2010年6月30日水曜日

: おわりに

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● 2009/01[1998/06]



 「富」や「幸せ」をさずけてくれる「神々」が衰退したあと、その跡をおそったのは「貨幣」である 。
 正確にいえば、「貨幣」が「神々」を追放し、かわって「貨幣」に媒介される新しい共同体が作りだされた。
 人々は貨幣を神のように敬い、それに服従しゅる。
 わたしたちは、いまそうした世界に生きている。
 バブルとは、まさにその魔力に取り憑かれて、「貨幣」のまえで饗宴を開き、我を忘れて躍り狂っていた、ということでだった。
 
 「貨幣」共同体の萌芽はすでに中世の京都で見られ、近世の江戸や大阪では本格的に始動し始めていた。
 このことは、江戸の社会・文化を少しでものぞいてみれば、すぐに感じることができる。
 封建的な身分秩序に閉じ込められてはいたものの、人々はその内部で、「限界域の拡張運動としての欲望」を、絶えまなく刺激しつづけていた。
 もちろん、その欲望の具体的対象は、現代のモノとは異なっている。
 むしろ、その対象は物質的なモノというよりも、「想像的なモノ」や、「身体的なモノ」によってもたらされる「快楽」とでも表現すべきものであった。
 こうした貨幣共同体としての都市社会における「富」や「幸せ」、あるいいは「欲望」のあり方も、興味深い。
 この点についての議論は、本書での守備範囲を超えている。
 しかし、少しだけわたしなりの印象を述べておこう。

 一つの例をあげよう。
 近世に「双六」というゲームが流行った。
 東海道五十三次という「道中双六」というのは、振り出しが江戸で、上がりが京都と決まっていた。
 ところが「出世双六」という種類になると、「振り出し」は同じであっても、すべての遊戯者があこがれの「上がり」に到達するわけではなかった。
 人生の軌跡が多様化すれば、そのあこがれの最終到達点も多様化し、悲惨な人生も待っている。
 「出世」があれば、「没落」もある、というわけになる。
 「出世双六」が興味をひくのは、問題としてきた「幸せ」を、人々がどのように描いてきたのかを、類型化して示しているからである。
 そのコースは奉公人コース、儒家・医者コース、遊芸者コースなどあったが、その上がりには、金銭的成功を踏まえた「長者」が必ず描かれていた。
 「没落」は「願人坊主(がんにんぼうず)」であった。
 もはや、そこに神々の加護といったマス目はないし、「施行(せぎょう)」といったマス目も見出すことはできない。
 中世の都市の庶民を活気づけ、はげまして、現世の利益を追求することを手助けした「七福神」や、近世になって「福神」として人気を集めた「福助」や「お多福」も、大長者に従属することはあっても、それを支配するほどの力は、もはや持っていなかった。
 つまり「福」は、近世中期以降、しだいに「想像的なモノ」や、「身体的なモノ」によってもたらされる「快楽」=娯楽のための素材、もっとはっきりいえば、「富」を生み出す「商品」へと次第に作りかえられていった。
 
 明治に入ると、封建身分秩序がなくなったので、「出世」は誰にでも機会が与えられることになった。
 これを背景にして、やがて「立身出世主義」が台頭してくる。
 では、この時代の「出世」の「上がり」に位置していたのは、何だったろうか。
 たとえば、「教育出世双六」では3つの「上がり」が用意されていた。
 一つは「政治」の世界での成功、つまり代議士から「総理大臣」になること。
 もう一つは「勅任官の世界」、つまり官僚や対象になることで、この中には教育界での出世も含まれていた。
 そして三つ目が商業的な成功者、つまり「銀行頭取」になることであった。
 簡単にいってしまえば、官界、政界、財界の、3つの世俗世界のいずれかの世界でその頂点をきわめることが「最高の出世」であり、「幸せ」をもたらすものだ、とみなされていた。
 この「出世観」は、つい最近まで一貫して世間に流通してきたものである。
 近代の日本を作り出し、支えてきたのも、この3つの世界であった。
 その中心に「貨幣」が君臨し続けていたことも、明らかであろう。
 「異界」は人々の意識から消え去りつつあったのである。

 そしていま、そうした日本国家の中枢組織の腐敗がしきりに騒がれている。
 バブル経済の崩壊は、まさにその象徴ともいえる出来事であった。
 いまや、「円」という貨幣に媒介された近代国民国家を支える組織が、疲弊し、破綻を迎えようとしている。
 わたしたちには、これにかわる「新しい双六の上がり」が、まだ見えてきていない。
 はっきりしているのは、地球という「打出の小槌」が、「無限の富」を生み続けるものではない、ということである。









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: 七福神と打出の小槌

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● 2009/01[1998/06]



 「福」の問題を考えようとするとき、多くの人がまず思い浮かべるのは「七福神」ではないだろうか。
 正月になるとさまざまなメデイアに乗って、必ず姿を現す馴染み深い神様である。
 まず、最初にこの「七福神」についての検討からはじめる。
 すでに述べたように、「福」とは異界からもたらされる、あるいはさまざまな神々から授けられる「富」を意味している。

 「福をさずける」ということが強調された特殊な神格を生み出す背景にあるのは、現世での繁栄・富裕を肯定し、これを積極的に追い求めようとする観念である。
 日本人は、外来の仏教や儒教、あるいは西欧の思想の力を借りるなど、さまざまな形で、現世の利益を求める思想を権力によって抑えつけたり、また自らすすんで抑制しようともしてきた。
 たしかに、それらは日本人の「福の観念」に大きな影響を与え、変化をもたらした。
 しかし、「現世の幸せ」を積極的に肯定しようとする思想や態度は、古代から今日まで衰えることなく、日本文化の中に脈々と流れている。

