2010年7月12日月曜日

: 友達なんていなくても人は生きられるのだ、とどうして教えない

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● 2009/04[2007/03]



 人類がこの地球に出現して、どのくらいたったか知らないが、みんな死んでおり、死ななかった人間はひとりもいない。
 人間は誰でも死ぬ。

 「人生のゴールとは死ぬこと」なのだ
 競争なら、早くゴールに着いた方が勝ち。
 だったら、「早く死んだ方が勝ち」じゃないか。
 「人生は、長生きすりゃいいてもんじゃない。」

 子どもがイジメられて、仲間はずれにされて、自殺するという話をやたらと聞く。
 イジメがどうのという問題じゃない。
 仲間はずれにされたら生きていけない、と考える子どもが増えているということだ。
 ということは、クラスのメンバーであることのほうが、生るとか死ぬってことよりも重要だと、子どもが感じているということだ。
 なのに、大人は誰も、

 友達なんていなくても、人は生きられるのだ
」 
 というすこぶる簡単なことを言ってやらない。
 個人とは、個性を大切にするのが現代社会の特徴だ、なんてみたいなことを言うけれど、現実はその反対だ。
 実際には、個人の命が社会という巨大な機械に組み込まれた部品の一つになっている。
 しかもその個人の代わりはいくらでもいるのだ。
 だから、クラスのメンバーであることが、生死よりも大きいものだと感じるようになる。

 戦争が終わって、人は自由になった。
 自由になった個人は、自由になった自分にすごい不安をいだいている。
 「なんでも自由にやっていい」と言われた途端、何をしたらいいかわからなくなってしまった。
 だから、誰でもいいからリーダーにくっついていこうとしたり、なんとしてでも友達の輪の中に入れてもらおうとする。
 だから、
「 自分はいったいだれなんだろう 」
ということで、「自分探し」とかが、今の若い人のテーマみたいになっている。
 誰かに
「 お前は◯◯なんだ」
と言ってもらわないと、自分が何者だかわからなくなっている。
 若者が性懲りもなく、わけのわからない宗教だの教祖だのに騙され続けるのも、「金で買えないものはない」なんて下品なことをいう金の亡者がヒーローになってしまうのも、子供たちが自殺するのも、その根源には同じ問題があるのだ。

 だいたい、今の社会は、
 「人生とはなにか」
 「人の生きる意味は何か」
みたいなことを言い過ぎる。
 それが強迫観念となってしまっている。
 そんなことを言う、
 「大人が悪い
のだ。
 自分たちだって、生きることと死ぬことの意味なんて、絶対にわからないくせに。

 天国や地獄が本当にあるかないか、神様がいるかいないか、誰も証明したことがないわけだ。
 そういう曖昧な状態なのに、
 「生きる意味を探せ」
なんて言われたら、だれだってまように決まっている。
 自分の能力だけで、その迷いから抜け出せる人間なんて、ほんの一握りしかいないのだ。
 宗教というのが生まれたのも、つまりは、そういうことがわからないからだ。
 もし、「死ぬことが怖くない」ということになったら、宗教なんてお払い箱になる。
 人が宗教に頼る最大の理由は、やっぱり「死への恐怖」なのだ。
 死後の世界は誰も知らないから、それを教えてくれる宗教を求めるわけだ。
 そして、「天国と地獄という概念」が生まれたわけだ。

 すべての宗教がそうだと言うつもりはないが、大昔からそうやって金儲けをしてきた人々がいるのは事実だろう。
 天国と地獄があるとか、神様がいるとjかいう話は、物心がつく前から、心に擦込まれてしまっているのだ。
 キリスト教だの仏教だのを信じるとか信じないとかいう前に、周りからそういう話を聞かされて子どもは育つのだから。
 神という言葉を頭の中から取り払うのは、ほとんど無理なんじゃないんだろうか。
 その言葉が頭の中にある限り、完全に信じてはいなくとも、心のどこかにそういう存在が絶対にいないとはとは限らないという思いが残るのだ。
 もっとも、いわゆるキリスト教的な神は、俺にはあまり馴染みがない。
 昔の日本人がよく行ったように、
 「お天道様が見ている」
という言い方のほうが、おれの心にはしっくりする。

 何をするのもお前の自由だ、でもお天道様が見ているんだよ

という感覚が、神様と人間との関係で言えば、いちばん理想的な距離感だと思うのだ。







 【習文:目次】 



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