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● 2009/08[1978/**]
『
つねに、希典にあってはものごとが劇的なのである。
日露役が終わり、希典は凱旋した。
その凱旋行進が9月30日、東京で行われたとき、他の将軍たちは馬車で進んだが、希典のみは馬車を用いることを拒絶し、それらの華麗な馬車が進行し去ったあと、彼ひとり騎馬をもって行進の最後を、それも離れて進んだ。
白髯痩身の体を鞍に託し、背をやや前かがめ、内臓の虚弱さをかばうがごとく手綱をあやつってゆく希典の姿は、希典の詩のなかでも傑作の一つとされている七言絶句をそのまま詩劇のなかに移したかのようであった。
詩に曰う。
「
皇師百万強虜ヲ征ス
野戦攻城屍山ヲ作ス
愧ヅ我何ノ顔アツテカ父老ヲ看ン
凱歌今日幾人カ還ル
(注)
皇師百萬征強虜
野戰攻城屍作山
愧我何顔看父老
凱歌今日幾人還
皇師百万 強虜を征す
野戦攻城 屍山を作(な)す
愧ず 我何の顔(かんばせ)あって 父老に看(まみえ)ん
凱歌今日 幾人か還る
」
この詩の作者としては二頭だての馬車の奥深くにおさまるべきでなかったであろう。
単騎で進むことによって群衆のなかに身をさらし、刑場に曳かれる者のごとく身を進めてゆかねばならぬであろう。
希典はそのようにした。
もし群衆のなかから石を投げる者があれば希典の美意識はあまんじてそれを額に受けたにちがいない。
警吏がその者を捕縛しようとすれば希典は梅を寄せ、その警吏を物やわらかに制止したであろう。
希典はこの詩の挿画のごとく生きてゆこうとした。
彼はもともと「自分の精神の演者」であった。
【習文:目次】
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