 私には、それが日本人の「基層信仰」といっても過言ではないと思える。
 それは現代の日本人にもしっかりと伝えられている。
 いや、高度成長期期以降の現代人の拝金主義的で、かつ快楽至上主義的な生活ぶりを見ると、さまざまな「重石」が除かれることで、むしろ「基層」に押し込められていた、現世の富貴と快楽を追求しようとする欲望が、いまや「表層」に噴出してきたような木がしてならない。

 その典型的な産物の一つが、「福神」思想である。
 「福神」とは、あの世・死後の世界での幸福を保証してくれる神ではなく」、この世での幸福を、それも金銭その他の物質的な富によって物語られる「福」をさずけることを基本的な属性とされた神のことなのである。
 多くの神仏のなかから「福」をさずけることに霊験あらたかであるとみなされることになった少数の神々が、狭い意味での「福神」であり、さらにそれらの神仏のうちの七神が選びだされて、「七福神」としてグルーピングされることになったのである。

 現在知られている七福神のうち枠は、恵比寿、大黒天、弁才(財)天、毘沙門天、布袋、袋禄寿、寿老人、の七神である。
 西宮の夷三郎、比叡山の三面大黒、鞍馬山の毘沙門天の三神が七福神のメンバーになることには、誰も異論がなかったようである。
 しかし、残りの四神についてはいろいろ異論があり、稲荷神、虚空蔵菩薩、吉祥天、猩々などの名もあがっていた。
 当時、人気のあった琵琶湖竹生島の弁才天がいちはやくメンバーに選ばれ、やがて、最後の三神として、布袋、福禄寿、寿老人に落ち着いたようである。

 七福神の代表格の大黒天が手にしているのが「打ち出の小槌」である。
 有名なお伽草子の「一寸法師」が普通の丈の若者になれたのは、追い払った鬼がおいていった「打出の小槌」によってでである。
 不思議に思っていたのは、振れば次々に、「米」でも「大判小判」でも、「蔵」でも「着物」でも何でも出てくると言われているのに、大黒天でさえも打ち出の小槌をめったに振ることがない、ということである。
 思い出していただきたい。
 お伽草子の「大黒舞」においても、長者になった大悦の助に、祝いの品々として持参したものの中に、「如意宝珠」「隠れ蓑」などとともに、「打出の小槌」も入っていた。
 だが、それを振って金銀財宝をさらに出したというわけでもなければ、米俵を出したわけでもなかった。
 ただ一回、大悦の助の家に侵入してきた盗賊を追い払うために、打ち出の小槌を武器にして戦っただけである。
 「一寸法師」でも、背丈を伸ばしてもらったあと、姫のために一振りして「飯」を出し、もう一振りして小判を数枚出しただけである。

 現代人なら、車だ、家だ、お金だ、と次々と欲望のおもむくままに、果てしなくモノを出し続けることだろう。
 けれども、大黒天も一寸法師も、振れば欲しいものが出てくると分かってながら、めったにそれを使用しないのである。
 これはたしかに不思議なことである。
 ある人が、自分だったら、打ち出の小槌から更にたくさんの打出の小槌を出し、更にそのすべての小槌から、またたくさんの打ち出の小槌を振り出す、と書いていたのを読んだことがある。
 だが、これまでの考察から判断すると、どうやら、こういう現代人的な考えで打ち出の小槌を使用することは、最悪の使用法のようである。
 「打出の小槌」とは、つつましく、つまり、一振りに、ほんの少し裕福になる程度の「富」しか期待してはならず、それもめったに振ってはいけないものであったらしい。
 そうすることで、逆にその所持者の永続する「幸せ」が保証されたらしい。
 では、もし打ち出の小槌を振り続けるとどうなるか?。







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★ 福の神と貧乏神:はじめに:小松和彦


● 2009/01[1998/06]



[現代人は何を幸せと考えているのか]

 戦後の日本は、多少のデコボコはあったものの、一貫して経済成長を遂げてきた。
 いわゆる「右肩上がり」の経済成長である。
 そして、1986年「バブル経済期」に突入した。

 バブルという[悪夢」(もっとも、そのときは「快い美酒」であったが)が日本人にとりついたとき、多くの日本人がその欲望を思いっきり膨らました。
 傲慢にも、日本経済という「打ち出の小槌」は、「尽きることのない富」を生み出し続けるのではないかと錯覚した。
 多くの人がバブル経済に踊り狂い、その恩恵に浴し、それに振り回された。
 バブル経済がもたらした最大の悲劇は、「分をわきまえる」ことを忘れ、「強欲」に身をまかせてしまったことである。
 「お金」の前にあらゆるものが屈服し、それを追い求めて狂奔する見苦しいまでの日本人の姿を白日のもとにさらけ出したのである。

 バブルが去ってから十数年が経った今、日本経済は厳しい不況のただ中にある。
 戦後の日本を支えてきたさまざまなシステムが崩壊し、適切な対応がなされぬまま、格差社会が進行している。
 「豊かな国・日本」を謳歌していたときには考えもしなかった「貧困」が深刻になっている。
 このような時期だからこそ、日本人にとって「福」とか「富」とか「幸せ」とはなんだったのかということを、冷静にふりかえってみることが必要である。
 そう思って周囲を見わたしてみたところ、意外なことに、「福」「富」「幸せ」「欲望」「福神」などのキーワードを織り合わせたような手ごろの民俗学的な研究や、それに近い日本文化論がないことに気づいた。
 それならばいっそのこと、私自身がこれまでの研究をふまえながら、「福」とか「富」について日本人がどのような観念を抱いてきたかを探ってみようと思い立ったのである。

