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● 2009/10
『
まことに屈辱的、かつ自虐的な告白をしようと思う。
いつかどこかで誰かに懺悔 しなければならぬ罪ならば、本書こそふさわしい。
英語がしゃべれんのである。
もともと見栄っ張りの恥知らずであるから、いっけんペラペラのように見えるらしいが、実は丸覚えの構文に適当な単語を鷹揚しているだけで、会話には程遠い。
ヒアリングは先方の表情と一部の単語からの推理である。
まずいことに、洋の東西を問わず世間の人々は「小説家=文学者=語学堪能」というイメージを抱いているので、私の海外旅行はその前提のうえに進行するから恐ろしい。
入国書類にはむろん堂々と、「NOVELIST」とか「AUTHOR」と書く。
職業を詐称してはならぬし、そのくらいの単語は知っている。
ところがたいてい、通関の係員はこの職業に目をとめると、私にはまったく理解不能の質問を、矢継ぎ早に浴びせかけてくる。
「アイアム・ソーリー・アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」
屈辱の旅は、いつもこの正確無比な英語から始まる。
もっとも、私は小説化である前に純血の日本人オヤジであるから、英語をつかえなくとも何ら不思議はない。
しかし、わが英語歴を考えると、この結果はまことに不思議なのである。
私立のミッションスクールに通っていた私は、何と小学校1年生のときから、外国人教師による英語教育を施されていた。
週に2時間か3時間、6年間をみっちり学んだ。
おそらく小学校6年生の私は、今よりずっと上手に英語を使ったはずだ。
義務教育で3年間、中高等学校で6年間、大卒で10年間。
私たちはかくも長大な歳月を英語学習に捧げている。
私の場合は大学に行かなかったが、小学校の6年間に予備校での1年間を足せば、つごう13年の長きに及ぶ。
その結果が、
「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」
では、まさに徒労というほかあるまい。
こうした減少は、わが国の英語教育が伝統的な読み書きの学習に偏重していて、会話に重きを置かないからだと、という説もある。
しかしたいていの人は、会話と同様に読み書きもできないのだから、この説はいささか説得力に欠ける。
つまるところ、相当の時間と労力をかけて学ぶことは学ぶのだが、それぞれの学校の卒業時をピークとして、アッという間に忘れてしまうのであろう。
いよいよ徒労という感じがする。
教養というものの正体は、何も英語に限らずそうしたものであるから、まあいいか、とも思う。
しかし、個人的には納得いかぬことである。
私は1年に6回や7回は海外に出る。
滞在日数の平均を掛けると、「1年のうち2カ月」は外国にいる。
にもかかわらず、毎度毎度、
「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」
とは、いったいどうしたことであろう。
あんがいバカか、あるいは語学的才能に実は欠けているのであろうか。
しかし、いずれの理由も、職業上けっして考えたくない。
ところで、かくいう私はラスベガスのカジノにおいてのみ、どういうわけかペラペラと英語を話す。
デーライーやほかのゲストたちとの間には、ゲーミング以外の話題はありえないからである。
使用される構文と単語は一定のものであるし、感情表現やジョークも、だいたい決まっている。
だからこの小世界での会話は、知らず知らずのうちに体で覚えてしまった。
一日目こそ多少のとまどいはあるが、耳が慣れてくると頭の中から日本語が消えてしまう。
ところが、いったんカジノから出てショッピングセンターやレストランにはいると、どういうわけかその英語がまったく援用されないのである。
身ぶり手ぶりであたふたとし、あげくは、
「アイ・ドント・アンダスタンド」
「プリーズ・スピーク・スローリー」
を連呼する。
このごろ思うのだが、私は英語がしゃべれないのではなく、英語をしようするフィールドに臆しているのではないだろうか。
だから自分尾フィールドだという自覚があるカジノでは十分な会話ができ、そこを離れてしまえば言葉が出なくなってしまう。
われわれは等しく、3年も6年も10年以上も頭を悩ませてきた英語が、根こそぎ頭の中から失われてしまうはずはあるまい。
われわれの胸のうちにはきっとどこかに、英語を使う外国人に対する気臆れがあって、しゃべれないのではなくただ口をつぐんでしまっているのではなかろうか。
日本人の多くが、おそらく最大の時間を費やしてきた学問が、まさか徒労であったはずがない。
』
【習文:目次】
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