヤの貧格』など、わたしの品格を落とすようなものばかりだった。
罰せられるのはわたしに決まっていると速断したのだ。
わたしが嘆いていると、学生が説明した。
「『罪と罰』の場合は、正確に言うと、<罪に罰が下る>のではなく、<罪を犯した人に罰が下る>という関係になっています。
だから、<妻と罰>も、<妻をもらった人に罰が下る>となるはずです’
とうてい納得できる説明ではない。
男の中には
「妻をもらったこと自体、罪なのに、妻をもらったという理由で罰を受けるのは不当だ。
罰を受けたために罰を受けるようなものだ」
と、憤慨する者もいるに違いない(わたしではない)。
だがどちらが罰する側になるかは大した問題ではない。
問題は格差社会だ。
家庭というものは、最も小さく、かつ最も過酷な社会である。
その中で罰する・罰せられるという関係が生じ、しかも再チャレンジの機会もセーフテイネットもない。
最初は平等な立場から出発するのに、なぜ男女の間で勝ち組と負け組ができてしまうのか。
格差社会の解明のために、わたしの事例を考察してみよう。
わたしが結婚して間もないころ、妻とキャラメルを食べながらテレビを見ていた。
粘着力の強いキャラメルだということが分かったので、わたしは妻に「用心しないと歯の詰め物がとれるぞ」と注意した。
妻もわたしも虫歯が多いのだ。
数分後、妻が「あっ」と叫んだ。
詰め物がとれたのだ。
この瞬間だ、わたしの優位が確立したのは。
わたしは優位を確実にするために、妻の頭の隅々まで深く浸透するように、
「だから注意しなきゃ詰め物がとれると言っただろう」
と、繰り返しさとした。
このときが、妻との関係におけるわたしの絶頂期だった。
まだ優劣上下が決まっていない時期だけに、この出来事は決定的な意味を持つ。
このちょっとした出来事が勝ち組・負け組を決めたのだ。
私の優位がゆらいだのは、
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<< 略 >>
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この日を境に、妻がわたしを見る目から尊敬の色が消えた。
こうなったらもはや挽回は不可能だ.
キャラメル一個で勝ち組・負け組が確定し、終生逆転不可能となったのだ。
多くの家庭で同様のことが起こっていると思うが、くれぐれもキャラメルは食べないことだ。
』
【習文:目次】
_
:「創世記」、原罪とはなにか
_
● 1997/04[1996/02]
『
P資料の作者が誰であったか、ということは、ヤハウィストが誰であったかということと同様、判然としない。
「創世記」の原初史におけるJ資料とP資料のダブレット(同じ1つの主題について複数の作者が異なった話の筋、異なった表現で記述を行っているという現象)をみるかぎり、P資料の作者が、J資料の作者の作品に何らかの不満を抱き、それを自分なりに「改作」していることは明らかである。
ヤハウィストの原初史の第一幕は、もしこれを、
「神の世界づくりの物語」
として眺めるならば、まことに行き当たりばったりのいい加減な「世界づくり」の様であるといわねばならない。
「
ヤハウエ神が地と天を作ったとき、
-----
ヤハウエ神は土からとった塵で人を形づくり、彼の鼻に命の息を吹き入れた。
すると人は生き物となった。
」
このヤハウエ神は、まだ何一つお膳立ての整わぬうちに、いきなり人間を存へてしまう。
それを「エデンの園」の内に置いたのはよいが、この一人ぽっちの人間はいささか手持ち無沙汰で淋しそうである。
そこでヤハウエはあわてて、人のためにペット・動物を存へてやる。
ところが、それでも人間は不満そうである。
それではといって、人間が眠っている間に肋骨を一本とって、それで女を存へてやるのであるが、この女の存へ方なども、まさに泥縄式の見本ともいうべきところである。。
P資料作者が、こうした無計画な行き当たりばったりに顰蹙したであろうことは間違いない。
彼はあくまで整然と順を追って組織だった「神の世界創造」を描き出す。
まず、天を創り、地を創り、その地から植物を生え出させたうえで、天と地に住む動物たちを、これまた順番に手際よく創っていく。
そして、そのしめくくりに人間たちを作るときも、最初からちゃんと「男性と女性を創造」し、
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」
と命じる。
しかも念のいったことに、それらの「創造行程」の一区切りごとに、P資料の神はいちいち品質チェックをするのである。
「神がご覧になると、それはよかった」
まるで、品質管理システム(QC)の完備した工場での生産さながらである。
彼はおそらく、ヤハウィストの物語を繰り返しして読むほどに、不満のつのるのを憶えたことであろう。
彼はただちに、ヤハウィストの物語のどこがいけないかに気づく。
それは、ヤハウエが人をつくるのに、
土から材料をとってきた
ということ。
ここにすべての禍のもとがあったのだ、と彼は気づくのである。
材料などというものを介入させたからこそ、ヤハウエの存えた世界はやがてふたたび、材料の提供者である「地」からの取立てを受けることになるのだ。
この物語は、なんとしても書き直さねばならぬ。
「地(土)」などという余計物を排し、徹底した神のみによる世界づくりを描こう。
材料などというものを一切使わない「無からの天地創造」を描こう、これこそが、彼をあの「創世記」第1章の執筆へと駆り立てた決意であったに違いない。
P資料の作者は、彼自身の「天地創造の物語」をこう語りはじめる。
「
初めに神は、天と地を創造した。
」
作者は、この冒頭の一文を、この書全体を代表させるにふさわしいものとして、考え抜き練り上げて存へている。
作者はほとんど結論のような形でこの一文を発しているのであって、事実、この言葉を書いたときの彼の脳裏には、すでに第2章4節の締めくくりの文章がくっきりと浮かんでいたにちがいない。
「
これらが天と地の創造されたときの由来である。
」
P資料作者による「神の世界作り」 の物語を通じて、
「材料を用いることのない創造」
という考え方は、一つの理念としてその全体を貫いているといってよい。
それは後の世のキリスト教神学者たちの呼んだ通りの
「無からの創造(creatio ex nihilio)」
なのである。
「無から」の世界成立を語っている神話は、それ自体、決して珍しいものではない。
それでは、創世記第1章の「神の創造」のユニークな点はどこにあるのかと言えば、それが「無から」の創造を語っているのと同時に、それを
「神という創造者の行為」
(註:神の仕業にミスはないという前提が置かれてしまう)
として描きだしている、というところにある。
原初の状態が「無」であったと語られ、それから創造者が登場して世界を創り始めるという筋をもった創世神話もあるが、そのような神話でも、創造者が登場するとたん、話はにわかに具体的、即物的となり、結局のところ創造者の世界づくりそのものは、はっきりと材料のある「製作行為」として描かれることになる。
「無から」、しかもなんらかの創造者による行為として世界創造が語られるということは、極めて異例のことである。
この異例であること、ユニークであることは、実は言い換えれば、この「無からの創造」という神学概念のうちにひそむ難関(アポリア)の現れなのである。
いったいなぜ「創造者による無からの創造」という形をもった創世神話がそれほど「異例」なのか?