 私が研究している民俗学は、現代の都市社会を真っ向から扱う学問ではない。
 少なくとも、これまでの研究蓄積の中身は、現代人からみれば「過去」になってしまったかのような日本の民俗社会(村落社会)に焦点を合わせることで得られたものが主流を占める。
 現代都市から時間的・空間的に遠く離れた「過去の社会」や、「周辺の社会」から掴み出された「福」や「富」の観念に、わたしたちの生活を照らし合わせるとき、逆に現代人の「福」や「富」や「幸福」の観念が、くっきりと浮かび上がってくるのではないだろうか。
 いま求められているのは、そうした視点からの文化・文明論なのではなかろうか。
 この小さな本は、そうした思いをこめて書いたつもりである。

 本論に入る前に、「幸せ」とか「富」とか「福」といった、この本のキーワードについて、基礎知識を得ておくことにしたい。
 <<略>>

 どうして欲望がわいてくるのだろうか。
 それは、欲しいモノが簡単に手に入らないからである。
 わたしたちは、いつでも手に入るものに格別の欲望を感じない。
 手に入れ難いから欲望を感じるのであり、そこに「価値」が発生する。
 つまり、自分と対象との間に容易には乗り越え難い「距離」、あるいは「障害」があるからこそ、欲望が発生するという条件が出来上がるのである。
 この「距離」によって、自分と対象との関係が自覚され、このことによって自分のほうに「欲望」が生じ、対象のほうに「価値」が生じる。
 さらに、この欲望の対象とは、「多くの人」が欲望の対象としているモノと同じモノである。
 多くの人が欲しがっているから、容易に手に入らないということになり、だからこそ自分もまた欲しくなるという関係になっている。
 相関相乗効果が働いているのである。
 「幸せ」とは、みんなが欲しがるから自分も欲しがり、その結果、ますます手に入れにくくなり、ますます価値が高くなる、という構造をもっている。
 それゆえ、苦労の末にそれを手に入れたときに「幸せ」と感じるわけである。
 このことは、個人的な事柄のように見えながら、実は欲望というのが極めて社会的な性格をもったものなのだ、ということも語っている。

 「欲望」には限りがない。
 なんらかの社会的あるいは自然的規制が加えられないかぎり、どんどん肥大していく。
 バブル経済現象などはその典型である。
 社会経済学者の佐伯啓思はこれを
 「限界域の拡張運動」としての欲望(限界域:フロンテイア)
と、名づけている。
 欲望が対象との「距離」によって生じるものであるとすれば、それが容易に手に入り、それに慣れ親しんでしまうと、この「距離」がなくなり、もはや欲望をかき立てられなくなってしまう。
 したがって、欲望はさらに「距離」のある対象を探し求めることになる。

 欲望は絶えず「新奇なモノ」、「刺激に富んだモノ」、「未開拓なモノ」を求めて無限にその限界域(フロンテイア)を拡げていくという運動を行っている。
 無限に拡張する欲望の本質は、必要なものを手に入れるといったことではなく、モノを通じてその背後にある「何か」を、つまり、神秘的なもの、異界的なもの、神的なもの、未知のものを求めることにある、とも考えられている。
 そのような「限界域の拡張運動としての欲望」の行き着く果てに待っているのが、「無」であり、「死」であることも分かっている。
 このことは、この本では、民俗社会の表現を用いて明らかにされるはずである。





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2010年6月27日日曜日

: 図版

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● 2009/10[2002/12]



















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★ 藤原氏の正体:はじめに:関裕二

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● 2009/10[2002/12]



 7世紀、逆臣蘇我入鹿誅殺で活躍した藤原(中臣)鎌足の登場以来、藤原一族は、日本の頂点に君臨し続けた。
 極論すれば、日本の歴史は、藤原氏の歴史そのものなのである。
 平安時代、藤原道長は
 「この世をば 我が世とぞおもう望月の 欠けるたることもなしと思えば」
という、傲慢きわまりない歌を残した。

 傲慢だが事実なのである。
 朝堂は藤原一党に牛耳られ、他の氏族は藤原氏のご機嫌をうかがい、平伏するほか手はなくなっていたのである。
 藤原摂関家は日本各地の土地を貪欲にもぎ取り、
 「他人が錐を突き立てる隙もないほどの領土を、独り占めしている」
と非難されるほどであった。
 藤原氏が日本中の土地を占有したという話は、やや誇張が込められていたようだが、天皇家の外戚となることによって、揺るぎない権力を手に入れたことは事実だ。
 気に入らない天皇を自由に退位させられるほどの力である。
 この時代、日本は藤原氏の私物と化したといっても過言ではなく、その後も、この一族はしぶとく生き残っていく。

 中世に至り、貴族社会が没落した後も、藤原氏は巧妙に武家社会に血脈を拡げ、時の権力者を陰で操る、という7世紀以来の繁栄の手管を保ち続ける。
 金星の貧窮はあったものの、近代に至り、明治維新と共に、不死鳥のようによみがえる。
 藤原氏は天皇に最も近い一族だったから、華族の筆頭に持ち上げられ、以後、新たな門閥、閨閥を再構築し、エスタブリッシュメントとして、日本社会に隠然たる影響力を及ぼし続けている。
 恐るべきことに、藤原の血脈は、政界、官界、経済界、学界と、現代日本の中枢の隅々にまではりめぐらされている。

 日本の歴史を語り、現代日本の実相を知るために、「藤原」は避けて通れない。
 だが、これまでの「藤原」について、日本人はあまりに無知であり、無関心でありすぎた。
 なぜ「藤原」は忘れ去られていたのであろうか。
 しかし、その幻想の皮を剥ぎ取れば、実際のタブーは「天皇」にあったのではなく、天皇を隠れ蓑にして私利私欲に走った権力者「藤原」にこそかけられていたのではあるまいか。
 「天皇の正体」を明らかにするということは、藤原の歴史を白日のもとに曝す作業にほかならない。

 本書は、日本を支配する「権力一族藤原氏」の実像を、古代史に遡って読み解こうとするものである。
 なぜ藤原氏は、尋常ならざる権力欲を千年にわたって持続できたのか、そして、権力を手放さなかったのか‥‥。
 その理由は、この一族の成り立ちに隠されているはずである。







