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● 2009/10
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かって小説のなかでも詳しく書いた憶えがあるのだが、アメリカ人と中国人はなぜか「他人の空似」を感じさせる。
第一に、外国人に対してすこぶる鷹揚かつフレンドリーである。
なんらの他意なく、ほとんど挨拶の延長で旅行者に親しく語りかけてくるのは、アメリカ人と中国人であろう。
しかも、当方が言語を解するか否かに関係なく、勝手にしゃべり続けるところまでよく似ている。
声が大きいのも共通している。
彼らに言わせれば、「日本人は無口のうえに声が小さい」のだそうである。
世界中のさまざまな民族を公平に分析してみると、やはり日本人がそうなのではなく、アメリカ人と中国人が「オシャベリなうえに、声が大きい」のではなかろうかと私は思う。
むろん悪いことではない。
旅行者の立場からすると、そうした国民性は居心地がよい。
アメリカ人と中国人は、民族的にはアカの他人である。
ではなぜ他人の空似があるのだろうか。
たぶん原因は地理的は形態であろう。
地図を拡げてみれば一目瞭然だが、地球上のほぼ同じ緯度に、ほぼ同じサイズで存在している。
早い話が、国がデカければ声もデカいのである。
私はロシアに旅したことがなく、ロシア人もよく知らないが、たぶんアメリカ人や中国人にも増して声がデカいのではなかろうか。
他人の空似とはいっても、似て非なるところもある。
両国民とも自己主張がはっきりしていて譲らぬから、路上の県下をしばしば見かける。
その点は似ているのだが、非なるところは中国人の「口喧嘩」に反して、アメリカ人は「腕喧嘩」で手が早い。
中国人の口喧嘩は壮観である。
相手を罵る単語が豊富であり、構文的にも多岐をきわめている。
たとえ言葉が理解不能でも、多くの語彙を駆使していることや、さまざまの表現で相手を罵倒しているのはわかる。
さらに感心することは、この口喧嘩の壮大な応酬は、男女の性別や年齢や、明らかにヒエラルキーが異なると見受けられるご両人でも、ほとんど関係なくくり広げられることである。
そもそも口下手がいないのか、それとも「口下手は喧嘩する資格が無い」のか、ともかく中国における路上の喧嘩は際限がなく、しまいには人垣に囲まれたリング場の様相を呈する。
野次馬が仲裁に入らないのもまた面白い。
つまりそのくらい中国語はすぐれた言語なのである。
口ですむから暴力に訴える必要はないらしく、私はかって中国の路上で殴りあう喧嘩を見たためしがない。
それを承知しているから、あえて仲裁に入る者もいないのであろう。
一方、アメリカ人の喧嘩はすこぶる危険である。
言葉での応酬は実に短い。
たちまち手がでる。
野次馬もそういう展開を読んでいるので、相当の距離をおいて観戦する。
カジノでは、大声を聞けばガードマンが疾風怒濤のごとくあちこちから殺到し、仲裁どころか両者を押し潰して連行してしまう。
このあたりも中国では、たとえ警官が喧嘩のかたわらを通りすがってもとりあえず野次馬に加わり、交通の妨害にでもならぬ限りは仲裁に入らない。
さて、このように考えると、言葉はまことに大切である。
中国人は憤懣の相当量を言語によって解消することができる。
素晴らしい言語能力を持つ漢民族が、かって漢土を出て戦いをしたためしは、4千年の歴史のうちでもほとんどないのではなかろうか。
言葉というもののプリミテイブな形は「読み書き」するものではない。
「語り聞く」ことによって相互の意思を伝達い合うものである。
本来は対面して語りかつ聞くべきである言語が、電話機の登場によって対面せずとも可能になり、さらにはコンピューターの普及によって、「対面もせず語りもせず」に意思の疎通が図れるようになった。
言葉の今日的な退化とは、おそらく活字離れに起因しているのではなく、対面して発声することのなくなった対話の実体が、最も重大な原因なのではないかと私は思う。
感情を制御し担保するだけの言語は失われ、その途端に人間は暴力による感情表現をなさねばならなくなる。
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【習文:目次】
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