_
● 2008/10[2006/04]
『
芭蕉が「不易流行(ふえきりゅうこう)」を説いたのは、「奥のほそ道」の旅が終わったころである。
「不易」は永遠に変わらぬ原理。
「流行」とは刻々と変化していくことである。
芭蕉はかなり早くから、俳諧の流行と不易性に注目しており、それを、旅のなかで見出して、弟子をケムにまいた。
元来、「不易は善」「流行は悪」という生活上の概念がある。
芭蕉の本心は、不易(善)には、流行(悪)にある。
世間一般の生活理念では流行を追うウカレ者は悪であるが、流行こそが俳味の命なのであり、流行をとらえる技が俳諧師の腕となる。
「不易」はつけたしである。
俳諧のルールは芭蕉式新ルールによって、それまでの百韻から36韻に縮められた。
これにより、仕事を終えた武士や町人は夕刻七つ半(5時)あたりから歌仙を巻きはじめて、五つ半(夜9時)くらいに終了する。
百韻形式の歌仙をやれば、徹夜マージャンになる。
連句とは、句と句の間にその物語性がある。
初句をへて36韻が終了するまでは、さまざまな検討がなされ、場を仕切る芭蕉がひとつひとつ答えて、修正していく。
板本になった連句には、そのあいだのやりとりは消されているため、そこでなにが話されたかはわからない。
したがって連句は本来的に謎を含んだ暗号文学という側面がある。
句と句の余白の解釈は読む者の自由だ。
芭蕉は見えざる壁にぶち当たっていた。
それは「不易流行」の「流行」であり、「軽み」につながっていく。
「不易」の体質は、芭蕉にしみついてしまって、いまさら不易を説く必要は無い。
自己をどう「軽く」していくか。
俳諧師は「重く」なってしまったときは、もう終わりである。
芭蕉には不易はあるが、「流行」があったかどうか。
「奥のほそ道」の巻頭には、
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」
とあり、これは流行を言っている。
ということは、芭蕉にとっての流行は日々のたびであって、「流行」を知るために旅に「たよる」
「不易流行」の句は「奥のほそ道」に多く出てくるが、それは旅をしているから、そうなるのである。
芭蕉は「作意」を嫌った。
芭蕉のいう「作意」とは、「作為」であり、作り手の仕掛けが見え透いてしまうことである。
句が上達すると、技巧が先行して、純粋の感動が薄まってしまう。
小学生の句のほうがプロの句よりの新鮮で驚くことが多い。
子どもの句には無駄な技巧がなく、直截の目がある。
その子が成長してうまくなっていくと、巧を意識するあまり「作意」が出て、その結果、並句しか出来ない。
芭蕉が「作意」 を否定しても、その基準がどこにあるかは極めてアヤフヤである。
発句を吟じることが「作意」であり、まして約束事の多い連句作法の附句は作意なくして不可能である。
それを知りつつ芭蕉が「作意」を否定したのは、「つねに素にもどれ」という決意表明であろう。
であるけれども、具体的な表になると、「作意」と「無作意」の差はつけにくい。
不易流行も同様で、「奥のほそ道」という旅では通用するが、旅もせず、町に暮す人々には分かったようで分からない。
芭蕉は求道的で厳密である。
句を吟じつつ句論を確立しようとする。
不易流行がどうもおかしくなると、「軽み」を打ち出して、これに昔からの弟子の多くがついていjけなかった。
芭蕉は求道的になろうとするほど破綻しはじめる。
自己の論と作品が乖離していくのをふせぎようがない。
芭蕉に欠けていたのは、放蕩児と言われた其角の自在さであった。
芭蕉意向の蕉門がバラバラに飛び散るのは、むしろ当然の結果であった。
』
【習文:目次】
_