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● 2008/12[2004/06]
『
鋏を握る手がこわばりそうになるのを感じながら、つるは、どこか医者を思わせる風貌を持つ師匠の顔を思い出していた。
お彼岸の中日に、ちぎり屋のおもんから教えてもらっておはぎを作ったつるは、それを携えて、ひさしぶりに師匠の家を訪ねたのだった。
師匠は、さすがに寄る年波には勝てず、近頃はあまり仕事をしていないとのことだったが、つるが持っていったおはぎを「美味い、美味い」と3つも一気に食べてくれた。
そして、濃い目の煎茶をすすった後で、ぽつりぽつりとこう語った。
「
考えてみれば、面白いものよな。
職人というのは、たいてい、何かを作り出す。
あるものをなくそうとするのは、染み抜き屋くらいだ。
若い自分は、それが何やらてごたえがないような、空しいことのような気がしたこともあった。
だが、この年になってわしは、染み抜き屋の仕事というのは、もしかしたら、人の世に似ているのかもしれん、と思うようになってきた
」
「人の世、でございますか」
ぎくしゃくと首を傾げるつるに、師匠は静かに微笑んだ。
「
おおかたの人は、自分が生きた証として、子孫や金や名を遺したがる。
しかし、それらとて、永遠不滅のものでもない。
わしはな、最近、人が生きるとは、何かを遺すことではなく、この世に生まれるときに背負うてきた前世の罪業を、一つ一つ消して、無にしてゆくことではないか、という気がするんじゃ。
ま、これも、作を何一つ遺せ染み抜き屋の、独りよがりと言われれば、それまでじゃが
」
しみじみとした師匠の言葉が、今になってつるの旨に沁みてきた。
つるは、師匠の言葉を噛みしめつつ、一心に黒振袖を解いていった。
』
【習文:目次】
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