2012年4月2日月曜日

:法隆寺の七不思議

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● 1987/03/05[1981/04/25]



 かって、法隆寺には七不思議の伝説があった。

1.法隆寺にはキモが巣をかけない。
2.南大門の前に鯛石(たいいし)とよばれる大きな意志がある。
3.五重塔の上に鎌がささっている。
4.不思議な伏蔵(ふくぞう)がある。
5.法隆寺のカエルには片目がない。
6.夢殿の礼盤(坊さんがすわる台)の下に汗をかいている。
7.雨だれが穴をあけるべき地面に穴がない
 (石田茂作著『法隆寺雑記帳』)

 なにやら怪談じみた話である。
 なんだかうす気味悪い話である。
 そのうす気味悪い伝説の背後にあるのは、いったいなんだろうか。
 


 石田茂作氏は、そういううす気味の悪い伝説を排除して、次のように七不思議を考えている(同『法隆寺雑記帳』)。

1.中門の柱
2.金堂・五重塔の裳階(もこし)
3.中門・講堂中軸線の食い違い
4.五重塔の四天柱礎石の火災骨
5.三伏蔵
6.五重塔心礎舎利器に舎利なし
7.若草塔の心礎

 石田氏のあげる七不思議は、伝説的な七不思議よりいちじるしく科学的である。
 その七不思議の中には、すでに科学的に解かれた第三の不思議のようなものもある。
 しかし、不思議の性格が科学的になったとしても、まだ不思議は残る。
 特に中門の柱の謎は、依然として溶けない。
(注:講堂は現在九間であるが、もとは八間であった。復元した八間の講堂の中心線は中門の中心線と一致していた)

 石田氏の七不思議は、現場の学者らしい発想であるが、私は法隆寺を綜合的に見て、私なりの七不思議を考えてみよう。

①.『日本書紀』に関する疑問。
 法隆寺建造に関して正史である日本書記に一言も書かれていない。
 法隆寺の名前が最初に日本書紀に出てくるのは法隆寺の火災の記録である。
 日本書紀あるいは続日本紀は、さまざまな秘密をもった本である。
 続日本紀は古事記については一言も語らず、日本書紀にかんしては「一行」しか語らず、おそらくその頃までに完成したと思われる出雲大社についても一言も語らなかった。
 あれほど立派な建物と仏像を残しながら日本書紀および続日本紀がこの建物について語らなかったのは、古事記や日本書紀が出雲大社について真実を語らなかったように、そこに何か大きな秘密が隠されているのではなかろか。
 法隆寺に関して日本書紀は実にあいまいである。
 そのあいまいさは故意のものか、それとも偶然のものなのであろうか。

②.このあいまいさは『法隆寺資材帳』、正確にいえば『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によって一層深化される。
 『資財帳』とは、各寺院が政府に差し出っした財産目録である。
 この資財帳は何よりも正確であらねばならぬ。
 なぜなら寺院の財産を売り飛ばしたり盗まれたりしたら、寺院は責任を問われるからである。
 ところがこの正確を旨とする資財帳が、なぜか寺院の設立にかんして、きわめてあいまいである。

③.次は建物の謎、「中門の謎」であろう。
 中門の真ん中に柱があるのは全くおかしい。

④.中門を入った右側に金堂があるが、この金堂についてもわからぬことが多い
 
⑤.次は塔である。
 資財帳には16丈と報告してあるが、実測すると10丈なにがしの高さなのである。
 資財帳に現われた塔は、現実の塔より、約1.5倍も高いのである。
 大幅に改造されたのであろうか。
 しかし、そのような改造の痕跡はない。

⑥.夢殿を中心とする寺院、それを法隆寺では東院と名付けているが、建物は西院のみで完全な寺院形態である。
 それなのに、どうして加えてもう一つ大きな伽藍をなぜ必要とするのか。
 
⑦.最後に、「祭り」の謎である。

 以上において、私は法隆寺を、その文献ニ、その建物・彫刻四、その祭り一にわたって健闘してみた。
 法隆寺がそのすべてにおいて大きな謎に包まれているのを見た。
 実際、法隆寺は全くわからない寺である。
 調べれば調べるほどわからなくなると、多くの学者が嘆くのも無理もない。
 この謎に向かって私は挑戦したいのである。



 こうしてわれわれは、法隆寺にかんする謎を解くべき、一切の用意を整え終わったのである。
 いよいよ、謎そのものの解明に入らねばならない。
 謎とは次の七つである。

一. 『日本書紀』、『続日本書紀』にかんする謎
ニ. 『法隆寺資材帳』にかんする謎
三.  中門にかんする謎
四. 金堂にかんする謎
五. 塔にかんする謎
六. 夢殿にかんする謎
七. 聖霊会にかんする謎






 【習文:目次】 



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