2010年6月16日水曜日

: 凡兆

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● 2008/10[2006/04]



 連句をさばいていく芭蕉は、ときとして疫病神となる。
 芭蕉流は、前句に引きずられることを良しとしない。
 前の人が詠んだ句の匂いを引き継ぎながら、まるで別の情景へと転換することを良しとする。
 下手な付句が出ると、芭蕉はただちに叱り飛ばして修正した。

 人が生きていく作法には伝統的なしきたりがあり、基礎をふまえつつ、間違いないように慎重にすすめる。
 たとえば茶道がそうである。
 よどみなく茶事がすすんでいくとき、人はふと、
 「ここで場をひっくり返すというような、とんでもないことをしてみたい」
と思う魔の瞬間がある。
 正客には恨みはないが、正客の顔に煮えたぎった茶をかければ、大変な事態となるだろう。
 片方でそう考えて、その誘惑を打ち消して、とどこおりなく茶事を終える。

 歌仙ではそれをやる。
 ただし、正客に茶をかけるといった不粋さではなく、風雅をもってひっくり返し、その場を戦場と化すことぐらいお手のものだ。
 それが町なかのにぎわいに転じ、雪山となり、夏草となり、さらにスルメ一枚に化けたかと思うと、無頼者の脇差となり、田の蛙になる。
 前句で付句を切り返し、それをつぎつぎと転換していくパノラマだ。
 その反転を自在になして一巻の歌仙が巻かれる。
 したがって歌仙にはまると、積み重ねではなく、切り返しの技がうまくなる。
 転換の妙である。
 発句一句のみならば17文字の宇宙であって、そこで完結する。
 が、連句となると、そうはいかない。
 技のかけあいが句作りの骨法となる。
 芭蕉はその仕切り役であって、仕切りによって俳諧はいかようにでも動くのである。
 この思い切りのよさを、自分の人生にしてしまうと、失職する。
 俳諧の席にいる芭蕉は、言葉の霊媒師だ。
 でありつつ芭蕉も俳諧物語の迷路に入り込んでいく。

 「猿蓑」選に重厚篤実な人柄の去来(きょらい)と、変化球を投げる凡兆(ぼんちょう)という新参者を組み合わせたところに興行師としての芭蕉の才があった。
 新参といえども、凡兆は芭蕉より4歳ほど年上である。
 内科医として、一家言があり、京都で医院を開いている。
 去来は長崎出身で外科医の息子である。
 外科医である兄を手助けしている。
 芭蕉、去来、凡兆をトリオとして歌仙を巻けば、新風の風邪が入る。

 凡兆は景気を得意とする俳人であった。
 景気がいい、といえばいまは商売の話となるが、俳諧の景気とは、時代の気分である。
 このころから芭蕉が言い出した「不易流行」の「不易」は去来にあり、「流行」は凡兆にあった。
 芭蕉は新人の凡兆を加えることによって、「軽み」の勝負に出た。

 「猿蓑」が刊行されてしばらくすると、芭蕉は凡兆を見限っていたふしがある。
 ほとんどの評伝は、芭蕉を最高指導者(神)として、芭蕉を中心にとらえている。
 結果、芭蕉に離反した俳人は脱落者として断罪する。
 しかし、芭蕉は自らいうように風狂の人であって、聖人君子ではない。
 悪党の貫禄があり、いささかでも癇にさわると、虫けらのように見棄て、重用した人ほど斬り捨てたくなる性分だ。
 才ある人を育てながらも、気分ひとつで嫌ってしまう。

 これは才ある師匠に共通する心理で、芭蕉も例外ではなかった。
 それを知り抜いていたのが其角であった。
 芭蕉に認められたつぎに、この罠があるため、去来のように徹底的に尽くすか、さもなくば自分で新風を切り開いていくしかない。
 凡兆の場合は、罪人として下獄したため、最悪の結果となった。
 凡兆が罪人となったのは元禄6年(1693)とされている。
 芭蕉が没したとき、凡兆は京都追放の身であり、気の荒い性格だから、つかまっても心証は悪い。

 文芸の伝統においては、罪人であろうが心を打つ作品を残した人は、認められる。
 それは和歌においても同様であって、「罪なき罪」(無実の罪)で流罪となることを願った歌人さえいて、これが文芸の特権である。
 蕉門にあっては、芭蕉の句を愛好する人と、聖人化された芭蕉の人格を慕う人、の二派に別れる。
 現在の芭蕉ファンは、この二派が両方とも入っている。
 聖人芭蕉を愛する門下生からみると罪人となった凡兆は悪人となる。







 【習文:目次】 



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