理由は簡単なことである。
それ自体がすでに一つの論理的矛盾だからである。
「創造者が居る」ということは、すでにいかなる意味においても、「無の状態」ではないということである。
「創造者による無からの創造」
という神話がユニークだということは、言いかえれば、それは論理的矛盾であり、
「ナンセンスである」
ということなのである。
問題をさらに複雑にしたのは、このP資料作者よりもさらに後の編纂者が、P資料の
「世界創造物語」を、ヤハウィストの原初史の前に
据えてしまった、ことである。
(註: 第1章 P資料による天地創造
第2章 ヤハウィストによる神の地と天の作造
第3章 ヤハウィストによるエデンの園
第4章 ヤハウィストによるカインの物語
第5章 P資料によるアダムの系譜 )
元来、ヤハウィストの原初史そのものの構想からすれば、その出発点である「神の世界づくり」は、すなわち「神の没落」の第一歩たるべきものであって、それが完璧なる
「不良品率ゼロの世界創造」
である必要はまったくないのである。
そんな世界創造であっては、その後の話がつながらないのである。
彼の原初史の出発点は神の完璧なる世界創造であってはならない、とさえいえるのである。
が、一方P資料作者は、徹底した「不良品率ゼロの世界創造」を目指す。
そもそも、「無からの創造」という理念を考えだしたのも、「材料」などというものを持ち込むことによって、そこに「不純物」が紛れ込み、神の創造の完璧さが失われるようなことがあってはならない、という発想なのであった。
それぞれの一日ごとの創造のたびに、神がそれを見て、それが良かったと語られているのであるが、念には念を入れるという]形で、すべてが創造されたあとで、もう一度最終チェックが行われるのである。
「神は彼が作られたすべてのものをご覧になった。
すると、見よ、それは非常に良かった。」
これほど完璧な品質管理のゆきとどいた世界創造物語を冒頭に置いてしまったら、その後の展開はいったいありえるのか?
少なくとも、これに引き続いてヤハウィストの
「神の没落のドラマ」
を語ろうというのは、ほとんど不可能なことである。
全知全能のの神が、これだけ注意深く創造した完璧世界から、
どうして悲惨に満ちた世界が出現しうるのか、
解決不可能な謎となってしまう。
その落差を埋めようとするならば、どこかで、
「人間自身の責任」
によって、「非常に良かった」状態からの堕落が起こった、とするしかない。
それを神の責任とすれば、
「神の作り損ない」
という問題が生じてしまう。
それをサターンの仕業とすれば、サターンに神をもしのぐ強大な力を認めてしまい、事実上の
「二神論」
となってしまう。
そこで、そのような形で要請される「人間の堕罪」をおそろしく重大なものにせざるを得なくなる。
つまり、ある意味で神(とサターン)の肩代わりを担って、
この世の悪一般を引き受ける
ような形で、
「人間は罪に落ちる」、
という役目を負うことになる。
伝統的なキリスト教教義の立場はまさにこの要請にあわせて、創世記第2章、第3章の
解釈をつくってきた
のである。
それが
人の「原罪」
という概念として固定化し、キリスト教教義におけるもっとも重要な神学概念の一つとすらなってしまったのである。
もしも原初史を、そのあるがままの姿で、すなわち、本来の原初史であるヤハウィストの作品と、それに対抗して書かれたP資料との対立の形のままで読むならば、こうした伝統的な宗教教義は足元から崩れ去ることになる。
それは、信者にとっては耐え難いことであろう。
しかし、敢えて断固そのようにして読むときには、「教義」に縛られて読む者には目に入ってこなかったもの、すなわち、ある一つの精神の格闘というものが見えてくるであろう。
私がここで原初史のうちに見ようとしているのは、まさにそれなのである。
私はユダヤ教に興味があるのでもなければ、キリスト教に興味があるのでもない。
私が興味をもつのは、この
「ヤハウィストという一個の稀有の精神の軌跡」
なのである。
』
【習文:目次】
_
● 1997/04[1996/02]
『
P資料の作者が誰であったか、ということは、ヤハウィストが誰であったかということと同様、判然としない。
「創世記」の原初史におけるJ資料とP資料のダブレット(同じ1つの主題について複数の作者が異なった話の筋、異なった表現で記述を行っているという現象)をみるかぎり、P資料の作者が、J資料の作者の作品に何らかの不満を抱き、それを自分なりに「改作」していることは明らかである。
ヤハウィストの原初史の第一幕は、もしこれを、
「神の世界づくりの物語」
として眺めるならば、まことに行き当たりばったりのいい加減な「世界づくり」の様であるといわねばならない。
「
ヤハウエ神が地と天を作ったとき、
-----
ヤハウエ神は土からとった塵で人を形づくり、彼の鼻に命の息を吹き入れた。
すると人は生き物となった。
」
このヤハウエ神は、まだ何一つお膳立ての整わぬうちに、いきなり人間を存へてしまう。
それを「エデンの園」の内に置いたのはよいが、この一人ぽっちの人間はいささか手持ち無沙汰で淋しそうである。
そこでヤハウエはあわてて、人のためにペット・動物を存へてやる。
ところが、それでも人間は不満そうである。
それではといって、人間が眠っている間に肋骨を一本とって、それで女を存へてやるのであるが、この女の存へ方なども、まさに泥縄式の見本ともいうべきところである。。
P資料作者が、こうした無計画な行き当たりばったりに顰蹙したであろうことは間違いない。
彼はあくまで整然と順を追って組織だった「神の世界創造」を描き出す。
まず、天を創り、地を創り、その地から植物を生え出させたうえで、天と地に住む動物たちを、これまた順番に手際よく創っていく。
そして、そのしめくくりに人間たちを作るときも、最初からちゃんと「男性と女性を創造」し、
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」
と命じる。
しかも念のいったことに、それらの「創造行程」の一区切りごとに、P資料の神はいちいち品質チェックをするのである。
「神がご覧になると、それはよかった」
まるで、品質管理システム(QC)の完備した工場での生産さながらである。
彼はおそらく、ヤハウィストの物語を繰り返しして読むほどに、不満のつのるのを憶えたことであろう。
彼はただちに、ヤハウィストの物語のどこがいけないかに気づく。
それは、ヤハウエが人をつくるのに、
土から材料をとってきた
ということ。
ここにすべての禍のもとがあったのだ、と彼は気づくのである。
材料などというものを介入させたからこそ、ヤハウエの存えた世界はやがてふたたび、材料の提供者である「地」からの取立てを受けることになるのだ。
この物語は、なんとしても書き直さねばならぬ。
「地(土)」などという余計物を排し、徹底した神のみによる世界づくりを描こう。
材料などというものを一切使わない「無からの天地創造」を描こう、これこそが、彼をあの「創世記」第1章の執筆へと駆り立てた決意であったに違いない。
P資料の作者は、彼自身の「天地創造の物語」をこう語りはじめる。
「
初めに神は、天と地を創造した。
」
作者は、この冒頭の一文を、この書全体を代表させるにふさわしいものとして、考え抜き練り上げて存へている。
作者はほとんど結論のような形でこの一文を発しているのであって、事実、この言葉を書いたときの彼の脳裏には、すでに第2章4節の締めくくりの文章がくっきりと浮かんでいたにちがいない。
「
これらが天と地の創造されたときの由来である。
」
P資料作者による「神の世界作り」 の物語を通じて、
「材料を用いることのない創造」
という考え方は、一つの理念としてその全体を貫いているといってよい。
それは後の世のキリスト教神学者たちの呼んだ通りの
「無からの創造(creatio ex nihilio)」
なのである。
「無から」の世界成立を語っている神話は、それ自体、決して珍しいものではない。
それでは、創世記第1章の「神の創造」のユニークな点はどこにあるのかと言えば、それが「無から」の創造を語っているのと同時に、それを
「神という創造者の行為」
(註:神の仕業にミスはないという前提が置かれてしまう)
として描きだしている、というところにある。
原初の状態が「無」であったと語られ、それから創造者が登場して世界を創り始めるという筋をもった創世神話もあるが、そのような神話でも、創造者が登場するとたん、話はにわかに具体的、即物的となり、結局のところ創造者の世界づくりそのものは、はっきりと材料のある「製作行為」として描かれることになる。
「無から」、しかもなんらかの創造者による行為として世界創造が語られるということは、極めて異例のことである。
この異例であること、ユニークであることは、実は言い換えれば、この「無からの創造」という神学概念のうちにひそむ難関(アポリア)の現れなのである。
いったいなぜ「創造者による無からの創造」という形をもった創世神話がそれほど「異例」なのか?
