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● 1987/03/05[1981/04/25]
● 法隆寺金堂
● 釈迦如来像(Wikipedia画像から)
● 薬師如来像(Wikipedia画像から)
● 阿弥陀如来像(Wikipedia画像から)
『
仮説を整理しよう。
法隆寺は、太子一家の鎮魂の寺であるという仮説である。
太子一家の怨霊の鎮魂の寺。
その言葉の意味は3つの要素に分析できる。
①.聖徳太子一家という意味
②.怨霊という意味
③.鎮魂という意味
である。
金堂という空間を満たす中心的なものは、三体の本尊であろう。
右から、薬師如来、釈迦三尊、阿弥陀如来、それを四天王が取り囲む。
正面、薬師と釈迦の間に少し下がって毘沙門天が、釈迦と阿弥陀の間に吉祥天がいる。
その背後にも、同じようなところに吉祥天と地蔵菩薩がいる。
その他、この金堂には浄土の有様が描かれている壁画がある。
この金堂を構成している主役は、釈迦如来、薬師如来の二体の仏像であろう。
すべての法隆寺についての解説書はこの二体の仏像について詳しく語る。
日本におけるもっとも古い金銅仏だと考えられてきたからである。
現代のわれわれは、美術史的評価で仏の価値をきめる。
しかし、昔の人はそうではない。
もとより、この薬師如来と釈迦如来にかんしては、現在以上に大きな尊敬が払われていたが、それが推古時代に造られたからという理由によるのみではない。
薬師如来は「用明帝御等身の像」として、釈迦如来は「聖徳太子御等身の像」として、尊敬されたのである。
つまり昔の人は、この薬師仏を用命帝、釈迦如来を聖徳太子として拝んでいたのである。
「惣じて薬師は、用明天皇のために、之を営み給へり。
此れ則ち当寺の本仏なり」
と『聖徳太子伝私記』にある。
釈迦像と薬師像が、この金堂において主役を果たしていることは事実である。
しかし、この2つの仏像とはなはだよくにている西の間の阿弥陀像はどうか。
この阿弥陀如来に今の美術史家はほとんど注意を払わない。
それは、この仏像が明らかに鎌倉時代に出来たものであるためである。
その光背の銘には、承徳年間(1097--1099)に泥棒が入って仏像を盗み、須弥座がさびしく残っていたので、寛喜年間(1231)に鋳造がはじめられ、翌貞永元年の8月に供養が行われたと書かれている。
してみるとこの阿弥陀如来は1232年の作ということになる。
新しくつくられたことがはっきりしているこの仏像に、それから百年と経っていない『太子伝私記』は、次のような尊敬を払っている。
「次に西の間、須弥壇の阿弥陀三尊は、間人皇女、聖徳太子、高橋妃の御本体ゆえ、もっとも根本の尊像なり」
ここで、近代美術史家によってはほとんど問題とされていない新しくできた阿弥陀如来が
「もっとも根本の尊像なり」
とされているのである。
とすれば、われわれは阿弥陀如来を金堂の根本の尊像と考えねばならぬことになる。
阿弥陀如来を金堂の主役とすれば、いったい釈迦如来と薬師如来はどうなるのか。
金堂の釈迦三尊と薬師如来には多くの問題点がある。
一口に言えば、それらは、釈迦、薬師如来像の一般的特徴から逸脱する多くの特徴をもっている。
まず、この仏像が果たして釈迦如来とよばれ、薬師如来とやばれるべきかさえ、実は疑問なのである。
仏像の種類は、服装と印相によって決められる。
菩薩はさとりを開こうと努力している人間なのであるが、如来はすでにさとりを開いた聖者である。
大乗仏教は、その二種類の仏教者の区別を、菩薩には冠や首輪・腕輪などをつけさせるにたいし、如来には薄い僧の着物をまとわせるだけの形をとらせることによってつけている。
今、この釈迦如来と薬師如来は、明らかに宝冠や首飾りをつけていないので、如来であることは確実であるが、何如来かは明らかでない。
大乗仏教は、如来どうしのの間の区別を、「印」、すなわち「指の形」で区別をつける。
釈迦如来は、ふつう予願(よがん)・施無畏(せむい)といって、右手の掌を前にして上にあげ、左手を同じく掌を前にして下にさげる形でつくられる。
