2010年8月18日水曜日

: 遺作について-後書に代えて 津村節子

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● 2009/07[2006/11]


[抜粋で]

 平成17年1月義は舌癌を告知され、放射線治療のため年内に3度入院した。
 今年2月2日に、完全に取り切れなかった舌癌と、PETの検査によって新たに病巣が発見された膵臓全摘の手術が行われたが、この1年7カ月は私が生きてきた年数の何十倍もの年月が経過したような気がする。

 吉村は病気について親戚にさえも知らせぬようにと言明していたので、突然の死亡報道にかれを知る人たちは愕然としたようである。
 吉村について書いて欲しいという原稿依頼が相次いだが、私はすべて辞退した。
 だが、遺作になった「死顔」に添える原稿だけは、書かねばならなかった。

 吉村は手術の前に克明な遺書を書き、延命治療は望まない。
 自分の死は3日間伏せ、遺体はすぐに骨にするように。
 葬式は私と長男長女一家のみの家族葬で、親戚にも死顔をみせぬよう。
 電話は、「ただいま取り込んでいる」ので、と拒ってもらって応対せぬこと。
 弔電お悔やみの手紙を下さった方には失礼していちいち返事を書かぬこと。
 そして、原稿用紙2枚に、
 「弔花御弔問ノ儀ハ故人の遺志ニヨリ御辞退申シ上ゲマス 吉村家」
と筆で書き、門と裏木戸に貼るようにと言い遺して逝った。
 香奠はかねがねいただかぬ話をしていた。
 人さまに御迷惑をかけぬよう、また私に忙しい思いをさせまいとする配慮からであった。

 吉村は入院前に書き上げていた短編「死顔」があった。
 「死顔」の推敲は、果てしもなく訂正し続けた細かい字が並び、それを挿入する箇所が印してある。
 あれはいい作品よ、私が言うのだから信じてね、と行っても納得した顔はしなかった。
 7月18日の日記に、
 「死はこんなにあっさり訪れてくるものなのか。
 急速に死が近づいてくるのがよくわかる。
 ありがたいことだ。
 但し、書斎に残してきた短編「死顔」に加筆しないのがきがかり」
と記されている。

 かれは自宅に帰ることを切望していたが、退院するにあたっては、医科歯科大と地元クリニックとの連携が不可欠で、その手続や病室の準備、数種の薬液を混入する点滴の練習などに忙殺された。
 一日も早く連れ帰らねばタイミングを逸すると私は焦り、CTを撮る予定を断わって24日に退院した。
 一日早まったその日の朝は嬉しさに起き上がって顔を洗いヒゲを剃り、丁重に歯を磨いた。
 CTの結果は果たしてどうであったか。
 それによってしかるべき治療が出来、もう少し延命出来たのかもしれない。
 そう思うと今も心が乱れる。
 井の頭公園で鳴くヒグラシを聞き、樹間を吹き抜けてくる風が入る病室で、かれは満足気だった。

 病状は日々悪化をたどり、四日間不眠の私に代わって娘が二晩泊り込みをしてくれたが、再び私が付き添うことになった日の朝、「ビール」と言った。
 吸呑みにビールを入れて一口飲ませると、「ああ、うまい」と言い、しばらくして更に「コーヒー」と言った。
 どちらも長いあいだ口にしなかったものである。
 口腔を潤すほどの量だったが、愚かな私は、かれの生きる意欲を感じて気持ちが明るんだ。
 しかし、それから私はかれの言葉を聞いていない。
 意識ははっきり覚めていて、じっと自分の中にこもってしまったように見受けられた。
 あとから思えば、死が刻々と間近に迫ってくるときを見定めていたかのようだ。

 夜になって、かれはいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。
 私は仰天して近くに住む娘と、24時間対応のクリニックに連絡し、駆けつけて来た娘は管をなんとかつないだが、今度は首の下に挿入してあるカテーテルを引きぬいてしまったのである。
 私には聞き取れなかったが、もう死ぬ、と言ったという。
 介護士が来て急いで処置しようとした時、彼は強く抵抗した。
 このままにしてください
と私は声を詰まらせ、娘は泣きながら、
 お母さん、もういいよね
と言った。
 
 「死顔」のゲラ校正は、私がかれのためにしてやれる最後の仕事となったが、幕末の蘭方医佐藤泰然が、自分の死期の近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物も断って死を迎えたことが書かれている。
 「医学の門外漢である私は、死が近づいているか否かの判断はしようがなく、それは不可能である」
と書いているが、遺言に延命治療は望まない、と記したかれは、佐藤泰然のごとく自ら死を迎えいれたのである。

 作中、私が褒めた場面で、川があたかも激流のように、こまかい波を立てて流れ下っている描写があるが、かれの父の死が引潮時であったように、吉村が息を引き取ったのは、7月31日の未明、2時38分であった。

 平成18年8月







 【習文:目次】 



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