理由は簡単なことである。
それ自体がすでに一つの論理的矛盾だからである。
「創造者が居る」ということは、すでにいかなる意味においても、「無の状態」ではないということである。
「創造者による無からの創造」
という神話がユニークだということは、言いかえれば、それは論理的矛盾であり、
「ナンセンスである」
ということなのである。
問題をさらに複雑にしたのは、このP資料作者よりもさらに後の編纂者が、P資料の
「世界創造物語」を、ヤハウィストの原初史の前に
据えてしまった、ことである。
(註: 第1章 P資料による天地創造
第2章 ヤハウィストによる神の地と天の作造
第3章 ヤハウィストによるエデンの園
第4章 ヤハウィストによるカインの物語
第5章 P資料によるアダムの系譜 )
元来、ヤハウィストの原初史そのものの構想からすれば、その出発点である「神の世界づくり」は、すなわち「神の没落」の第一歩たるべきものであって、それが完璧なる
「不良品率ゼロの世界創造」
である必要はまったくないのである。
そんな世界創造であっては、その後の話がつながらないのである。
彼の原初史の出発点は神の完璧なる世界創造であってはならない、とさえいえるのである。
が、一方P資料作者は、徹底した「不良品率ゼロの世界創造」を目指す。
そもそも、「無からの創造」という理念を考えだしたのも、「材料」などというものを持ち込むことによって、そこに「不純物」が紛れ込み、神の創造の完璧さが失われるようなことがあってはならない、という発想なのであった。
それぞれの一日ごとの創造のたびに、神がそれを見て、それが良かったと語られているのであるが、念には念を入れるという]形で、すべてが創造されたあとで、もう一度最終チェックが行われるのである。
「神は彼が作られたすべてのものをご覧になった。
すると、見よ、それは非常に良かった。」
これほど完璧な品質管理のゆきとどいた世界創造物語を冒頭に置いてしまったら、その後の展開はいったいありえるのか?
少なくとも、これに引き続いてヤハウィストの
「神の没落のドラマ」
を語ろうというのは、ほとんど不可能なことである。
全知全能のの神が、これだけ注意深く創造した完璧世界から、
どうして悲惨に満ちた世界が出現しうるのか、
解決不可能な謎となってしまう。
その落差を埋めようとするならば、どこかで、
「人間自身の責任」
によって、「非常に良かった」状態からの堕落が起こった、とするしかない。
それを神の責任とすれば、
「神の作り損ない」
という問題が生じてしまう。
それをサターンの仕業とすれば、サターンに神をもしのぐ強大な力を認めてしまい、事実上の
「二神論」
となってしまう。
そこで、そのような形で要請される「人間の堕罪」をおそろしく重大なものにせざるを得なくなる。
つまり、ある意味で神(とサターン)の肩代わりを担って、
この世の悪一般を引き受ける
ような形で、
「人間は罪に落ちる」、
という役目を負うことになる。
伝統的なキリスト教教義の立場はまさにこの要請にあわせて、創世記第2章、第3章の
解釈をつくってきた
のである。
それが
人の「原罪」
という概念として固定化し、キリスト教教義におけるもっとも重要な神学概念の一つとすらなってしまったのである。
もしも原初史を、そのあるがままの姿で、すなわち、本来の原初史であるヤハウィストの作品と、それに対抗して書かれたP資料との対立の形のままで読むならば、こうした伝統的な宗教教義は足元から崩れ去ることになる。
それは、信者にとっては耐え難いことであろう。
しかし、敢えて断固そのようにして読むときには、「教義」に縛られて読む者には目に入ってこなかったもの、すなわち、ある一つの精神の格闘というものが見えてくるであろう。
私がここで原初史のうちに見ようとしているのは、まさにそれなのである。
私はユダヤ教に興味があるのでもなければ、キリスト教に興味があるのでもない。
私が興味をもつのは、この
「ヤハウィストという一個の稀有の精神の軌跡」
なのである。
』
【習文:目次】
_
:「バベルの塔」の作者、ヤハウィスト
_
● 1997/04[1996/02]
『
現在の旧約学の認めるところによれば、「バベルの塔」の物語のうちには、資料の混在はないという。
この物語はたった一つの資料のみで成りたっており、したがって
「資料の混在による記述の矛盾」
ということは起こりえない。
もし、この物語になんらかの「語り損ね」が見られるならば、それはたしかに
「この物語の作者が語り損ねている」
のだ、と言うことになる。
つまり、「『バベルの塔』の物語の作者」はたしかに存在するのである。
それはいったい誰なのかといえば、この物語は一般に「J資料」に属するものと認められているのであるから、当然、J資料の書き手がこの物語の作者である、ということになる。
そして実は、このJ資料の作者こそは、「原初史」を構想し、その大筋をはじめて作り上げたと思われる人物なのである。
4種の資料のうちで、「原初史」にかかわっているのは、J資料とP資料のみなのであるが、その基本構想を作りだしたのは、資料の成立年代からみても、また両資料の内容から見ても、明らかにJ資料の作者である。
P資料の作者は、ただそれを「改作」しているにすぎない。
つまり、「バベルの塔」の物語の作者は、同時に、「原初史」全体の作者と呼んでいい人物なのである。
この資料の書き手が、紀元前900年代の「南王国ユダ」に生きていた人らしい、というところまでは推測がつく。
この書き手が一人の人物であるかどうかということについて、学者たちの意見は真っ二つに分かれる。
20世紀はじめに活躍した旧約学者の一人、ヘルマン・グンケルははっきりと、J資料は多くの人々の手を経て次第に形成されてきたものだと断言する。
これに対して、同じく20世紀ドイツ旧約学の大御所の一人、ゲルハルト・フォン・ラートは、J資料の作者を「一人の人物」とみなす。
彼はその人物を「ヤハウィスト」と呼び、それをほとんど一個の固有名詞として使っている。
このような、両極端に分かれる見解のどちらをとるかということは、もはや「文献学」によって決着のつく問題ではない。
結局のところ、最後には、「その作品をどう読むか」にかかわる問題となる。
後世の世に切り刻ざまれて、はぎ合わされた断片を通読して、そこになを否定し難く「一つの個性」というものが貫いているのを見てとれるか否か ----それが答えを決めるのである。
J資料は、「原初史」のどの部分をとっても見ても、
「一人の作者による作品」
として理解するほかない、はっきりとした特色と一貫性を示している。
明らかに或る一貫した構想に導かれて構成されており、しかも、その構想の大胆さは、とうてい今から三千年も前の人間の構想とは信じられないほどである。
このJ資料の作者が誰であれ、少なくとも、その発想の大胆さと独自性は、その後のすべての注釈者たちをしのいでいる。
このような、文字通りの意味での「ユニーク」な作品が、「一人の人物の手になるものではない」と考えることはひじょうに難しい。
さらにその上、「原初史」を構成するJ資料がただ一人の手によって作られたものである、ということを革新させるのは、ほかならぬ、あの「語り損ね」である。
この原初史の最初の構想者は、きわめて大胆かつユニークな構想をもって全体を作りあげているのであるが、そのあまりにも大胆な構想は、ほとんど解決不可能と言ってもいいような難関(アポリア)を抱え込んでしまっている。
ある意味では、その難関の生み出すエネルギーこそが、原初史の一連のドラマを展開させてゆく原動力になっている、とさえいえるのであるが、そのような難関を抱えたドラマは、その最後の挿話「バベルの塔」の物語に至って、ついにその難関を支え持ちこたることができなくなってしまう。
解決不能な難関が、はっきりと解決不能なものとして、表面に浮かび上がってきてしまう。
あの「語りそこね」は、まさに原初史を通じて持ち越された難関のエネルギーが、とうとうそこで爆発を起こし、この物語を真二つに引き裂き、吹き飛ばしてしまう、という出来事だったのである。
ある大胆でユニークなものを作り上げるということだけなら、複数の人間の共同作業として行うことは不可能ではないかもしれない。
しかし、そこで躓き、語り損ねる、ということは、ただ一人の人間の企てとしてしか理解することができない。
複数の人間が、ある一箇所で、息を合わせてうっかり躓く、ということはほとんど論理的に不可能なことだからである。
このような理由から、私は、このJ資料のうちに、「ただ一人の人物」を認める。
そして、フォン・ラートにならって、彼を「ヤハウィスト」と呼ぶことにしよう。
ヤハウィスト、彼こそ「原初史」を構想し、「律法」の大もとをつくり、そしてユダヤ教の根本を形づくった人間なのである。
かくして、われわれは、いよいよ「バベルの塔」の物語の「作者」に面と向かうことになる。
いったい、ヤハウィストは、彼の原初史をいかに構想し、そしてその果ての「バベルの塔」の物語に至って、いかに躓いたのだろうか?