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2010年6月19日土曜日

★ 七夕しぐれ:サラリーマンを中心に回りだした:熊谷達也

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● 2009/06[2006/10]



 子どもの世界は、大人の世界からは隔絶されたものだ、と思う。
 隔絶、という」言葉に違和感があるなら、断絶、あるいは独立、などと言い換えてもよいだろう。
 とにかく、互いに相容れないものであるのは確かだ。

 子どもの目から見れば、大人の世界は意味不明な記号の世界に過ぎない。
 子どもにとって大人の世界がリアルなものではなく、抽象的なものとして、決定的な記号化が進んだのは、たぶん、僕が生まれたころ、戦争が終わって干支が一回りしたあたりからだろう。
 国民挙げての戦争に負けた、という屈辱と、信じていたものが虚像だったと、という羞恥心からの、一種の逃避行動だったのかもしれない。
 国民のほとんどがサラリーマンに、もう少し性格に述べると、いかにもアメリカ的なホワイトカラーのサラリーマンになることを夢見て、非サラリーマンがサラリーマンに羨望と嫉妬の目を向け始めた時代であるからだ。

 たとえば、
「うちのお父さんはサラリーマンです」
と言った場合、サラリーマンという当時としては垢抜けた言葉でひと括りにすることで、大人の世界は実体を失った。
 実際には会社というところで何をしているのかわからないけれど、つきに一度月給袋を運んで来るペリカンみたいな存在として父親は記号化し、日々のリアリテイを伴う子どもの生活圏から分離され、排除された。

 家庭の在り方もサラリーマンを中心に回りだした。
 が、「お父さんは会社で一生懸命がんばっているのよ」と母親に言われても、何をどうがんばっているのか、子どもにはまったくリアリテイのない話で、何かよからぬことの言い訳にも聞こえてしまう。
 簡単に言えば、多くの大人が子どもにはわからない秘密を持つようになった、
 そして、秘密を明かすつもりのない相手を子どもは信用しない。
 つまり、自分たちの秘密を明かしてはいけない存在に、大人がなった。
 ここで決定的に大人と子どもの世界は分離した。

 もちろん、それ以前にも子どもは子どもの世界の秘密をたくさん持っていた。
 しかし、秘密を持ちつつも、所詮は大人に見抜かれているにちがいないという、一種のあきらめと、そして安堵があった。
 だから、なんでもいいのだが、自分たちの行う悪さは、いずれはバレルもの、という前提で悪さを働いていた。
 しかし、大人と子どもの世界の決定的な分離と隔絶で、大人は容易にこどもの秘密を見抜けなくなった。
 だから、うまく立ち回れば大人を騙せる、と気づいた最初の世代が僕たちであり、同時に大人はあてにならないと最初に知った世代でもある。
 たぶん-----。









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2010年6月16日水曜日

: 其角

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● 2008/10[2006/04]



 元禄4年(1691)、江戸へ戻った芭蕉は、点取俳諧が以前にもまして盛んになっていたことに、ひどく腹を立て、失望した。
 二年半、江戸を留守にしていた芭蕉は、江戸俳壇が、別のレベルで肥大化していることに気がつかなかった。
 「軽み」は素直な自然観照による平明な詠みである。
 内心のリズムをそのまま句姿に定着させ、わかりやすい言葉で表現する。
 これはとりもなおさず、大衆化路線であり、そのところは点取俳諧と同じである。
 芭蕉愛好家は、芭蕉が批判した点取俳諧を堕落遊蕩文芸としてかたづけるけれども、それじょど簡単に済ませられるものではない。
 むしろ、芭蕉が時流についていけなくなった、とみたほうが性格である。

 江戸での評判は、芭蕉より其角のほうが上であって、版元からすれば、其角本が欲しい。
 人気が逆転しても、其角は芭蕉を宗匠としてたてる。
 芭蕉を超宗匠化して、別格扱いとし、実質一位の地位を確保しようという腹が見える。
 いや、其角の気分からすれば、芭蕉を立ててみせる余裕があったというところだろう。
 芭蕉は営業俳句ともいうべき点取俳諧を苦々しく感じながらも、そういう其角だけは可愛くて仕方がない。
 芭蕉の第一の弟子で才も有り余っている。

 其角が俳諧宗匠として点者生活をはじめたのは26歳ごろからであって、元禄5年には32歳だから年季が入っている。
 芭蕉が嫌う点取俳諧は、やたらと出てきた二流俳諧師が営業する歌仙で、金がからむところが気にいらない。
 いまでいえば、スター学習塾講師が、各塾を駆け巡って高給をかせぎ、塾は塾で大学合格率を競う、といった状況に似ている。
 俳諧賭博には「三笠付:みかさづけ」といったものから各種あり、一例をあげると上五句を隠して当てるという賭けである。
 あたった者は布団やら高給家具やらの豪華賞品が手に入る。
 そのため、賭け句出題者のもとへは、賞金ほしさに多くの弟子が集まることになった。
 夢中になって破産する者が出手、幕府は禁止令を出した。
 これは、芭蕉から見れば、じつに許されざることであろうが、反面、文芸がギャンブルとなった稀な例であろう。
 この世に賭博はいろいろあるが、文芸がギャンブルの対象になったのは世界中見渡しても、俳諧賭博以外には見当たらない。
 それほど元禄の町衆は俳諧好きだったわけで、むしろ文芸国家として自慢すべきことでもある。

