2010年6月19日土曜日

★ 七夕しぐれ:サラリーマンを中心に回りだした:熊谷達也

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● 2009/06[2006/10]



 子どもの世界は、大人の世界からは隔絶されたものだ、と思う。
 隔絶、という」言葉に違和感があるなら、断絶、あるいは独立、などと言い換えてもよいだろう。
 とにかく、互いに相容れないものであるのは確かだ。

 子どもの目から見れば、大人の世界は意味不明な記号の世界に過ぎない。
 子どもにとって大人の世界がリアルなものではなく、抽象的なものとして、決定的な記号化が進んだのは、たぶん、僕が生まれたころ、戦争が終わって干支が一回りしたあたりからだろう。
 国民挙げての戦争に負けた、という屈辱と、信じていたものが虚像だったと、という羞恥心からの、一種の逃避行動だったのかもしれない。
 国民のほとんどがサラリーマンに、もう少し性格に述べると、いかにもアメリカ的なホワイトカラーのサラリーマンになることを夢見て、非サラリーマンがサラリーマンに羨望と嫉妬の目を向け始めた時代であるからだ。

 たとえば、
「うちのお父さんはサラリーマンです」
と言った場合、サラリーマンという当時としては垢抜けた言葉でひと括りにすることで、大人の世界は実体を失った。
 実際には会社というところで何をしているのかわからないけれど、つきに一度月給袋を運んで来るペリカンみたいな存在として父親は記号化し、日々のリアリテイを伴う子どもの生活圏から分離され、排除された。

 家庭の在り方もサラリーマンを中心に回りだした。
 が、「お父さんは会社で一生懸命がんばっているのよ」と母親に言われても、何をどうがんばっているのか、子どもにはまったくリアリテイのない話で、何かよからぬことの言い訳にも聞こえてしまう。
 簡単に言えば、多くの大人が子どもにはわからない秘密を持つようになった、
 そして、秘密を明かすつもりのない相手を子どもは信用しない。
 つまり、自分たちの秘密を明かしてはいけない存在に、大人がなった。
 ここで決定的に大人と子どもの世界は分離した。

 もちろん、それ以前にも子どもは子どもの世界の秘密をたくさん持っていた。
 しかし、秘密を持ちつつも、所詮は大人に見抜かれているにちがいないという、一種のあきらめと、そして安堵があった。
 だから、なんでもいいのだが、自分たちの行う悪さは、いずれはバレルもの、という前提で悪さを働いていた。
 しかし、大人と子どもの世界の決定的な分離と隔絶で、大人は容易にこどもの秘密を見抜けなくなった。
 だから、うまく立ち回れば大人を騙せる、と気づいた最初の世代が僕たちであり、同時に大人はあてにならないと最初に知った世代でもある。
 たぶん-----。









 【習文:目次】 



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