それをこれから順を追ってみてゆくことにしよう。
』
【習文:目次】
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● 1997/04[1996/02]
『
現在の旧約学の認めるところによれば、「バベルの塔」の物語のうちには、資料の混在はないという。
この物語はたった一つの資料のみで成りたっており、したがって
「資料の混在による記述の矛盾」
ということは起こりえない。
もし、この物語になんらかの「語り損ね」が見られるならば、それはたしかに
「この物語の作者が語り損ねている」
のだ、と言うことになる。
つまり、「『バベルの塔』の物語の作者」はたしかに存在するのである。
それはいったい誰なのかといえば、この物語は一般に「J資料」に属するものと認められているのであるから、当然、J資料の書き手がこの物語の作者である、ということになる。
そして実は、このJ資料の作者こそは、「原初史」を構想し、その大筋をはじめて作り上げたと思われる人物なのである。
4種の資料のうちで、「原初史」にかかわっているのは、J資料とP資料のみなのであるが、その基本構想を作りだしたのは、資料の成立年代からみても、また両資料の内容から見ても、明らかにJ資料の作者である。
P資料の作者は、ただそれを「改作」しているにすぎない。
つまり、「バベルの塔」の物語の作者は、同時に、「原初史」全体の作者と呼んでいい人物なのである。
この資料の書き手が、紀元前900年代の「南王国ユダ」に生きていた人らしい、というところまでは推測がつく。
この書き手が一人の人物であるかどうかということについて、学者たちの意見は真っ二つに分かれる。
20世紀はじめに活躍した旧約学者の一人、ヘルマン・グンケルははっきりと、J資料は多くの人々の手を経て次第に形成されてきたものだと断言する。
これに対して、同じく20世紀ドイツ旧約学の大御所の一人、ゲルハルト・フォン・ラートは、J資料の作者を「一人の人物」とみなす。
彼はその人物を「ヤハウィスト」と呼び、それをほとんど一個の固有名詞として使っている。
このような、両極端に分かれる見解のどちらをとるかということは、もはや「文献学」によって決着のつく問題ではない。
結局のところ、最後には、「その作品をどう読むか」にかかわる問題となる。
後世の世に切り刻ざまれて、はぎ合わされた断片を通読して、そこになを否定し難く「一つの個性」というものが貫いているのを見てとれるか否か ----それが答えを決めるのである。
J資料は、「原初史」のどの部分をとっても見ても、
「一人の作者による作品」
として理解するほかない、はっきりとした特色と一貫性を示している。
明らかに或る一貫した構想に導かれて構成されており、しかも、その構想の大胆さは、とうてい今から三千年も前の人間の構想とは信じられないほどである。
このJ資料の作者が誰であれ、少なくとも、その発想の大胆さと独自性は、その後のすべての注釈者たちをしのいでいる。
このような、文字通りの意味での「ユニーク」な作品が、「一人の人物の手になるものではない」と考えることはひじょうに難しい。
さらにその上、「原初史」を構成するJ資料がただ一人の手によって作られたものである、ということを革新させるのは、ほかならぬ、あの「語り損ね」である。
この原初史の最初の構想者は、きわめて大胆かつユニークな構想をもって全体を作りあげているのであるが、そのあまりにも大胆な構想は、ほとんど解決不可能と言ってもいいような難関(アポリア)を抱え込んでしまっている。
ある意味では、その難関の生み出すエネルギーこそが、原初史の一連のドラマを展開させてゆく原動力になっている、とさえいえるのであるが、そのような難関を抱えたドラマは、その最後の挿話「バベルの塔」の物語に至って、ついにその難関を支え持ちこたることができなくなってしまう。
解決不能な難関が、はっきりと解決不能なものとして、表面に浮かび上がってきてしまう。
あの「語りそこね」は、まさに原初史を通じて持ち越された難関のエネルギーが、とうとうそこで爆発を起こし、この物語を真二つに引き裂き、吹き飛ばしてしまう、という出来事だったのである。
ある大胆でユニークなものを作り上げるということだけなら、複数の人間の共同作業として行うことは不可能ではないかもしれない。
しかし、そこで躓き、語り損ねる、ということは、ただ一人の人間の企てとしてしか理解することができない。
複数の人間が、ある一箇所で、息を合わせてうっかり躓く、ということはほとんど論理的に不可能なことだからである。
このような理由から、私は、このJ資料のうちに、「ただ一人の人物」を認める。
そして、フォン・ラートにならって、彼を「ヤハウィスト」と呼ぶことにしよう。
ヤハウィスト、彼こそ「原初史」を構想し、「律法」の大もとをつくり、そしてユダヤ教の根本を形づくった人間なのである。
かくして、われわれは、いよいよ「バベルの塔」の物語の「作者」に面と向かうことになる。
いったい、ヤハウィストは、彼の原初史をいかに構想し、そしてその果ての「バベルの塔」の物語に至って、いかに躓いたのだろうか?
それをこれから順を追ってみてゆくことにしよう。
』
【習文:目次】
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:「モーセ五書」の成立
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● 1997/04[1996/02]
『
「バベルの塔」の物語は「原初史」 の内にあり、その原初史は「律法」の中でも、重要かつ特別な一を占めるものである。
そもそも「律法(トーラー)」なる書物がどのようにして書かれ、どのようにして出来上がっているのか。
これは現在のわれわれが本を書くのとは、まるで違った仕方で作り上げられたものだ。
現在分かっているところによれば、或る時代に、それまでヘブライの諸部族のあいだに、口伝えの伝承として伝わっていた種々の歴史的事件や物語が、文字によって書きとめられ、文書として出来上がる。
さらにそれがまとめられ、編纂されて最終的にいま見る「律法」「預言者」「諸書」という形に整えられたのであろうという。
したがって、そこには多くの作者たちがおり、またそれを切りはぎしていった編纂者がいた、ということになる。
彼らが、どの部分をどう書き、またそれをどう切りはぎしたのか、ということをしるために、ここ二百年ばかりの間に積み重ねられてきた、いわゆる「旧約学」なるものの研究成果をふりかえってみる。
実際、「タナハ」としてであれ、「旧約聖書」としてであれ、その成り立ちの詳細が明らかにされるようになったのは、この書物自体の年齢と比べると、ごく最近のことなのである。
ほぼ二千年近くものあいだ、「律法」、すなわち「モーセ五書」は、モーセ本人の筆になるものである、ということになっていた。
これは、ユダヤ教においても、キリスト教においても、疑ってはならぬ公式見解としてまかり通っていた。
それでは、五書はいったい何者が、いかにしてかいたものなのか?