●室生寺釈迦如来像
左手の予願とは、ものを与える形であり、右手の施無畏とは、不安をなだめる手の形を示すものであろう。
薬師如来は、まさに大乗仏教のもつ現世利益の精神を代表するもので、個人の病気を治癒し、あわせて国家の安全を護る仏である。
この仏は、ふつう、その名のように薬壷をもっている。
したがって、その印も、掌を平らにしていなければならない。
多くの薬師如来は、たとえ薬壷が失われても、その手には薬壷がもたされていたことを示す何らかのしるしがある。
●薬師寺薬師如来像
しかし、この法隆寺の釈迦像と薬師像とはまったく同じ印相なのである。
薬師如来といわれる仏は、まったく薬師如来らしくないのである。
光背の銘に薬師如来とあり、そして『資財帳』にも、またこの寺の伝承にも薬師というから薬師なので、もしこのままであったら、われわれは釈迦像と言ったにちがいないのである。
印相学からみれば、この金堂には釈迦像が二体あることになる。
』
『
以上述べたように、法隆寺の金堂は、聖徳太子一家のイメージと死のイメージが満々ている。
救われぬ魂がここに充満しているのである。
この魂はどこへゆくのか。
舎利と、火炎と、刀剣でしめされる惨劇の犠牲者の魂を誰が救うのか。
ここに西方世界にましまし救い主の存在理由がある。
金堂に坐す阿弥陀仏は、先に述べたように鎌倉時代に出来たものである。
そこの前にあった仏像は盗まれたゆえに、新たにつくられたという。
この前にのっていた仏像が、はたして阿弥陀仏かどうか疑う人がある。
『資財帳』に阿弥陀仏の記載がないことと、ここに多くの小仏像があったらしいという理由で、阿弥陀仏は鎌倉時代になってはじめておかれたのではないかという人がある。
しかし、私はそうは思わない。
阿弥陀仏の存在なくして、あるいは浄土思想なくして、法隆寺は考えられないのである。
金堂には実に艶麗な壁画が描かれていて、その壁画の中でも、西面、阿弥陀浄土の画がもっとも優れていることは、多くの美術史家が認めるところである。
つまり一言でいえば、金堂には阿弥陀仏のイメージが満ちているのである。
● 阿弥陀如来壁画(Wikipediaより)
最初の阿弥陀仏がどんな仏像であったかは分からぬけれど、この法隆寺の金堂は阿弥陀仏なしには存在しえぬものなのである。
仏像は、国家鎮護の役割をすると同時に、個人の内面に働きかけるものである。
阿弥陀仏は、もっとも個人の内面に働きかける仏ではなかったか。
阿弥陀仏は、死と罪ついての形而上学的反省をひとびとに与える。
人間は死ぬ。
そして死後、定散(じょうさん)ニ善をつんだ人は極楽浄土へゆき、阿弥陀仏に救われる。
このような浄土思想が、いつ日本に入ってきたかはわからない。
日本に最初に入ってきた阿弥陀信仰は、おそらく北魏の曇鸞系のものであろうと思われる。
『書紀』における最初の阿弥陀信仰の記録は、舒明天皇12年(640)5月の頃に、前年に唐国より帰った恵隠が『無量寿経』を説いたという記事であるが、おそらく阿弥陀信仰が定着したのは孝徳朝(645--654)以後であろう。
孝徳帝のとき出来たとされる現四天王寺の本尊は阿弥陀仏であるが、特に持統帝以後から阿弥陀仏は盛んにつくられるようになる。
しかし、この時代の阿弥陀仏信仰を、平安時代の末期に流行した、この世の苦悩の世、無常の世と考え、現世を超えた浄く美しい極楽浄土に倦怠のまじった憧憬の眼を投げつつ悲しき心で阿弥陀仏の来迎を待つ、あの時代末的浄土思想と理解してはいけない。
平安末期には、阿弥陀仏は来迎印の形でつくられるが、この時代には来迎印の阿弥陀仏はほとんど作られていない。
この時代の阿弥陀仏は定印、つまり瞑想している時の姿より、説法印つまり説法している姿の阿弥陀仏が多い。
この時代の日本人は、まだ現世を享楽していた。
大伴旅人が
「今の世にし楽しくあらば来む世には無視にも鳥にもわれはなりなむ」
と歌った強烈な現世肯定の意識が、この時代の人間の精神的特徴である。
とすれば、阿弥陀仏はいかなる点においてこの時代の人間に必要であったのか。
それを一言でいえば、「死霊の恐怖からの開放」 のためであった。