 蕉風をもって俳諧史全体を理解することはできない。
 芭蕉が批判した江戸点取俳諧は、風雅さに欠けるとはいえ元禄ルネッサンスの町衆パワーに満ちている。
 俳諧はもともと「風雅と滑稽」が混然とあるもので、芭蕉初期の句にもそれが見られる。
 芭蕉は、そのあと進化して、自己の内奥を見つめて、純文学にしていった。
 一方、点取俳諧は、滑稽の部分が突出して大衆文学化していく。
 点取俳諧の立場から見れば、言語遊戯の宴会と言われても、これぞ庶民の底力だという開き直りがある。
 宮廷主宰の歌合せには、勝者には賞品が出た。
 それを受けての俳諧の席では座興として景品が出て、さらに賭け金合戦となった。
 これは当然のなりゆきである。
 が、芭蕉にはそれが許せない。

 点取俳諧は、現在の新聞や雑誌の俳句懸賞募集につながる。
 現在は俳句に代わって小説が文芸の主流となり、小説コンクールには懸賞金がつけられるようになった。
 これは点取俳諧の流れを組んでいる。

 其角は毀誉褒貶の多い人である。
 大酒を飲み、遊里で遊び、歌舞伎役者市川団十郎や豪商を友として、およそ芭蕉と反対の障害を過ごした遊蕩児である。
 句は難解なものが多い。
 江戸で藩医兼町医者をしている竹下東順の長男として寛文元年(1661)に生まれた。
 芭蕉より17歳若い。

 ◇ 詩商人年を貪る酒債かな(しあきんど、としをむさぼる、さかてかな)

 「詩あきんど」とはよくぞ言ったもので、まことに芭蕉、其角は「詩商人」である。
 「詩あきんど」である俳諧商人(其角)もまた酒代の借金に負われて、いたずらに年をとるばかりだ、という嘆息である。

 晩年には蕉門を育てるという野心は薄れ、ついて来る者のみに稽古をつけている。
 「去る者は去れ」という気概である。
 したがって、「軽み」を提唱したときは、昔からの弟子はついていけずに離反する者が多く出た。
 蕉門を運動体としてプロデュースしたのは江戸の其角であった。

 孤高清貧で生涯を通した芭蕉に比べると、其角の放蕩ぶりは目にあまり、句は奇をてらって衒学的になり師風とはかけ離れた。
 遊蕩者の其角には即興の吟に粋があって、それが江戸では、芭蕉をぬく人気者になったゆえんである。
 これもまた芭蕉の分身のひとつといわねばならない。
 其角の句で気っぷのいい句をあげておこう。

 ◇ 夕涼み、よくぞ男に生まれける(五元集)







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: 凡兆

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● 2008/10[2006/04]



 連句をさばいていく芭蕉は、ときとして疫病神となる。
 芭蕉流は、前句に引きずられることを良しとしない。
 前の人が詠んだ句の匂いを引き継ぎながら、まるで別の情景へと転換することを良しとする。
 下手な付句が出ると、芭蕉はただちに叱り飛ばして修正した。

 人が生きていく作法には伝統的なしきたりがあり、基礎をふまえつつ、間違いないように慎重にすすめる。
 たとえば茶道がそうである。
 よどみなく茶事がすすんでいくとき、人はふと、
 「ここで場をひっくり返すというような、とんでもないことをしてみたい」
と思う魔の瞬間がある。
 正客には恨みはないが、正客の顔に煮えたぎった茶をかければ、大変な事態となるだろう。
 片方でそう考えて、その誘惑を打ち消して、とどこおりなく茶事を終える。

 歌仙ではそれをやる。
 ただし、正客に茶をかけるといった不粋さではなく、風雅をもってひっくり返し、その場を戦場と化すことぐらいお手のものだ。
 それが町なかのにぎわいに転じ、雪山となり、夏草となり、さらにスルメ一枚に化けたかと思うと、無頼者の脇差となり、田の蛙になる。
 前句で付句を切り返し、それをつぎつぎと転換していくパノラマだ。
 その反転を自在になして一巻の歌仙が巻かれる。
 したがって歌仙にはまると、積み重ねではなく、切り返しの技がうまくなる。
 転換の妙である。
 発句一句のみならば17文字の宇宙であって、そこで完結する。
 が、連句となると、そうはいかない。
 技のかけあいが句作りの骨法となる。
 芭蕉はその仕切り役であって、仕切りによって俳諧はいかようにでも動くのである。
 この思い切りのよさを、自分の人生にしてしまうと、失職する。
 俳諧の席にいる芭蕉は、言葉の霊媒師だ。
 でありつつ芭蕉も俳諧物語の迷路に入り込んでいく。

 「猿蓑」選に重厚篤実な人柄の去来(きょらい)と、変化球を投げる凡兆(ぼんちょう)という新参者を組み合わせたところに興行師としての芭蕉の才があった。
 新参といえども、凡兆は芭蕉より4歳ほど年上である。
 内科医として、一家言があり、京都で医院を開いている。
 去来は長崎出身で外科医の息子である。
 外科医である兄を手助けしている。
 芭蕉、去来、凡兆をトリオとして歌仙を巻けば、新風の風邪が入る。

 凡兆は景気を得意とする俳人であった。
 景気がいい、といえばいまは商売の話となるが、俳諧の景気とは、時代の気分である。
 このころから芭蕉が言い出した「不易流行」の「不易」は去来にあり、「流行」は凡兆にあった。
 芭蕉は新人の凡兆を加えることによって、「軽み」の勝負に出た。

 「猿蓑」が刊行されてしばらくすると、芭蕉は凡兆を見限っていたふしがある。
 ほとんどの評伝は、芭蕉を最高指導者(神)として、芭蕉を中心にとらえている。
 結果、芭蕉に離反した俳人は脱落者として断罪する。
 しかし、芭蕉は自らいうように風狂の人であって、聖人君子ではない。
 悪党の貫禄があり、いささかでも癇にさわると、虫けらのように見棄て、重用した人ほど斬り捨てたくなる性分だ。
 才ある人を育てながらも、気分ひとつで嫌ってしまう。

