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● 2009/01
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アメリカにも付加価値税はある。
州によって法律や税制が異なるものの、概ね「4%~8%」程度である。
加えて、ヨーロッパ諸国はおしなべてアメリカより物価が高い。
資本主義の総本山として「自由な市場経済」を信奉するアメリカでは、「税による富の再分配」という考え方は、もともと人気がない。
貧困をなくすための方法は、大量生産で安価な製品を生み出すことにより、物価を低めに安定させれば事足りる。
この底流には、税金を高くとって福祉を手厚くしていくと、福祉に頼って働かない層までが手厚く保護されることになり、真面目に働いて資産を築いていく層に対して不公平になり、経済全体を活性化させていく上で足かせになりかねない、という考え方がある。
労働市場の流動性が極めて高いので、スキルアップして転職を繰り返し、高額の給料を得るチャンスはある代わりに、失業しようが入院しようが、それは自分で解決すべき問題であるとされるのである。
ゆまりアメリカは「低福祉・低負担」の考え方に立っていると言っていい。
我が国はといえば、両者の中間的な立場にある。
どちらかといえばアメリカ式の「低福祉・低負担」に近い制度であるが、近年、具体的には今世紀に入ってからいわゆる小泉改革以降、ますますその傾向が強まりつつある。
中間的というのは、アメリカと違って、国民すべてがなんらかの医療保険に加入できる「皆保険制度」があるからであるが、国民健康保険でも掛金は前年度の親告所得額の8パーセントが目安といわれているように結構高く、それでいて窓口負担は3割である。
しかも高度医療や入院に関わる諸経費などは保険でカバーできない。
公平を期すために述べておかねばならないが、政府の無策が、国民皆保険制度を崩壊の危機に追いやった原因のすべてではない。
「重大な失政」との意見を変えるつもりはないが、そう決めつけて騒げば済むほど単純な話でもない。
皮肉にも、
「医療技術の発達が医療費の増大を招いた」
このことは、きちんと見ておく必要がある。
先端医療と一口で言うが、それを可能にしたのは、精密で、それだけに高価な医療機器が新たに開発されたためである。
言い換えると、そうした精密機械を導入しないと、現代の医療のニューズに応えられなくなってきているのだ。
OECD(経済協力機構)の調査によれば、人口あたりのCTスキャナー設置台数は世界一だという。
国民健康保険が誕生した1958年には、このような高価な機械は存在しなかったから、病院の「設備投資額」は今とは比較にならなかった。
イギリスで1948年にNHS(ナショナル・ヘルス・サービス)を創設することができたのも、やはりこのことが関係していて、当時は医療費といっても人件費と薬代くらいなものであったから、政府の強力な指導で、公営化・無料化することが可能だったのである。
日本初の量産型軽自動車であるスバル360が1958年に発売されたが、当時の車両本体価格は48万円ほどで、これは標準的な大卒サラリーマンの年収を上回っていた。
現在では、サラリーマン(正社員)の平均年収は400万円ほどで、一方、軽自動車ならその1/5程度で飼うことができる。
市場原理で、皆が車を買うようになれば大量生産が可能になり、したがって価格が下がり、ますます売れるようになる。
これが統制経済だと、この製品はこの値段で売る、ということをお上が決めてしまうので、よりよく、より安価な製品を生み出す原動力が失われてしまう。
端的に言えば、技術が発達すればコストも抑えることができるようになるのが普通である。
しかし、医療という行為は、それ自体としては何かを生産するわけでもないし、誰かを楽しませるわけでもない。
病気で動けなくなるということは、すなわち社会的な生産活動に参加できなくなることを意味している。
つまり、医療というのは普通の経済活動と同列には考えられないのである。
考えてはいけない事柄であるはずなのだ。
このことを理解出来ない(あるいは、理解しようとしない)政治家やエコノミストが、何事も市場原理にまかせておけばよいのだという理念を、医療・福祉にまで持ち込んできたのである。
このような理念に従えば、「何も生産しない」皆保険制度など究極的には無用だ、ということになってしまう。
「経済成長期と違って、財政が悪化する一方なのだから、福祉削減もやむ得ない」
という論理がまかり通っている。
語弊を恐れずに言えば、高齢者の病気に対しては「寿命」という考え方が根強くある。
