2010年7月13日火曜日

: ユダヤ教とキリスト教


● 2006/01



 日本に鉄砲を伝えたのはユダヤ人だった、といったらきっと読者は驚くことだろう。
 日本の記録によれば、種子島に、「南蛮人」によってあたらしい武器が伝えられたのは1543年8月25日のことだった。
 この事件は日本史の中で、「鉄砲伝来」として、大きなエポックとなっている。
 その翌年に、フェルナン・メンデス・ピントというユダヤ人が、本人の手記によれば、種子島を訪れていることになっている。
 ピントは克明の手記を遺している。
 そのなかで、自分と2人のポルトガル人の仲間が、日本をはじめて訪れたポルトガル腎であって、種子島に鉄砲を伝えた、と書いている。
 ポルトガルの記録によれば、ポルトガル人は種子島をを初めて訪れたのは、1542年となっている。

 ピントの手記は、死後31年たった1614年に出版されたが、まずスペイン語で刊行され、何か国語にも翻訳されて、大ベストセラーになった。
 ピントは日本を4回にわたって、訪れている。
 ピントは『東方遍歴記』を著したが、それまでヨーロッパで遠いアジアについて書かれた本といえば、14世紀に刊行されたマルコ・ポーロの『東方見聞録』だけだった。
 ピントの本はそれ以来のものだった。
 そこでピントの本は、読者の好奇心を大きく刺激し、競って読まれた。

 日本でも訳出されているが、訳者は「あとがき」のなかで、「ピントはユダヤ人ではなかった」と断じている。
 これは誤っている。
(注:『東洋遍歴記』平凡社東洋文庫 全3巻、岡村多希子訳、昭和54年・55年)

 私はアメリカにおいてポルトガル史研究の水準の高いことで知られている、カルフォルニア大学(UCLA)ポルトガル学部に確認したが、
 「今日、学会ではフェルナン・メンデス・ピントがマラノで、ユダヤ人だったということは、通説になっている」
と、言われた。
 ピントはユダヤ人なのである。

 では「マラノ」とは何か。
 日本民族は約270年にわたった徳川時代を通じて、進んで鎖国することによって世界から孤立した。
 それに対してユダヤ民族は、故国を追われたために、世界中へちらばり、キリスト教徒の迫害にさらされた。
 ヨーロッパでは「ゲットー」と呼ばれた、ユダヤ人専用居住区の押し込められて生きてきた。
 ローマ法王が主催した第3回ラテラン会議が、1179年に、キリスト教徒とユダヤ教徒が同じ場所に居住するを禁じる法を交付した。
 「ゲットー」の環境は劣悪であり、まわりには高い壁がめぐらされ、その中にユダヤ人を閉じ込めた。
 ユダヤ人は日中のみ外出が許され、日没後にはゲットーに戻らなければならなかった。
 不浄視されていたため、キリスト今日の祭日には外に出ることは出来なかった。
 ゲットーの壁には出入のための頑丈な扉が設けられ、日没から朝までは外から施錠され、キリスト教の番人が立っていた。
 夜間、あるいは祭日にゲットーの外にいたユダヤ人は捕らえられ、容赦なく処罰された。
 ユダヤ人はつねに衣服に、ユダヤ人の記章をつけていなければならなかった。
 これは古くからのもので、ナチスが考案したことではないのである。
 
 ピントの時代のヨーロッパではユダヤ人虐殺や迫害が広く行われていた。
 このため、多くのユダヤ人が海外に逃れ、インド、インドネシア、フィリッピン、中国などへ東漸して、日本までやってきた。
 ヨーロッパでは、キリスト教徒によるユダヤ教徒への憎しみが強かった。
 キリスト教はユダヤ教から新しい宗教として派生したから、独立した宗教にならなければという思いが強い。
 そのために、ユダヤ教徒だけでなく、ユダヤ教といったいとなっているユダヤ民族を排撃しなければならなかった。
 そうしなければ、キリスト教は、親にあたるユダヤ教に、吸収されてしまうという危機感があった。
 ユダヤ人に」とって、十字架は「恐怖のシンボル」だった。
 キリスト教による異端裁判は、1751年になってようやく廃止された。
 それ以前のユダヤ人たちは、生きながらえるために、表面的にキリスト教へ改宗することを装った。
 このように、キリスト教へ改宗を偽装したユダヤ人たちが、「マラノ」と呼ばれる人たちである。

 世界の中で、近代に入ってから、キリスト教白人と並ぶ力をもつようになったのは、2つの民族だけである。
 ユダヤ人と日本人だ。
 ユダヤ人の存在は、キリスト教徒にとっては目の上の瘤だった。
 キリスト教徒はイエス・キリストを信じる者だけが救済され、永遠の命をえることができるというものである。
 よって、イエスを拒む者は、悪魔に魂を売ったものであり、地獄に堕ちるという形にならざるを得なかった。
 キリスト教徒は、全人類をキリスト教徒に改宗させなければならないという使命をもっていたが、すぐとなりに住んでいたユダヤ人は、そうなることを拒んだのである。
 ユダヤ人は「主殺しの民族」とされた。
 そこで、「いじめ」「さげすみ」「こらしめ」なければならなかった。
 それが、「主のみこころ」だとされた。
 ユダヤ人が閉じ込められてきた、おぞましいゲットーから完全に開放されて、その壁の外で自由に暮らせることができるようになったのは、19世紀に入ってからのことである。
 自由啓蒙思想が大きな潮流となって、ヨーロッパを洗うようになったためである。
 日本が開国することを強いられて、国際社会に参入するようになったのも、ほぼ同じ時期である。
 19世紀半ばのことである。







 【習文:目次】 



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