そのことについての積極的な見解が登場するのは、18世紀になってのことである。
注目されたのは、五書の中に、同じ一つの物語が異なった語り方で繰り返されれていることがあるという現象(「タブレット」と呼ばれる)であった。
その場合、片方では神が「神(エローヒーム)」とのみ呼ばれているのに、もう片方では「ヤハウエ」(または「ヤハウエ・エローヒーム」)と呼ばれている。
さらに、他の用語や文体も異なっている。
これは明らかに、異なる作者によって書かれたものであることを示しているのではないか-----このような推理が、現代の「旧約学」につながる第一歩となったのである。
公式に認められたのは、1780年に発表された、ドイツの学者ヨハン・ゴトフリート・アイヒホルンの説である。
アイヒホルンは、
①.神を「エローヒーム」と呼んでいる文書を「文書E」と名づけ
②.神を「ヤハウエ」と呼んでいる文書を「文書J」と名づける。
これが基本的には、現在「文書資料」と呼ばれているものの区別の出発点となった。
その後いくつかの資料が新たに区別されて、現在では、「律法」の五書は、次の4つの文書資料からなっているとされている。
①.「J資料(ヤハウイス資料)」
アイヒホルンが「J」と名づけた資料はいまでも「J資料(ヤハウイス資料)」と呼ばれている。
紀元前900年、あるいはそれ以前に、「南王国ユダ」で成立したと考えられている。
アイヒホルンが「E」と名づけた資料は、現在では「E資料」と「P資料」とに区別されている。
②.「E資料(エロヒスト資料)」
「E資料」はJ資料のほぼ1世紀後に「北イスラエル王国」で成立したものと思われる。
③.「P資料」
P資料は「祭司文書(Proestly Code)」とも呼ばれ、バビロニア捕囚の直前に、おそらくは祭司の職にある者によって書かれたものとされている。
最後の「申命記」のみは、これらとは全く別の書き手によるものであることがわかっている。
④.「D資料」
この資料は「申命記」のギリシャ語訳「デウテロノミオン」の頭文字をとって「D資料」と呼ばれる。
これは紀元前622年頃、「南王国ユダ」の神殿から「発見」されたと言われているのであるが、実際にはその時に執筆されたものらしいと言う。
これら4種の文書資料が、(D資料をのぞいて)パッチワークのように切りはぎされて出来上がっているのが「律法」なのである。
したがって、そのパッチワークの実態---どこからどこまでが、どの資料によるものなのかということに関する正確な情報---を知らずに、やみくもに「作者の意図」を探ぐろうとしても、まったくの見当はずれに陥ることになる。
なかでも注意すべきは、その複雑な切りはぎが、一つの物語の内部まで及んだ結果、物語の記述に矛盾が生じてしまうことがある、ということである。
たとえば、その典型的な例が、「創世記」のなかの「大洪水の物語」である。
そこでは、第7章12節に、「雨は四十日四十夜のあいだ地上に降り続いた」とあり、その後、水が引き始めたことになっているのに、第7章24節では「水は150日間にわたって地上にみなぎり続けた」とあり、地上が完全に乾くまでにほぼ一年かかったことになっている。
この明らかな数字の矛盾は、編纂者が、この一つの物語のうちに、J資料の記述とP資料の記述とを混ぜいれたことから起こった矛盾、と説明されている。
すなわち、J資料の作者は、雨が40日間降り続いたと記述し、P資料の作者は水が150日間みなぎり続けたと記述している。
それをそのまま繋ぎ合わせてしまったために、このような食い違いが生じたのである。
』
【習文:目次】
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● 1997/04[1996/02]
『
「バベルの塔」の物語は「原初史」 の内にあり、その原初史は「律法」の中でも、重要かつ特別な一を占めるものである。
そもそも「律法(トーラー)」なる書物がどのようにして書かれ、どのようにして出来上がっているのか。
これは現在のわれわれが本を書くのとは、まるで違った仕方で作り上げられたものだ。
現在分かっているところによれば、或る時代に、それまでヘブライの諸部族のあいだに、口伝えの伝承として伝わっていた種々の歴史的事件や物語が、文字によって書きとめられ、文書として出来上がる。
さらにそれがまとめられ、編纂されて最終的にいま見る「律法」「預言者」「諸書」という形に整えられたのであろうという。
したがって、そこには多くの作者たちがおり、またそれを切りはぎしていった編纂者がいた、ということになる。
彼らが、どの部分をどう書き、またそれをどう切りはぎしたのか、ということをしるために、ここ二百年ばかりの間に積み重ねられてきた、いわゆる「旧約学」なるものの研究成果をふりかえってみる。
実際、「タナハ」としてであれ、「旧約聖書」としてであれ、その成り立ちの詳細が明らかにされるようになったのは、この書物自体の年齢と比べると、ごく最近のことなのである。
ほぼ二千年近くものあいだ、「律法」、すなわち「モーセ五書」は、モーセ本人の筆になるものである、ということになっていた。
これは、ユダヤ教においても、キリスト教においても、疑ってはならぬ公式見解としてまかり通っていた。
それでは、五書はいったい何者が、いかにしてかいたものなのか?
そのことについての積極的な見解が登場するのは、18世紀になってのことである。
注目されたのは、五書の中に、同じ一つの物語が異なった語り方で繰り返されれていることがあるという現象(「タブレット」と呼ばれる)であった。
その場合、片方では神が「神(エローヒーム)」とのみ呼ばれているのに、もう片方では「ヤハウエ」(または「ヤハウエ・エローヒーム」)と呼ばれている。
さらに、他の用語や文体も異なっている。
これは明らかに、異なる作者によって書かれたものであることを示しているのではないか-----このような推理が、現代の「旧約学」につながる第一歩となったのである。
公式に認められたのは、1780年に発表された、ドイツの学者ヨハン・ゴトフリート・アイヒホルンの説である。
アイヒホルンは、
①.神を「エローヒーム」と呼んでいる文書を「文書E」と名づけ
②.神を「ヤハウエ」と呼んでいる文書を「文書J」と名づける。
これが基本的には、現在「文書資料」と呼ばれているものの区別の出発点となった。
その後いくつかの資料が新たに区別されて、現在では、「律法」の五書は、次の4つの文書資料からなっているとされている。
①.「J資料(ヤハウイス資料)」
アイヒホルンが「J」と名づけた資料はいまでも「J資料(ヤハウイス資料)」と呼ばれている。
紀元前900年、あるいはそれ以前に、「南王国ユダ」で成立したと考えられている。
アイヒホルンが「E」と名づけた資料は、現在では「E資料」と「P資料」とに区別されている。
②.「E資料(エロヒスト資料)」
「E資料」はJ資料のほぼ1世紀後に「北イスラエル王国」で成立したものと思われる。
③.「P資料」
P資料は「祭司文書(Proestly Code)」とも呼ばれ、バビロニア捕囚の直前に、おそらくは祭司の職にある者によって書かれたものとされている。
最後の「申命記」のみは、これらとは全く別の書き手によるものであることがわかっている。
④.「D資料」
この資料は「申命記」のギリシャ語訳「デウテロノミオン」の頭文字をとって「D資料」と呼ばれる。
これは紀元前622年頃、「南王国ユダ」の神殿から「発見」されたと言われているのであるが、実際にはその時に執筆されたものらしいと言う。
これら4種の文書資料が、(D資料をのぞいて)パッチワークのように切りはぎされて出来上がっているのが「律法」なのである。
したがって、そのパッチワークの実態---どこからどこまでが、どの資料によるものなのかということに関する正確な情報---を知らずに、やみくもに「作者の意図」を探ぐろうとしても、まったくの見当はずれに陥ることになる。
なかでも注意すべきは、その複雑な切りはぎが、一つの物語の内部まで及んだ結果、物語の記述に矛盾が生じてしまうことがある、ということである。
たとえば、その典型的な例が、「創世記」のなかの「大洪水の物語」である。
そこでは、第7章12節に、「雨は四十日四十夜のあいだ地上に降り続いた」とあり、その後、水が引き始めたことになっているのに、第7章24節では「水は150日間にわたって地上にみなぎり続けた」とあり、地上が完全に乾くまでにほぼ一年かかったことになっている。
この明らかな数字の矛盾は、編纂者が、この一つの物語のうちに、J資料の記述とP資料の記述とを混ぜいれたことから起こった矛盾、と説明されている。
すなわち、J資料の作者は、雨が40日間降り続いたと記述し、P資料の作者は水が150日間みなぎり続けたと記述している。
それをそのまま繋ぎ合わせてしまったために、このような食い違いが生じたのである。
』
【習文:目次】
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:旧約聖書、約束の土地と選民思想
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● 1997/04[1996/02]
『
キリスト教世界で一般に「旧約聖書」と呼びならはされている書物は、本来はユダヤ教の聖典として成り立ったものだ。
(「旧約聖書」という名は、のちにこの書物がキリスト今日の正典とされたときに、キリスト以後の教えを「新約」と呼ぶのに対比してつけられたものにすぎない)
ユダヤ教の本来の呼び名によれば、これは「律法」「預言者」「諸書」の三部からなり、総称して「タナハ」と呼ばれるのである。
そのそれぞれは次のような構成になっている。
①.律法(トーラー)
モーセ五書:「創世記」「出エヂプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」
②.預言者(ネヴィイーム)
-----
③.諸書(ケトウヴィーム)
-----
「バベルの塔」の物語は創世記第11章におさめられており、「律法」の一部分ということになる。
この「律法」は「タナハ」全体の中で、もっとも早く正典化された部分であり、また内容的にももっとも重要なものとされている。
ときには、「タナハ」全体を「トーラー」と呼ぶこともあるくらいである。
それでは、この「律法:トーラー」とはいかなる書なのだろうか?
