2010年5月4日火曜日

★ 父子鷹:あとがき:子母沢寛


● 2005/03[1956/**]



 私の仏壇には牛込の清隆寺さんからいただいた勝小吉の霊位が祀ってある。
 嘉永3年9月4日没。栄徳院殿夢酔日正居子。
 私は何となく祀らずにはいられない気持ちでもう3年程も前から祀っている。
 「箱館崩れ」で北海の寒村に没した祖父の霊位を拝し、この小吉の霊位を拝しているうちにいつの間にか私の胸の中にはこの2人がよく一緒になってしまう事がある。

 小吉には「夢酔独言(むすいどくげん)」というものがある。
 「天保14年寅歳の初冬於鶯谷庵かきつつりぬ」という。
 「おれは之までも、なんにも文字のむつかしい事はよめぬから、ここにかくにも、かなのちがひも多くあるからよくよく考えてよむべし」といって、家の者へいろいろと教訓した。
 「麟太郎のやうないい倅が出来たから、今は誠に楽隠居になった。
 もしおれがような子供が出来たならば、なかなかこの楽は出来まいと思ふ。
 これもふしぎに神仏には捨てられぬ身と思ふ。
 孫や其子はよくよく義邦(りんたろう)の通りにして子々孫々の栄えるやうに心がけるがいいぜ。」
とある。

 私はじっとこうした小吉を思っていると、それが大きな炉の前に座って何かしゃべっている口を時々こうへの字に結ぶ癖のある祖父の顔つきにまざまざとかわって来るのである。
 祖父はこの小吉の書いているのとそっくりな口調で物をいった。
 何にかというと祖母などに大きな声でがみがみとひどい悪口雑言をいうが、内心は労わりの心が深くてあたたかい人であった。
 祖母が病気でねたきりになった頃は、私の家は破産して祖父は祖母の為めに思うような事も出来なくなっていたようである。
 それがどんなに口惜しかったか。
 時々うなたれていた祖父の姿を未だにはっきり覚えている。

  *

 祖母が何にか飴菓子を食べたいが、それを買う銭がないのを知って遠慮しているのを、祖父がまた見兼ねて、ひどい吹雪の中を誰かのところへ借りに行って、菓子をふところに抱いて戻って来て枕元に座って、祖母へ一つ一つ、自分で食べさせているのを見た事がある。
 たかが菓子を買う銭である。
 ほんの僅かな物であろうが、私の家は祖母が死ぬ頃にはこの銭にも事欠いた。
 いかに落ちぶれもそんな借金をしなくてはならなかった日頃利かん気の祖父の気持ちを思うと私は泣きたくなる。
 その身の果てをどんなに悲しんだろう。
 小吉も同じような貧乏は身にしみた。
 しかし倅の勝海舟の父として後世に残っただけでも幸福である。

 彰義戦にやぶれ、箱館にやぶれ、しかも浪の荒れる小漁村に埋れて、名も無く朽ち果てた私の祖父は小吉に比べて天地の差のある不幸な生涯であった。
 小吉が麟太郎に深く謝して「神仏にすてられる身と思ふ」といったのに対し、祖父は私がまだ中学生の頃に死んだ。
 ろくな看病も出来ないため病院へ入って3日目に没した。
 この祖父に小吉のように、神仏に捨てられぬ身と、貧しい中にもその幸福を味あわせる事の出来なかったのを、私は今日もなお口惜しくて堪らない。

 小吉の祖父で、一代にして江戸に知られる大分限となった男谷検校の出生はこれまで越後小千谷(おぢや)とよりわかっていないが、いろいろな方にだんだんお話を伺ってみると、大正のはじめころ勝伯爵家が土地の新聞に一箇月余も、検校に縁ある人は名乗ってほしいと広告を出してはっきりした検校出生地を探した事があったが、遂に誰一人出なかった。
 ところが本当に居ないかというとそうではない。
 越後柏崎から三里、小千谷から五里のところに刈羽郡北条村東長島というのがある。
 ここに当主を山口さんという旧家がある。
 これが男谷検校の出た家だと、大正の中ごろに出た「刈羽郡誌」にはっきり書いてある。
 男谷検校はこの辺では米山検校といっている。
 例の三階節(さんがいぶし)の「米山さんから月があ出たあ」あれからとってつけたものだという。
 
 ところが、故郷では貧乏だったが、江戸へ出て金持になると、さあ在所の者がいろいろな縁故をたどり検校をたよって出て来るわ出て来るわ、実にこれには弱った様子だ。
 越後にはこういう唄がある。

 越後出る時あ涙が出たが、
 今じゃ越後の風も忌(い)や。

 これは男谷検校が、その田舎ものの図々しい客に閉口して自分で作った唄だという。
 嘘かも知れないが有りそうなことでもある。
 越後飢饉の時、検校は少なからぬ金を郷里に送ったといい、その報徳碑があったともいうが、今ははっきりしない。
 それにしても勝家で探した時にどうして名乗り出なかったかというと、何しろ相手が伯爵家なので、一農家が私共ですといって出て、痛くない腹を探られるのも忌やなので、沈黙していたのだと伝えられる。
 これも有りそうな話である。

 昭和38年厳冬  子母澤 寛





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