2010年6月30日水曜日
★ 福の神と貧乏神:はじめに:小松和彦
● 2009/01[1998/06]
『
[現代人は何を幸せと考えているのか]
戦後の日本は、多少のデコボコはあったものの、一貫して経済成長を遂げてきた。
いわゆる「右肩上がり」の経済成長である。
そして、1986年「バブル経済期」に突入した。
バブルという[悪夢」(もっとも、そのときは「快い美酒」であったが)が日本人にとりついたとき、多くの日本人がその欲望を思いっきり膨らました。
傲慢にも、日本経済という「打ち出の小槌」は、「尽きることのない富」を生み出し続けるのではないかと錯覚した。
多くの人がバブル経済に踊り狂い、その恩恵に浴し、それに振り回された。
バブル経済がもたらした最大の悲劇は、「分をわきまえる」ことを忘れ、「強欲」に身をまかせてしまったことである。
「お金」の前にあらゆるものが屈服し、それを追い求めて狂奔する見苦しいまでの日本人の姿を白日のもとにさらけ出したのである。
バブルが去ってから十数年が経った今、日本経済は厳しい不況のただ中にある。
戦後の日本を支えてきたさまざまなシステムが崩壊し、適切な対応がなされぬまま、格差社会が進行している。
「豊かな国・日本」を謳歌していたときには考えもしなかった「貧困」が深刻になっている。
このような時期だからこそ、日本人にとって「福」とか「富」とか「幸せ」とはなんだったのかということを、冷静にふりかえってみることが必要である。
そう思って周囲を見わたしてみたところ、意外なことに、「福」「富」「幸せ」「欲望」「福神」などのキーワードを織り合わせたような手ごろの民俗学的な研究や、それに近い日本文化論がないことに気づいた。
それならばいっそのこと、私自身がこれまでの研究をふまえながら、「福」とか「富」について日本人がどのような観念を抱いてきたかを探ってみようと思い立ったのである。
私が研究している民俗学は、現代の都市社会を真っ向から扱う学問ではない。
少なくとも、これまでの研究蓄積の中身は、現代人からみれば「過去」になってしまったかのような日本の民俗社会(村落社会)に焦点を合わせることで得られたものが主流を占める。
現代都市から時間的・空間的に遠く離れた「過去の社会」や、「周辺の社会」から掴み出された「福」や「富」の観念に、わたしたちの生活を照らし合わせるとき、逆に現代人の「福」や「富」や「幸福」の観念が、くっきりと浮かび上がってくるのではないだろうか。
いま求められているのは、そうした視点からの文化・文明論なのではなかろうか。
この小さな本は、そうした思いをこめて書いたつもりである。
本論に入る前に、「幸せ」とか「富」とか「福」といった、この本のキーワードについて、基礎知識を得ておくことにしたい。
<<略>>
どうして欲望がわいてくるのだろうか。
それは、欲しいモノが簡単に手に入らないからである。
わたしたちは、いつでも手に入るものに格別の欲望を感じない。
手に入れ難いから欲望を感じるのであり、そこに「価値」が発生する。
つまり、自分と対象との間に容易には乗り越え難い「距離」、あるいは「障害」があるからこそ、欲望が発生するという条件が出来上がるのである。
この「距離」によって、自分と対象との関係が自覚され、このことによって自分のほうに「欲望」が生じ、対象のほうに「価値」が生じる。
さらに、この欲望の対象とは、「多くの人」が欲望の対象としているモノと同じモノである。
多くの人が欲しがっているから、容易に手に入らないということになり、だからこそ自分もまた欲しくなるという関係になっている。
相関相乗効果が働いているのである。
「幸せ」とは、みんなが欲しがるから自分も欲しがり、その結果、ますます手に入れにくくなり、ますます価値が高くなる、という構造をもっている。
それゆえ、苦労の末にそれを手に入れたときに「幸せ」と感じるわけである。
このことは、個人的な事柄のように見えながら、実は欲望というのが極めて社会的な性格をもったものなのだ、ということも語っている。
「欲望」には限りがない。
なんらかの社会的あるいは自然的規制が加えられないかぎり、どんどん肥大していく。
バブル経済現象などはその典型である。
社会経済学者の佐伯啓思はこれを
「限界域の拡張運動」としての欲望(限界域:フロンテイア)
と、名づけている。
欲望が対象との「距離」によって生じるものであるとすれば、それが容易に手に入り、それに慣れ親しんでしまうと、この「距離」がなくなり、もはや欲望をかき立てられなくなってしまう。
したがって、欲望はさらに「距離」のある対象を探し求めることになる。
欲望は絶えず「新奇なモノ」、「刺激に富んだモノ」、「未開拓なモノ」を求めて無限にその限界域(フロンテイア)を拡げていくという運動を行っている。
無限に拡張する欲望の本質は、必要なものを手に入れるといったことではなく、モノを通じてその背後にある「何か」を、つまり、神秘的なもの、異界的なもの、神的なもの、未知のものを求めることにある、とも考えられている。
そのような「限界域の拡張運動としての欲望」の行き着く果てに待っているのが、「無」であり、「死」であることも分かっている。
このことは、この本では、民俗社会の表現を用いて明らかにされるはずである。
』
【習文:目次】
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