ヘブライ語の「トーラー」とは、「律法」と訳されるとおり、「定め」「掟」といった意味の言葉である。
そして実際、この「律法」の五書は、いたるところに、神がイスラエルの民に与えたとされるさまざまの法律や宗教的戒律の記述を含んでいるのである。
すなわち神ヤハウエがイスラエルの民と契約を結び、彼らがヤハウエの掟を忠実に守るならば、ヤハウエはかれらに、
土地を与え、
子々孫々の繁栄
を約束する、ということになっている。
「律法」の基本にあるのは、
「ヤハウエとイスラエルの民とのあいだの契約」
である。
この契約は、律法の中で重ねて繰りかえし確認され、その場面に応じて「アブラハム契約」とか「シナイ契約」とか呼ばれる。
その最も基本となるべき最初の契約が「アブラハム契約」で、ヤハウエはアブラハムにこう語ったとされている。
「
おまえの故郷、おまえの親族、おまえの父の家を離れ、私がおまえに示す地へ行け。
私はおまえを大いなる民とし、おまえを祝福し、おまえの名を偉大なものとしよう。
」
ヤハウエの約束のうちには、子孫の繁栄ということがうたわれたり、いまある苦境からの救出ということがふくまれたりするのであるが、一つ一貫して変わらないのは、
「土地の約束」
である。
最初、アブラハムに「私がおまえに示す地」と語られるのが、モーセへの言葉の中で語られる
「カナーンの地」
であり、実際にヤハウエはアブラハムをそこまで連れて行って、これをおまえの子孫に与える、と行って見せてやるのである。
しかし、この「土地の約束」は、はなはだ奇妙な約束であった。
というのも、それは現に人の住み着いている土地だったからである。
創世記第12章の、ヤハウエがアブラハムのそのその約束の土地を見せる場面では、はっきりと、
「当時、この地にはカナーン人がいる」
と語られている。
つまり、ここでのヤハウエは他人の土地を勝手にアブラハムに約束してしまっている訳で、客観的に言えば、この神の「土地の約束」は、まことに顰蹙すべき約束なのである。
けれども、ユダヤ教において、このアブラハム契約の顰蹙すべき側面が深刻な神学的問題となったことは、一度もなかった。
というのも、このユダヤ教の神ヤハウエは、「イスラエルの民の神」であると同時に、「全地の神」でもある。
したがって、その地にどの民族が住んでいようと、それはすべて本来ヤハウエのものであり、ヤハウエはそれを好きな時に好きなように取り上げて、好きな民族に与えることができるという訳なのである。
イスラエルの民の神が、同時に全地の神でもあるという、この一風変わった「二重性格」は、ユダヤ教の根本的特色をなすものと言えるのであるが、それによって、イスラエルの建国にまつわる根本的は「暴力」が、いわば正々堂々と公認されることになったのである。
しかし、他方では、神による「土地の約束」が、これほど明確な形で建国の出発点に据えられてしまったことは、ある難しい問題を生み出したともいえる。
すなわち、イスラエルの民にとって、
その国土がいつまでたっても本当の意味での自分たちの土地とは成り得ない、
という問題である。
「カナーンの地」は、あくまでも神との契約によって、イスラエルの民へと授けられたものであるのだか、それは彼らにとっては、いわば永遠の、
「神からの借地」
なのであり、、決して自分たちの「持ち家」とはなりえないのである。
ユダヤ教というものは、一面ではなはだ民族的宗教でありなが、また他方では、その神が「全地の神」でもあえという、特殊な性格を持っている。
これを普通「選民思想」という言葉で呼ぶのであるが、これは単なる「民族主義」や「中華思想」とはまっったく異なるものである。
単にその民族に固有の「守り神」がついていて、危機に際してその民族を守り、鼓舞してくれる、ということであれば、そういうもののない民族はない、とさへいえる。
しかし、それは「選民思想」ではない。
そこでは、それらの「守り神」の守備範囲がその民族のサイズとほぼ一致しているからである。
彼らが他の民族と戦うとき、必ず勝たせてもらえるかどうかの保証は、そこにはない。
「守り神」がどのくらい協力であるかは、実際に戦ってみなければわからないのである。
また一方で、いわゆる「中華思想」なるものは、むしろ「神」を抜きにしたところで成り立っている。
たとえば、漢民族が自らを世界の中心にあるものと理解していたのは、彼らの民族文化全体を背景にしてのことであって、何らかの神を後ろ盾に仰いでのことではなかった。
これに対して、正真正銘の「選民思想」は、全宇宙を支配する神が、ある特定の一民族を選び、ひいきする、ということによって成り立つ。
神がイスラエルの民の守るべき戒律と、この神がイスラエルの民に約束し、また与えた特別の恩恵の数々とについての記述が「律法」の大部分を占めている。
ところが、その中にひとつだけ、それらの部分とは全く違った、異質な記述の部分が存在する。
「律法」の一番初めの部分----創世記第1章にはじまり、第11章まで続いている、いわゆる「原初史」と呼ばれる部分がそれである。
この原初史においてはまだ「イスラエルの民」というものは現れていない。
この「原初史(Urgeschichte)」という名も、それがいまだ「イスラエルの歴史」になる以前の歴史である、というところからつけられた名である。
そこでは、この神ヤハウエが天地をつくった時のこと、人類最初の人間をつくった時のことに始まり、いかにして人類が諸民族に分かれ分散していったか、ということが語られている。
つまり、ここに描かれる神は、純然たる「全地の神」としてのヤハウエなのである。
「選民思想」にもとづく宗教としてのユダヤ教にとっては、その神を確かに「全地の神」として描き出す部分は、必要不可欠なのである。
分量からすれば、この原初史の部分が「タナハ」全体に占める割合は、ほんのわずかなものに過ぎない。
しかし、このほんの僅かな一部分こそが、ユダヤ教をユダヤ教たらしめていると言っても、決して大袈裟ではないのである。
そして、そればかりなく、この原初史の部分こそ、このユダヤ教の内から、一見それとは大きく異なる、キリスト教という新宗教が生まれ出てくる、その芽を内に含んだ部分であった、と言えるのである。
キリスト教徒たちは、自分たちのキリスト信仰をつづった諸書を「新約」と称し、他を「旧約」と称する。
この呼び方は、あたかも自分たちこそが、正統の「アブラハム契約」の更新者である、と言わんばかりである。
これはユダヤ教の立場からすれば、許しがたい僭称であるということになる。
ユダヤ教徒の目から見れば----また、客観的な立場から見ても----これは明らかに一種の宗教的簒奪というべきものである。
しかし、この「宗教的簒奪」は、一面では、たしかにユダヤ教自身居よって準備されたものである。
モーセに託された言葉にみるとおり、全地はヤハウエのものであり、したがってこの神ヤハウエは「全地の神」である。
たしかにこの神はイスラエルの民に特別の好意を示しているが、その本質は決して「イスラエルの民の神」なのではない。
この神はあくまでも全地・全人類・全宇宙の神なのである。
原初史の最後の挿話にあたるのが、「バベルの塔」の物語である。
とすれば、この原初史のなんたるかについて考えることなしには、「バベルの塔」の物語を正しく解釈することも不可能なのである。
』
【習文:目次】
_
● 1997/04[1996/02]
『
キリスト教世界で一般に「旧約聖書」と呼びならはされている書物は、本来はユダヤ教の聖典として成り立ったものだ。
(「旧約聖書」という名は、のちにこの書物がキリスト今日の正典とされたときに、キリスト以後の教えを「新約」と呼ぶのに対比してつけられたものにすぎない)
ユダヤ教の本来の呼び名によれば、これは「律法」「預言者」「諸書」の三部からなり、総称して「タナハ」と呼ばれるのである。
そのそれぞれは次のような構成になっている。
①.律法(トーラー)
モーセ五書:「創世記」「出エヂプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」
②.預言者(ネヴィイーム)
-----
③.諸書(ケトウヴィーム)
-----
「バベルの塔」の物語は創世記第11章におさめられており、「律法」の一部分ということになる。
この「律法」は「タナハ」全体の中で、もっとも早く正典化された部分であり、また内容的にももっとも重要なものとされている。
ときには、「タナハ」全体を「トーラー」と呼ぶこともあるくらいである。
それでは、この「律法:トーラー」とはいかなる書なのだろうか?