 これは才ある師匠に共通する心理で、芭蕉も例外ではなかった。
 それを知り抜いていたのが其角であった。
 芭蕉に認められたつぎに、この罠があるため、去来のように徹底的に尽くすか、さもなくば自分で新風を切り開いていくしかない。
 凡兆の場合は、罪人として下獄したため、最悪の結果となった。
 凡兆が罪人となったのは元禄6年(1693)とされている。
 芭蕉が没したとき、凡兆は京都追放の身であり、気の荒い性格だから、つかまっても心証は悪い。

 文芸の伝統においては、罪人であろうが心を打つ作品を残した人は、認められる。
 それは和歌においても同様であって、「罪なき罪」(無実の罪)で流罪となることを願った歌人さえいて、これが文芸の特権である。
 蕉門にあっては、芭蕉の句を愛好する人と、聖人化された芭蕉の人格を慕う人、の二派に別れる。
 現在の芭蕉ファンは、この二派が両方とも入っている。
 聖人芭蕉を愛する門下生からみると罪人となった凡兆は悪人となる。







 【習文:目次】 



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: 不易流行

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● 2008/10[2006/04]



 芭蕉が「不易流行(ふえきりゅうこう)」を説いたのは、「奥のほそ道」の旅が終わったころである。
 「不易」は永遠に変わらぬ原理。
 「流行」とは刻々と変化していくことである。
 芭蕉はかなり早くから、俳諧の流行と不易性に注目しており、それを、旅のなかで見出して、弟子をケムにまいた。
 元来、「不易は善」「流行は悪」という生活上の概念がある。
 芭蕉の本心は、不易(善)には、流行(悪)にある。
 世間一般の生活理念では流行を追うウカレ者は悪であるが、流行こそが俳味の命なのであり、流行をとらえる技が俳諧師の腕となる。
 「不易」はつけたしである。

 俳諧のルールは芭蕉式新ルールによって、それまでの百韻から36韻に縮められた。
 これにより、仕事を終えた武士や町人は夕刻七つ半(5時)あたりから歌仙を巻きはじめて、五つ半(夜9時)くらいに終了する。
 百韻形式の歌仙をやれば、徹夜マージャンになる。

 連句とは、句と句の間にその物語性がある。
 初句をへて36韻が終了するまでは、さまざまな検討がなされ、場を仕切る芭蕉がひとつひとつ答えて、修正していく。
 板本になった連句には、そのあいだのやりとりは消されているため、そこでなにが話されたかはわからない。
 したがって連句は本来的に謎を含んだ暗号文学という側面がある。
 句と句の余白の解釈は読む者の自由だ。

 芭蕉は見えざる壁にぶち当たっていた。
 それは「不易流行」の「流行」であり、「軽み」につながっていく。
 「不易」の体質は、芭蕉にしみついてしまって、いまさら不易を説く必要は無い。
 自己をどう「軽く」していくか。
 俳諧師は「重く」なってしまったときは、もう終わりである。

 芭蕉には不易はあるが、「流行」があったかどうか。
 「奥のほそ道」の巻頭には、
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」
とあり、これは流行を言っている。
 ということは、芭蕉にとっての流行は日々のたびであって、「流行」を知るために旅に「たよる」
 「不易流行」の句は「奥のほそ道」に多く出てくるが、それは旅をしているから、そうなるのである。

 芭蕉は「作意」を嫌った。
 芭蕉のいう「作意」とは、「作為」であり、作り手の仕掛けが見え透いてしまうことである。
 句が上達すると、技巧が先行して、純粋の感動が薄まってしまう。
 小学生の句のほうがプロの句よりの新鮮で驚くことが多い。
 子どもの句には無駄な技巧がなく、直截の目がある。
 その子が成長してうまくなっていくと、巧を意識するあまり「作意」が出て、その結果、並句しか出来ない。
 
 芭蕉が「作意」 を否定しても、その基準がどこにあるかは極めてアヤフヤである。
 発句を吟じることが「作意」であり、まして約束事の多い連句作法の附句は作意なくして不可能である。
 それを知りつつ芭蕉が「作意」を否定したのは、「つねに素にもどれ」という決意表明であろう。
 であるけれども、具体的な表になると、「作意」と「無作意」の差はつけにくい。
 不易流行も同様で、「奥のほそ道」という旅では通用するが、旅もせず、町に暮す人々には分かったようで分からない。

 芭蕉は求道的で厳密である。
 句を吟じつつ句論を確立しようとする。
 不易流行がどうもおかしくなると、「軽み」を打ち出して、これに昔からの弟子の多くがついていjけなかった。
 芭蕉は求道的になろうとするほど破綻しはじめる。
 自己の論と作品が乖離していくのをふせぎようがない。
 芭蕉に欠けていたのは、放蕩児と言われた其角の自在さであった。
 芭蕉意向の蕉門がバラバラに飛び散るのは、むしろ当然の結果であった。







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: 奥のほそ道

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● 2008/10[2006/04]



 徳川綱吉は土木マニアであって、護国寺、寛永寺根本中堂、湯島聖堂の造営をはじめ、日光東照宮の修復事業とつぎつぎに命じた。
 芭蕉が「奥のほそ道」のたびに出発したのは元禄2年(1689)3月である。
 同行した曾良(そら)こと岩波庄右衛門は幕府おかかえの秘密調査官である。
 東照宮改築工事にあたって、伊達藩と日光奉行との間で金銭の対立があり、その詳細を調べることが曾良の仕事であった。
 そのあたりは村松友次著「謎の旅人 曾良」(大修館書店)に詳しい。
 曾良はのちに二千石の旗本の用人となって莫大な金を扱った。