自分たちが殺した人間の死霊が再びここに現れ、生きている人間に復讐を試みる。
その死霊を誰かが何処かへ連れていき、二度と地上に現れて生者の生活を邪魔しないようにして欲しい。
そういう要求を人は仏教に求める。
そして仏教側においては、そういう要求を満たすものとしての阿弥陀仏が認められはじめるのである。
古代日本人の生活を知るにつけ、彼等が死者にたいしてもっていた恐怖が、想像もできないほど大きなものであったのを知る。
それは、「死に対しての恐怖」ではなく、「死者に対する恐怖」である。
死者の霊魂が、いつ何時、生者の世界に現れて、生者の生活を乱すかもしれない。
どうか死者よ、黄泉の国にいる死者よ、静かに眠っていて欲しい。
おそらく、そういう願いを多分にこめてあの巨大古代古墳が築かれたのであろう。
あの巨大な古墳とそこに埋められる巨大な石棺が、その恐怖をわれわれにはっきり見せてくれる。
この思い石棺と大きな土山を壊して、まさか死者がこの世に現れようとは思えない。
特に偉大な人が恨みをのんで死んでいった人の霊は、よけい手厚く葬むられる必要がある。
なぜなら偉大な人間は偉大な力をもっているゆえに死後もまた偉大な力をもっていると考えられるからである。
恨みをのんで死んでいった人間の怨恨ゆえに、しばしば人間の世界に現れやすいとかんがえられるからである。
私は「古墳の大きさ」は、その人の偉大さとともに「怨恨の深さ」に正比例するのではないかと思う。
聖徳太子の霊は、そういう偉大にして、しかも、「もっとも深い怨恨をもつ霊」なのである。
この霊は、もはや巨大な古墳によって鎮められる霊ではない。
なぜなら、対し地震が日本固有の神より異国の神(仏)を信じたからである。
それゆえ太子の怨霊の出現にかんして、日本の神は無力なのである。
そこで新しい神、すなわち仏が太子の鎮魂を引き受けねばならぬ。
その仏の中でも阿弥陀仏が鎮魂の主役となる。
阿弥陀仏は、迷える霊をすべてまとめて極楽浄土へ連れていく。
死霊よ、どうぞ、阿弥陀仏の手によって極楽浄土へ’いってください。
私はこのとき、古墳時代の夜が明けた、と思う。
古墳時代において神道が果たした役割を、今や仏教が引き受けたのである。
太子の霊、このもっとも厄介な死霊を引きうけるのは、もはや古代神道ではなく、仏教なのである。
聖徳太子は、巨大な古墳に葬られるべきではなく、寺院に葬むられるべきなのである。
続々と建てられてゆく寺々とともに、古墳時代の世は完全に明けたのである。
奈良時代の人間の意識は、平安末期の人間の意識とは違っている。
極楽浄土へ行くのは、自分自身ではない。
むしろ自分の敵ども、自分や自分の先祖が自ら手をかけた犠牲者たちを極楽浄土へ無事送りとどけることによって、自分の政治的権力を安泰化しようとしたのである。
』
『
もと金堂に存在した玉虫厨子は、法隆寺そのものと同じく、推古時代(7世紀初期)のものとされてきた。
その建造様式などが、金堂や塔などの建築様式に類似しているからである。
しかし、再建論はほぼ毛一定的となり、現法隆寺の建物をどんなに早く見積もっても、天武帝(在位672--686)の頃としなければならないことになったとき、玉虫厨子の製作年代のみを推古時代におくことは無理であろう。
玉虫厨子は、その名の通り、仏壇であろう。
いったい誰を祀ったのか。
やはり山背大皇子をはじめとする聖徳太子一家をも祀ったものと思う。
山背大皇子を思わせる2つの物語を仏典から選び出して、それを両側にえがきつつ、舎利の画と塔の画を正面と背面に描いて、一族の菩提を弔うのである。
『資財帳』には
「
宮殿像弐具
一具金泥押出千仏像、
一具金泥銅像
」
とあるが、宮殿像ニ具とはこの玉虫厨子とたちばな婦人念持仏にあたるのではないかと多くの美術史家は考えるが、多分そのとおりであろう。
この玉虫厨子も、金堂や、塔と同じ目的のために作られたと思う。
』
● 西院復元図(左・塔、右・金堂)
● 金堂模型
注:写真はgoogle画像から
【習文:目次】
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