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● 2008/10[2006/04]
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元禄4年(1691)、江戸へ戻った芭蕉は、点取俳諧が以前にもまして盛んになっていたことに、ひどく腹を立て、失望した。
二年半、江戸を留守にしていた芭蕉は、江戸俳壇が、別のレベルで肥大化していることに気がつかなかった。
「軽み」は素直な自然観照による平明な詠みである。
内心のリズムをそのまま句姿に定着させ、わかりやすい言葉で表現する。
これはとりもなおさず、大衆化路線であり、そのところは点取俳諧と同じである。
芭蕉愛好家は、芭蕉が批判した点取俳諧を堕落遊蕩文芸としてかたづけるけれども、それじょど簡単に済ませられるものではない。
むしろ、芭蕉が時流についていけなくなった、とみたほうが性格である。
江戸での評判は、芭蕉より其角のほうが上であって、版元からすれば、其角本が欲しい。
人気が逆転しても、其角は芭蕉を宗匠としてたてる。
芭蕉を超宗匠化して、別格扱いとし、実質一位の地位を確保しようという腹が見える。
いや、其角の気分からすれば、芭蕉を立ててみせる余裕があったというところだろう。
芭蕉は営業俳句ともいうべき点取俳諧を苦々しく感じながらも、そういう其角だけは可愛くて仕方がない。
芭蕉の第一の弟子で才も有り余っている。
其角が俳諧宗匠として点者生活をはじめたのは26歳ごろからであって、元禄5年には32歳だから年季が入っている。
芭蕉が嫌う点取俳諧は、やたらと出てきた二流俳諧師が営業する歌仙で、金がからむところが気にいらない。
いまでいえば、スター学習塾講師が、各塾を駆け巡って高給をかせぎ、塾は塾で大学合格率を競う、といった状況に似ている。
俳諧賭博には「三笠付:みかさづけ」といったものから各種あり、一例をあげると上五句を隠して当てるという賭けである。
あたった者は布団やら高給家具やらの豪華賞品が手に入る。
そのため、賭け句出題者のもとへは、賞金ほしさに多くの弟子が集まることになった。
夢中になって破産する者が出手、幕府は禁止令を出した。
これは、芭蕉から見れば、じつに許されざることであろうが、反面、文芸がギャンブルとなった稀な例であろう。
この世に賭博はいろいろあるが、文芸がギャンブルの対象になったのは世界中見渡しても、俳諧賭博以外には見当たらない。
それほど元禄の町衆は俳諧好きだったわけで、むしろ文芸国家として自慢すべきことでもある。
蕉風をもって俳諧史全体を理解することはできない。
芭蕉が批判した江戸点取俳諧は、風雅さに欠けるとはいえ元禄ルネッサンスの町衆パワーに満ちている。
俳諧はもともと「風雅と滑稽」が混然とあるもので、芭蕉初期の句にもそれが見られる。
芭蕉は、そのあと進化して、自己の内奥を見つめて、純文学にしていった。
一方、点取俳諧は、滑稽の部分が突出して大衆文学化していく。
点取俳諧の立場から見れば、言語遊戯の宴会と言われても、これぞ庶民の底力だという開き直りがある。
宮廷主宰の歌合せには、勝者には賞品が出た。
それを受けての俳諧の席では座興として景品が出て、さらに賭け金合戦となった。
これは当然のなりゆきである。
が、芭蕉にはそれが許せない。
点取俳諧は、現在の新聞や雑誌の俳句懸賞募集につながる。
現在は俳句に代わって小説が文芸の主流となり、小説コンクールには懸賞金がつけられるようになった。
これは点取俳諧の流れを組んでいる。
其角は毀誉褒貶の多い人である。
大酒を飲み、遊里で遊び、歌舞伎役者市川団十郎や豪商を友として、およそ芭蕉と反対の障害を過ごした遊蕩児である。
句は難解なものが多い。
江戸で藩医兼町医者をしている竹下東順の長男として寛文元年(1661)に生まれた。
芭蕉より17歳若い。
◇ 詩商人年を貪る酒債かな(しあきんど、としをむさぼる、さかてかな)
「詩あきんど」とはよくぞ言ったもので、まことに芭蕉、其角は「詩商人」である。
「詩あきんど」である俳諧商人(其角)もまた酒代の借金に負われて、いたずらに年をとるばかりだ、という嘆息である。
晩年には蕉門を育てるという野心は薄れ、ついて来る者のみに稽古をつけている。
「去る者は去れ」という気概である。
したがって、「軽み」を提唱したときは、昔からの弟子はついていけずに離反する者が多く出た。
蕉門を運動体としてプロデュースしたのは江戸の其角であった。
孤高清貧で生涯を通した芭蕉に比べると、其角の放蕩ぶりは目にあまり、句は奇をてらって衒学的になり師風とはかけ離れた。
遊蕩者の其角には即興の吟に粋があって、それが江戸では、芭蕉をぬく人気者になったゆえんである。
これもまた芭蕉の分身のひとつといわねばならない。
其角の句で気っぷのいい句をあげておこう。
◇ 夕涼み、よくぞ男に生まれける(五元集)
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【習文:目次】
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