 日光までのたびは、曾良の公費出張で、旅行費用は幕府が出した。
 東照宮改築にあたる伊達藩の動静をさぐるための隠密の旅である。
 隠密であることをカムフラージュするためには、芭蕉という風雅なる俳諧宗匠を連れていくのはうまい方法だ。
 芭蕉がそういった曾良の本業を知らぬわけはない。
 曾良は吉川神道神官で、武士ではない。
 頭を丸めて僧形となったが、寺院など屁とも思わず、格式の高い神社へ参拝したい、日光での調査を果たしたあとは、自分の進行する神社をまわりたいという物見遊山的好奇心が強い。
 曾良は幕府調査官でありつつも旅を好む風流人であって、半官半宮司という立場にとどまっている。

 「奥のほそ道」は、旅を終えてから5年後に書かれた。
 芭蕉は「ほそ道」のメモ原稿を持ち歩いて、紀行の構想を5年間あたためていた。
 いかにも、長すぎる。
 紀行文は、帰郷後、遅くとも1年以内に書くことが通常で、5年もたてば忘れてしまう。
 5年間の歳月は「ほそ道」を歌仙方式にし、虚実ないまぜにして再構築するための作業であったのだが、と同時に、曾良が調査官であったために、すぐに発表することがはばかられたと思われる。
 少なくとも、芭蕉生存中には板本になってはいけない旅行記であった。
 じっさい、「奥のほそ道」は、原本は芭蕉の兄である松尾半左衛門に渡された。
 刊行されたのは芭蕉没後8年目の元禄15年(1702)、井筒屋板本であった。
 兄半左衛門が没した翌年になる。

 芭蕉は遺言集で、「紀行文は死後にみよ」と言っている。
 芭蕉が、生前に「奥のほそ道」を板本にしなかったのは、隠密の曾良との同行を隠す配慮があったためだだが、と同時に「死後刊行されれば評判をよぶだろう」という確信もあったからだと思われる。
 芭蕉は西行が念頭にあった。
 西行が歌聖として名声を高めたのは、死に方がうまかった。
 生前読んだ辞世の和歌
 「願わくは、花のしたにて春死なむ、そのきさらぎの望月のころ」
にあわせて死んでみせた「奇跡」が、定家や後鳥羽院に感銘を与えた。
 西行の評判は、生前よりも死後に高まった。

 文芸で名を高めるには、作品もさることながら、死に方の工夫が腕の見せどころで、それは明治以降のの近代文学にも受け継がれた。
 名声を得た文学者は、つぎにうまい死に方が課題になる。
 芭蕉も「奇跡」を起こしたいという野心があった。
 といっても、「奥のほそ道」が仕上がった元禄7年に死ぬことになろうとは、芭蕉は思ってもいなかったろう。

 芭蕉は、従来の歌学の伝統を打ち破ろうとして、
 「ついに西行をこえる」ことができなかった」
という思いがある。
 一番弟子の其角には「俳諧の定家」という評判があるが、それでは、俳諧は和歌の下にあることを認めたことになる。
 和歌よりさらに自由になるためには、一定の知識を前提とするそれまでの芭蕉流のすべてを否定しなければならない。
 これまでも、その「軽み」をさぐってきたけれど、さらに徹底した。
 「重く」なるのは努力すればなれるが、「軽く」なるのは容易ではない。
 
 突如方針転換されれば、実直に学んできた弟子ほどうろたえて、どうしたらよいのかわからない。
 弟子たちのあわてぶりに芭蕉は頓着せず、放り出している。
 芭蕉には、まだ開拓されていない分野を見つけようという野心があった。
 日々旅をすみかとする風雅になりきれず、世を逃れてひとり閑寂を求めようとしても、すぐにあきてしまう性分で、俗のなかに身をおいて、そこに人間生活の趣をみつけようとした。
 
 芭蕉は「甘味をぬけ」といった。
 濃い味をすてて、あっさりと軽い味にしろ、という。
 いかにも芭蕉らしい渋い言い方だが、老齢となれば、こってりとした濃い味の料理よりも、アッサリ味を好む、という当たり前のことにも関連してくる。
 芭蕉のいう「軽み」は、わかりやすく受け止めれば、
 「理屈をこねず、古典に頼らず、肩の力を抜き、気軽に句作する」
ということになる。

 「奥のほそ道」の巻頭は、「軽み」ではない。
 芭蕉の身になって考えれば、「重み」は紀行の地の文に移してしまって、俳諧では「軽み」でいくという配分があった。
 「奥のほそ道」では、格調高く「重み」を持たせておうて、「死後に見よ」とした。
 そういう住み分けを用意して、俳諧では「軽み」を打ち出した。



 



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2010年6月15日火曜日

★ 悪党芭蕉:はじめに&おわりに:嵐山光三郎

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● 2008/10[2006/04]



はじめに
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 「芭蕉は大山師だ」といったのは芥川龍之介である。
 芥川以前に芭蕉を批判した人は正岡子規である。
 芭蕉をけなすことは覚悟がいる。
 子規と芥川の論は芭蕉をブランド化する宗匠への反感が先立っていて「若気の至り」の感はいなめない。
 しかし、子規と芥川には、「芭蕉は悪党である」という直感があった。
 それはなぜか。

 芭蕉没後、蕪村が出るまで、俳諧は月並みとなり、混乱し、低迷を重ねた。
 蕪村は其角の弟子であった早野巴人に学んだ。
 巴人は其角に師事しながらも、江戸の洒落風になじめず、孤高の障害をすごし、
 「俳諧に門なし。ただ俳諧というをもって門となす」
と言った。
 ここにおいて、芭門は消滅したことになる。

 碑がそこかしこに作られ、浄財をつのって芭蕉堂がたてられ、木像を安置するにいたって芭蕉は偶像化され、それは今もなを続いている。
 「奥のほそ道」の芭蕉と曾良の彫像はやたらと多い。
 百回忌の寛政5年(1793)4月には、ときの神祇伯白川家より「桃青霊神」の神号を授けられ、筑後高良山に、風雅の守護神として神社にまつられた。
 その13年後の文化3年(1806)には「古池や‥‥」の句にちなんで、朝廷より「飛音明神」の号を賜った。
 百五十年忌の天保14年(1843)には、二条家より「花の本大明神」の神号を下され、芭蕉は名実ともに「神」となった。
 芭蕉は「宗教と化した」のである。