医療機関が手を尽くす、という発想はあまりみられなかったのである。
しばしば、医療費の問題を論じる際にOECDが2005年に発表した統計に基づいて、
「日本人の平均入院日数は世界威一長い。
これが医療費負担を押し上げていることは明白」
といった主張をする人がいる。
欧米では、体が利かなくなった「高齢者のための長期療養施設」は、病院とは区別されており、日本ではこれが混同されているという点に注意しないといけない。
高齢者向けの、介護・ケアが可能な施設は日本にもあるが、大部分は民間事業で、入院するには大金が必要である。
一方、現在の医療の水準に照らすと、自宅でできることは限られており、どうしても高齢者の長期入院が多くなってきてしまうのだ。
保険というのは、できるだけ多くの出資者によって支えられ、できるだけ保険金の支払を少なくしなければ正常に機能しない、ということをきちんと理解できれば、
「少子高齢化社会においては皆保険制度の存続は不可能である」
ことも容易にりかいできる。
人間はいつか死ぬのである。
生まれてくる子どもが少なければ人口は減っていくのが道理である。
出生率が改善されないまま2050年を迎えると、わが国の人口は現在の2/3以下、8千万人を下回るとの推計もある。
それはとりもなおさず、働いて保険料を支払うひとの数が減ってきているし、これからも減り続けるということである。
それに加えての「高齢化」である。
WHO(世界保健機構)の定義によれば「65歳以上」を「高齢者」と呼ぶ。
国連の定義では、総人口に占める高齢者の割合が
「7%以上」の社会を「高齢者社会」、
「14%以上」の社会を「高齢社会」と呼んでいる。
我が国では、保険制度にからんで便宜的に、
前期高齢者:65歳以上---75歳未満
後期高齢者:75歳以上
と区分けしている。
日本の総人口に占める高齢者の比率は、2007年で「21.5%」に達しており、世界一の高齢化社会となっている。
現役世代と呼ばれる、働いて保険料を支払い続ける層が、総人口の中で相対的に減ってきている一方、高齢者が増えるに従って医療費の負担は増えている。
年金制度が崩壊の危機に瀕しているというのも、これと同様に分かりやすい話である。
高齢化と言われる中で、若い人達が、数十年先にちゃんと年金が受け取れるという政府の説明を信用しなくなって、現時点での年金掛け金の負担を忌避する傾向が強まっている。
原資が乏しくなって、給付の負担が増え続けているのだから、システムを維持できる道理がない。
老後と一口にいっても、日本は今や人生80年の時代であり、現役を退いてからの時間が長い。
体が利かなくなってような場合でも、子どもや配偶者に負担をかけたくない(あるいは逆に、負担に耐えられそうもない)といった理由で、介護付き老人ホームへ入居を考える人が増える一方である。
少子化といわれながら、介護関係の大学の新設が続いたり、大手居酒屋チェーンが介護ビジネスに参入したりするのも、そこに大きなビジネスチャンスがあるからである。
ビジネスチャンスという言葉を使うのは、こうしたホームへの入居、あるいは介護それ自体に、かなりの金額を要するからである。
だからこそ、大企業と中小企業との退職金の差から生じる「年金格差」、さらには退職金とも年金とも無縁のフリーターが高齢化してくる問題から生じる「高齢格差」、お金がなければ必要な治療も受けられないという「命の格差」といった問題が生じてきている。
財源の問題とも関連するが、
「景気が悪い時ほど、福祉を充実する必要がある」
ということが、もっと理解されなければならない。
景気対策の名の元に、選挙目当てのバラマキとしか思えない減税政策やナントカ給付金などは論外である。
景気が悪化し、企業倒産が増えるということは、働くものにとって、下手すると失業しかねないというリスクに直面する。
そうした時に、減税だの給付金だのといったことで、多少のお金が手元に残ったらどうするか。
まずは、老後のために預金しておくと考えるのが普通であろう。
福祉が信頼できない社会にあっては、老後や働けなくなってからの生活防衛も「自己責任」であるから、景気浮揚対策なるものはなかなか機能しないことになる。
景気が停滞するということは、失業や貧困の問題がより深刻化することである。
これはある意味では、
「保険がもっとも必要なときに、保険を取り上げる」
といったような低福祉政策から脱却していく好機であるともかんがえられるのだ。
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【習文:目次】
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