ヘブライ語の「トーラー」とは、「律法」と訳されるとおり、「定め」「掟」といった意味の言葉である。
そして実際、この「律法」の五書は、いたるところに、神がイスラエルの民に与えたとされるさまざまの法律や宗教的戒律の記述を含んでいるのである。
すなわち神ヤハウエがイスラエルの民と契約を結び、彼らがヤハウエの掟を忠実に守るならば、ヤハウエはかれらに、
土地を与え、
子々孫々の繁栄
を約束する、ということになっている。
「律法」の基本にあるのは、
「ヤハウエとイスラエルの民とのあいだの契約」
である。
この契約は、律法の中で重ねて繰りかえし確認され、その場面に応じて「アブラハム契約」とか「シナイ契約」とか呼ばれる。
その最も基本となるべき最初の契約が「アブラハム契約」で、ヤハウエはアブラハムにこう語ったとされている。
「
おまえの故郷、おまえの親族、おまえの父の家を離れ、私がおまえに示す地へ行け。
私はおまえを大いなる民とし、おまえを祝福し、おまえの名を偉大なものとしよう。
」
ヤハウエの約束のうちには、子孫の繁栄ということがうたわれたり、いまある苦境からの救出ということがふくまれたりするのであるが、一つ一貫して変わらないのは、
「土地の約束」
である。
最初、アブラハムに「私がおまえに示す地」と語られるのが、モーセへの言葉の中で語られる
「カナーンの地」
であり、実際にヤハウエはアブラハムをそこまで連れて行って、これをおまえの子孫に与える、と行って見せてやるのである。
しかし、この「土地の約束」は、はなはだ奇妙な約束であった。
というのも、それは現に人の住み着いている土地だったからである。
創世記第12章の、ヤハウエがアブラハムのそのその約束の土地を見せる場面では、はっきりと、
「当時、この地にはカナーン人がいる」
と語られている。
つまり、ここでのヤハウエは他人の土地を勝手にアブラハムに約束してしまっている訳で、客観的に言えば、この神の「土地の約束」は、まことに顰蹙すべき約束なのである。
けれども、ユダヤ教において、このアブラハム契約の顰蹙すべき側面が深刻な神学的問題となったことは、一度もなかった。
というのも、このユダヤ教の神ヤハウエは、「イスラエルの民の神」であると同時に、「全地の神」でもある。
したがって、その地にどの民族が住んでいようと、それはすべて本来ヤハウエのものであり、ヤハウエはそれを好きな時に好きなように取り上げて、好きな民族に与えることができるという訳なのである。
イスラエルの民の神が、同時に全地の神でもあるという、この一風変わった「二重性格」は、ユダヤ教の根本的特色をなすものと言えるのであるが、それによって、イスラエルの建国にまつわる根本的は「暴力」が、いわば正々堂々と公認されることになったのである。
しかし、他方では、神による「土地の約束」が、これほど明確な形で建国の出発点に据えられてしまったことは、ある難しい問題を生み出したともいえる。
すなわち、イスラエルの民にとって、
その国土がいつまでたっても本当の意味での自分たちの土地とは成り得ない、
という問題である。
「カナーンの地」は、あくまでも神との契約によって、イスラエルの民へと授けられたものであるのだか、それは彼らにとっては、いわば永遠の、
「神からの借地」
なのであり、、決して自分たちの「持ち家」とはなりえないのである。
ユダヤ教というものは、一面ではなはだ民族的宗教でありなが、また他方では、その神が「全地の神」でもあえという、特殊な性格を持っている。
これを普通「選民思想」という言葉で呼ぶのであるが、これは単なる「民族主義」や「中華思想」とはまっったく異なるものである。
単にその民族に固有の「守り神」がついていて、危機に際してその民族を守り、鼓舞してくれる、ということであれば、そういうもののない民族はない、とさへいえる。
しかし、それは「選民思想」ではない。
そこでは、それらの「守り神」の守備範囲がその民族のサイズとほぼ一致しているからである。
彼らが他の民族と戦うとき、必ず勝たせてもらえるかどうかの保証は、そこにはない。
「守り神」がどのくらい協力であるかは、実際に戦ってみなければわからないのである。
また一方で、いわゆる「中華思想」なるものは、むしろ「神」を抜きにしたところで成り立っている。
たとえば、漢民族が自らを世界の中心にあるものと理解していたのは、彼らの民族文化全体を背景にしてのことであって、何らかの神を後ろ盾に仰いでのことではなかった。
これに対して、正真正銘の「選民思想」は、全宇宙を支配する神が、ある特定の一民族を選び、ひいきする、ということによって成り立つ。
神がイスラエルの民の守るべき戒律と、この神がイスラエルの民に約束し、また与えた特別の恩恵の数々とについての記述が「律法」の大部分を占めている。
ところが、その中にひとつだけ、それらの部分とは全く違った、異質な記述の部分が存在する。
「律法」の一番初めの部分----創世記第1章にはじまり、第11章まで続いている、いわゆる「原初史」と呼ばれる部分がそれである。
この原初史においてはまだ「イスラエルの民」というものは現れていない。
この「原初史(Urgeschichte)」という名も、それがいまだ「イスラエルの歴史」になる以前の歴史である、というところからつけられた名である。
そこでは、この神ヤハウエが天地をつくった時のこと、人類最初の人間をつくった時のことに始まり、いかにして人類が諸民族に分かれ分散していったか、ということが語られている。
つまり、ここに描かれる神は、純然たる「全地の神」としてのヤハウエなのである。
「選民思想」にもとづく宗教としてのユダヤ教にとっては、その神を確かに「全地の神」として描き出す部分は、必要不可欠なのである。
分量からすれば、この原初史の部分が「タナハ」全体に占める割合は、ほんのわずかなものに過ぎない。
しかし、このほんの僅かな一部分こそが、ユダヤ教をユダヤ教たらしめていると言っても、決して大袈裟ではないのである。
そして、そればかりなく、この原初史の部分こそ、このユダヤ教の内から、一見それとは大きく異なる、キリスト教という新宗教が生まれ出てくる、その芽を内に含んだ部分であった、と言えるのである。
キリスト教徒たちは、自分たちのキリスト信仰をつづった諸書を「新約」と称し、他を「旧約」と称する。
この呼び方は、あたかも自分たちこそが、正統の「アブラハム契約」の更新者である、と言わんばかりである。
これはユダヤ教の立場からすれば、許しがたい僭称であるということになる。
ユダヤ教徒の目から見れば----また、客観的な立場から見ても----これは明らかに一種の宗教的簒奪というべきものである。
しかし、この「宗教的簒奪」は、一面では、たしかにユダヤ教自身居よって準備されたものである。
モーセに託された言葉にみるとおり、全地はヤハウエのものであり、したがってこの神ヤハウエは「全地の神」である。
たしかにこの神はイスラエルの民に特別の好意を示しているが、その本質は決して「イスラエルの民の神」なのではない。
この神はあくまでも全地・全人類・全宇宙の神なのである。
原初史の最後の挿話にあたるのが、「バベルの塔」の物語である。