 こうなると句の鑑賞どころではなくなり、芭蕉は、ただただ拝むだけの対象となり、いまなを続く「芭蕉信仰」はこのころから始まった。
 「古池や‥‥」が「飛音明神」となれば古池もまた枯淡の聖なる池である。
 蛙が飛び込んだ池は、江戸大火で大量の死人が飛び込んだ池でもあって、泥の臭いが強い混沌の池である。
 「悪党芭蕉」とタイトルをつけて、「老人アイドル」と化した芭蕉を、俗人と同じレベルで、考えなおそうとしたのは、そのためである。
 芭蕉もひとり、私もひとり、読者もひとりの地点に立つところから考える。

 芭蕉が評価する弟子は、つぎからつぎへと離反していく。
 ということは、芭蕉は危険な人物であったのだ。
 弟子は、自分こそが第一実力者だと思っているから、芭蕉に反旗をひるがえすことは、むしろ当然の行為となる。
 義仲寺葬儀に三百余人が参列したことは、俳風によること第一だが、葬儀を仕切った其角(きかく)の力が大きい。
 芭蕉が性格破綻の弟子をかばうのは、そこに自己の分身を見ていたからだ。
 それが、門下内の軋轢を招いた。
 芭蕉の周囲は危険人物だらけである。
 にもかかわらず、俳聖とあがめられ、数百にわたる研究書や評釈集も、芭蕉を「求道の人」「枯淡の人」「侘び寂びの俳人」としている。
 俳人の多くが芭蕉を深読みすればするほど、芭蕉像は七色の虹に彩られていく。

おわりに
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 紆余曲折しつつ芭蕉の正体をさぐってきたが、ここでひとまず筆を擱くこととする。
 芭蕉は多面体の革新派で、たえず揺れ動いているから、どれをもって芯とするかは難しい。
 ただ、芭蕉の周辺には危険な人物が多く、其角もそのひとりである。
 其角は幕府を挑発する句を詠んでいるから流罪すれすれのところにいた。
 そういった遊び人連中が蕉風の俳趣味を第一としていた。
 芭蕉を「悪党」としてしまったのはそういう意味であると了解願いたい。
 芭蕉は危険領域の頂に君臨する宗匠であって、旅するだけの風雅人ではない。
 芭蕉の凄味は連句の席でぬっと顔を出す。
 
 江戸の蕉門は、旗本や豪商にまじって、其角を中心とする遊び人が多かった。
 芭蕉が没する前年の元禄6年(1693)、幕府が出す「生類憐みの令」はますますエスカレートし、魚釣りが全面禁止となり、釣り船営業停止となった。
 其角はそれをからかった句を詠んでいる。
 「奥のほそ道」のあとに芭蕉が旅をしようと考えていたのは長崎である。
 江戸へ下ったとき、芭蕉の眼にとまったのは紅毛人のカピタンだった。
 長崎はまるごとカピタンの町で悪所でもあった。
 貿易港だから、抜荷船が出没し、磔刑、斬首となるものが続出していた。

 繁栄する都市には犯罪がつきもので、芭蕉の本能は都市をめざす。
 欲に目がくらみ、身を破滅させてしまうほどの地が芭蕉をひきよせ、そこに俳諧が’成立する。
 芭蕉の強さは、門人たちの闘争にあり、各派がはりあって論争したことによる。
 芭蕉没後、弟子たちが四分五裂したからこそ、最終的に芭蕉が残ったのである。

 この一冊を書き終えて、正直いってへとへとに疲れた。
 知ればしるほど、芭蕉の凄味が見えて、どうぶつかったってかなう相手ではないことだけは、身にしみてわかった。

 平成18年3月25日記 嵐山光三郎

 



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2010年6月8日火曜日

★ 蛍火:染み抜き屋:蜂谷涼

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● 2008/12[2004/06]



 鋏を握る手がこわばりそうになるのを感じながら、つるは、どこか医者を思わせる風貌を持つ師匠の顔を思い出していた。
 お彼岸の中日に、ちぎり屋のおもんから教えてもらっておはぎを作ったつるは、それを携えて、ひさしぶりに師匠の家を訪ねたのだった。
 師匠は、さすがに寄る年波には勝てず、近頃はあまり仕事をしていないとのことだったが、つるが持っていったおはぎを「美味い、美味い」と3つも一気に食べてくれた。
 そして、濃い目の煎茶をすすった後で、ぽつりぽつりとこう語った。

 考えてみれば、面白いものよな。
 職人というのは、たいてい、何かを作り出す。
 あるものをなくそうとするのは、染み抜き屋くらいだ。
 若い自分は、それが何やらてごたえがないような、空しいことのような気がしたこともあった。
 だが、この年になってわしは、染み抜き屋の仕事というのは、もしかしたら、人の世に似ているのかもしれん、と思うようになってきた

「人の世、でございますか」
 ぎくしゃくと首を傾げるつるに、師匠は静かに微笑んだ。

 おおかたの人は、自分が生きた証として、子孫や金や名を遺したがる。
 しかし、それらとて、永遠不滅のものでもない。
 わしはな、最近、人が生きるとは、何かを遺すことではなく、この世に生まれるときに背負うてきた前世の罪業を、一つ一つ消して、無にしてゆくことではないか、という気がするんじゃ。
 ま、これも、作を何一つ遺せ染み抜き屋の、独りよがりと言われれば、それまでじゃが

 しみじみとした師匠の言葉が、今になってつるの旨に沁みてきた。
 つるは、師匠の言葉を噛みしめつつ、一心に黒振袖を解いていった。









 【習文:目次】 



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