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● 2008/10[2006/04]
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はじめに
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「芭蕉は大山師だ」といったのは芥川龍之介である。
芥川以前に芭蕉を批判した人は正岡子規である。
芭蕉をけなすことは覚悟がいる。
子規と芥川の論は芭蕉をブランド化する宗匠への反感が先立っていて「若気の至り」の感はいなめない。
しかし、子規と芥川には、「芭蕉は悪党である」という直感があった。
それはなぜか。
芭蕉没後、蕪村が出るまで、俳諧は月並みとなり、混乱し、低迷を重ねた。
蕪村は其角の弟子であった早野巴人に学んだ。
巴人は其角に師事しながらも、江戸の洒落風になじめず、孤高の障害をすごし、
「俳諧に門なし。ただ俳諧というをもって門となす」
と言った。
ここにおいて、芭門は消滅したことになる。
碑がそこかしこに作られ、浄財をつのって芭蕉堂がたてられ、木像を安置するにいたって芭蕉は偶像化され、それは今もなを続いている。
「奥のほそ道」の芭蕉と曾良の彫像はやたらと多い。
百回忌の寛政5年(1793)4月には、ときの神祇伯白川家より「桃青霊神」の神号を授けられ、筑後高良山に、風雅の守護神として神社にまつられた。
その13年後の文化3年(1806)には「古池や‥‥」の句にちなんで、朝廷より「飛音明神」の号を賜った。
百五十年忌の天保14年(1843)には、二条家より「花の本大明神」の神号を下され、芭蕉は名実ともに「神」となった。
芭蕉は「宗教と化した」のである。
こうなると句の鑑賞どころではなくなり、芭蕉は、ただただ拝むだけの対象となり、いまなを続く「芭蕉信仰」はこのころから始まった。
「古池や‥‥」が「飛音明神」となれば古池もまた枯淡の聖なる池である。
蛙が飛び込んだ池は、江戸大火で大量の死人が飛び込んだ池でもあって、泥の臭いが強い混沌の池である。
「悪党芭蕉」とタイトルをつけて、「老人アイドル」と化した芭蕉を、俗人と同じレベルで、考えなおそうとしたのは、そのためである。
芭蕉もひとり、私もひとり、読者もひとりの地点に立つところから考える。
芭蕉が評価する弟子は、つぎからつぎへと離反していく。
ということは、芭蕉は危険な人物であったのだ。
弟子は、自分こそが第一実力者だと思っているから、芭蕉に反旗をひるがえすことは、むしろ当然の行為となる。
義仲寺葬儀に三百余人が参列したことは、俳風によること第一だが、葬儀を仕切った其角(きかく)の力が大きい。
芭蕉が性格破綻の弟子をかばうのは、そこに自己の分身を見ていたからだ。
それが、門下内の軋轢を招いた。
芭蕉の周囲は危険人物だらけである。
にもかかわらず、俳聖とあがめられ、数百にわたる研究書や評釈集も、芭蕉を「求道の人」「枯淡の人」「侘び寂びの俳人」としている。
俳人の多くが芭蕉を深読みすればするほど、芭蕉像は七色の虹に彩られていく。
おわりに
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紆余曲折しつつ芭蕉の正体をさぐってきたが、ここでひとまず筆を擱くこととする。
芭蕉は多面体の革新派で、たえず揺れ動いているから、どれをもって芯とするかは難しい。
ただ、芭蕉の周辺には危険な人物が多く、其角もそのひとりである。
其角は幕府を挑発する句を詠んでいるから流罪すれすれのところにいた。
そういった遊び人連中が蕉風の俳趣味を第一としていた。
芭蕉を「悪党」としてしまったのはそういう意味であると了解願いたい。
芭蕉は危険領域の頂に君臨する宗匠であって、旅するだけの風雅人ではない。
芭蕉の凄味は連句の席でぬっと顔を出す。
江戸の蕉門は、旗本や豪商にまじって、其角を中心とする遊び人が多かった。
芭蕉が没する前年の元禄6年(1693)、幕府が出す「生類憐みの令」はますますエスカレートし、魚釣りが全面禁止となり、釣り船営業停止となった。
其角はそれをからかった句を詠んでいる。
「奥のほそ道」のあとに芭蕉が旅をしようと考えていたのは長崎である。
江戸へ下ったとき、芭蕉の眼にとまったのは紅毛人のカピタンだった。
長崎はまるごとカピタンの町で悪所でもあった。
貿易港だから、抜荷船が出没し、磔刑、斬首となるものが続出していた。
繁栄する都市には犯罪がつきもので、芭蕉の本能は都市をめざす。
欲に目がくらみ、身を破滅させてしまうほどの地が芭蕉をひきよせ、そこに俳諧が’成立する。
芭蕉の強さは、門人たちの闘争にあり、各派がはりあって論争したことによる。
芭蕉没後、弟子たちが四分五裂したからこそ、最終的に芭蕉が残ったのである。
この一冊を書き終えて、正直いってへとへとに疲れた。
知ればしるほど、芭蕉の凄味が見えて、どうぶつかったってかなう相手ではないことだけは、身にしみてわかった。
平成18年3月25日記 嵐山光三郎
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【習文:目次】
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