とすれば、この原初史のなんたるかについて考えることなしには、「バベルの塔」の物語を正しく解釈することも不可能なのである。
』
【習文:目次】
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★ 『バベルの謎 ヤハウイストの冒険』:長谷川三千子
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● 1997/04[1996/02]
『
もし、この本にいささかなりとユニークなところがあるとすれば、それは「創世記」原初史というものを徹底して
「ひとつの作品」として読もう
としている、ということであろう。
これは伝統的な、ヨダヤ教信者、キリスト教信者の読み方と異なっているばかりでなく、現代の旧約学の主流をなす読み方ともまた異なっている。
ちょうど、中世の聖書解釈者たちが「モーセ五書」をモーセの書いたもの---預言者であるモーセが神の言葉を預かってそのまま書きしるしたもの---と考えることによって、「作者」という問題を避けて通ったのとおなじようにして、現代の聖書解釈者たちは、「モーセ五書」の記述を、いたるところで「伝承」へと還元することによって、「作者」の問題を避けて通ろうとしている。
およそこの世界の出来事全般を、「民衆」の歴史と称して、いかなる英雄も偉人も存在しないもののごとく扱おうとするのは、現代の歴史学者の悪弊の一つであるが、聖書解釈者たちもまた、その悪弊に染まろうとしている。
ひとことで言えば、昔も今も、人々は「精神」というあり方から逃げ出そうとし続けてきたのである。
私がこの「創世記」原初史のうちに見出したのは、一つ「精神」の軌跡であった。
それは、
地と天を創り上げた神に、一対一で対等に面とむかうことのできる「精神」であり、神の悩みを自らの悩みとして悩むことのできた「精神」である。
彼は、神を擬人化したのではなく、自らが神と同じ場所に立つことによった、神と同輩として理解することができたのである。
そのような精神のあり方は、禅宗の思想にふれたことのある者にとっては、少しも珍奇なものではない。
しかし、彼がのちに確立した、ユダヤ教やキリスト教教義にとっては、彼のような精神のあり方は、まったく「異端」と目されるべきものである。
まさに、それらの宗教の発端を作り上げたその精神を、それらの宗教は覆い隠し、埋め去り、忘れ去ってきたのである。
そのようにして覆い隠し、忘れ去ることによって、それらの宗教は、かの「精神」の直面した問題を、自ら直視するかわりに、まさに無意識に「強迫観念:オプセッション」として抱え込むことになったのである。
ここで私のしようとしていることは、ちょうど精神分析医の仕事とよく似通っている。
すなわち、患者が或る問題を自ら直視しようとせず、覆い隠し忘れ去ることによって、かえってそれに縛られているとき、彼に正しくその問題を直視させ、直面させることで治療を行うのが精神分析医だとすれば、それと同じことを私もしようとしているのである。
これを読む大多数の日本の読者にとっては、そのような「強迫観念:オプセッション」はただ他人の病であり、まったく他人事としか感じられないことであろう。
-----
さしあたっては、この大胆きわまりない一個の精神の展開の軌跡を、一つの冒険小説、あるいは一つのミステリーとして楽しんでいただければ幸いである。
』
☆ バベルの謎:まへがき
: 旧約聖書、約束の土地と選民思想
: 「モーセ五書」の成立
: 「バベルの塔」の作者、ヤハウィスト
: 「創世記」、原罪とはなにか
【習文:目次】
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● 1997/04[1996/02]
『
もし、この本にいささかなりとユニークなところがあるとすれば、それは「創世記」原初史というものを徹底して
「ひとつの作品」として読もう
としている、ということであろう。
これは伝統的な、ヨダヤ教信者、キリスト教信者の読み方と異なっているばかりでなく、現代の旧約学の主流をなす読み方ともまた異なっている。
ちょうど、中世の聖書解釈者たちが「モーセ五書」をモーセの書いたもの---預言者であるモーセが神の言葉を預かってそのまま書きしるしたもの---と考えることによって、「作者」という問題を避けて通ったのとおなじようにして、現代の聖書解釈者たちは、「モーセ五書」の記述を、いたるところで「伝承」へと還元することによって、「作者」の問題を避けて通ろうとしている。
およそこの世界の出来事全般を、「民衆」の歴史と称して、いかなる英雄も偉人も存在しないもののごとく扱おうとするのは、現代の歴史学者の悪弊の一つであるが、聖書解釈者たちもまた、その悪弊に染まろうとしている。
ひとことで言えば、昔も今も、人々は「精神」というあり方から逃げ出そうとし続けてきたのである。
私がこの「創世記」原初史のうちに見出したのは、一つ「精神」の軌跡であった。
それは、
地と天を創り上げた神に、一対一で対等に面とむかうことのできる「精神」であり、神の悩みを自らの悩みとして悩むことのできた「精神」である。
彼は、神を擬人化したのではなく、自らが神と同じ場所に立つことによった、神と同輩として理解することができたのである。
そのような精神のあり方は、禅宗の思想にふれたことのある者にとっては、少しも珍奇なものではない。
しかし、彼がのちに確立した、ユダヤ教やキリスト教教義にとっては、彼のような精神のあり方は、まったく「異端」と目されるべきものである。
まさに、それらの宗教の発端を作り上げたその精神を、それらの宗教は覆い隠し、埋め去り、忘れ去ってきたのである。
そのようにして覆い隠し、忘れ去ることによって、それらの宗教は、かの「精神」の直面した問題を、自ら直視するかわりに、まさに無意識に「強迫観念:オプセッション」として抱え込むことになったのである。
ここで私のしようとしていることは、ちょうど精神分析医の仕事とよく似通っている。
すなわち、患者が或る問題を自ら直視しようとせず、覆い隠し忘れ去ることによって、かえってそれに縛られているとき、彼に正しくその問題を直視させ、直面させることで治療を行うのが精神分析医だとすれば、それと同じことを私もしようとしているのである。
これを読む大多数の日本の読者にとっては、そのような「強迫観念:オプセッション」はただ他人の病であり、まったく他人事としか感じられないことであろう。
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さしあたっては、この大胆きわまりない一個の精神の展開の軌跡を、一つの冒険小説、あるいは一つのミステリーとして楽しんでいただければ幸いである。
』
☆ バベルの謎:まへがき
: 旧約聖書、約束の土地と選民思想
: 「モーセ五書」の成立
: 「バベルの塔」の作者、ヤハウィスト
: 「創世記」、原罪とはなにか
【習文:目次】
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