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● 1987/03/05[1981/04/25]
● 夢殿(google画像から)
● 夢殿(google画像から)
『
西院の地にある法隆寺は、養老から天平にかけて完成された寺として存在していた。
それにもかかわらず、この西院とは別に、かって対しが住んでいたとといわれる斑鳩宮の跡地に、なぜ新たに東院(夢殿)なる建物が別にたてられたのであろうか。
法隆寺のように、本建造以外に東院なる別院を同じ境内にもつ寺、2つの完成された寺院をもつ寺はほとんどない。
なぜ完成された西院建築に加えて東院なる別院がたてられたのか。
一言でいえば、聖徳太子の怨霊が再現したからである。
天平九年(737)、藤原氏にとって最大のピンチがおとずれた。
どうやら天然痘であったらしいが、疫病が九州から流行し、たちまちのうちに藤原氏の権力者の命を奪っていいた。
天平9年4月17日、不比等の第二子の房前(ふささき)が死んだ。
7月13日には藤原4兄弟の末弟、藤原麻呂が死んだ。
そして、ついに不比等の嫡男、左大臣武智麻呂も7月25日に死んだ。
そして8月5日、残った三男の宇合(うまかい)もあとを追ったのである。
疫病はたしかに流行したが、必ずしも政府の高官のすべてが死んだわけではない。
どうしてよりによって藤原氏の四兄弟の命のみを疫病は奪ったのであろうか。
残された藤原氏の縁者たちは、この突然の不幸になすところを失った。
運命は何の先ぶれもなく、権力の絶頂にあった彼らを絶望の淵におとしいれた。
残された一門の中心には光明皇后がいた。
天平7年に帰国したばかりの僧玄昉が突如として僧正になったのは、この年の8月26日である。
玄昉は、おそらくこの四兄弟の死にショックをうけた光明皇后や、宮子皇太夫人の心にしのび込んでいったのであろう。
藤原四兄弟の死と、それに続く玄昉の僧正就任と玄昉による宮子のノイローゼ治癒とはすべて法隆寺東院建造に関係していると思う。
天平10年閏7月9日、行信は律師になるが、おそらくこの律師就任は、玄昉の引きによるのであろう。
その後、行信は諸寺の検校となり、どうやら大僧都にまでなり、玄昉とともに当事の仏教界を支配するようになる。
法隆寺の夢殿建造は、もともとこの行信の力によるものである。
法隆寺の夢殿には行信の像がある。
『法隆寺東院縁起』は、この東院が、行信の願により建設されたと伝える。
行信は、このかって沼沢対しが住んでいた宮殿のあとが、今は荒れ果てて、野獣のすみかになっているのを嘆いて、ここに東院建設の願をたてたという。
たしかにその通りであろうが、東院建築の理由は、ただ、この太子の宮のあった土地が荒れ果てていたためのみではあるまい。
おそらく行信は、光明皇后にこう言ったにちがいない。
「
先年の不幸はすべて聖徳太子の祟りのせいです。
たしかに、あなたのなくなったお母さん(橘三千代)をはじめ藤原家のひとびとは、法隆寺をつくって手厚く対しを祀りました。
しかし、まだ太子の霊は慰められていないのです。
あなたのおじいさん(鎌足)が何をやったか、あなたは、お父さんやお母さんに聞いていませんか。
太子の霊の怨みは尽きないのです。
怨みの霊は、あの、用心深く作られた法隆寺を脱出して、あなたの四人のお兄さんを殺したではありませんか。
太子の生前住んでいた宮殿の跡が荒れ果てたままです。
そこに太子を祀るのです。
もう二度と太子の怨霊が出られないように、完璧なお堂をつくるのです
」
おそらく行信は、光明皇后の援助のもとに夢殿建設を計画したのであろう。
東院、かって聖徳太子が住んでいて、山背大兄皇子の事件のとき火を放った斑鳩の宮が焼け跡のまま放置されている。
そこに対し供養の寺を建てる。
これが夢殿であるが、その寺の形を八角円堂にしたのは何故であるか。
この八角円堂は、墓である。
夢殿という名は、まさに生前の聖徳太子を思わせるが、実は、八角円堂のこの建物は太子の死後に建てられたのである。
発掘の結果、この場所に昔の住居の跡が出てきたが、それは八角円堂ではなかった。
この八角円堂は、太子の死後、太子の霊を祀るために建てられたものであろう。
八角堂の中には、やはり八角の意志の壇があり、その上に、やはり八角の厨子があり、その中にあの有名な救世観音がおられるのである。
そこは太子の瞑想の場所などではなく、やはり、太子の死の場所であったらしい。
このはっかくの大きな石は、なんとなく石棺を思い出させる。
日本人はししゃの出現を恐れた。
そして、おそらく偉人の霊は死後必ず出現してくると力をもっているにちがいないと思い、大きな古墳をつくり、大きな石棺にその死体を埋めた。
永久に死者の霊魂が出てこないようにするためであろう。
おそらく当事の、最高技術が古墳の製作にどういんされたであろうが、仏教はこのような古墳の製作を禁止した。
古墳製作に向けられた建築技術が、仏寺の建築に向かったのである。
夢殿の堂内の冷え冷えするような巨大な石壇は、なんとなく巨大な石室や石室や石棺を思い出させる。
』
『
この石の壇の上に厨子があり、その中に救世観音が納まっていたのである。
この救世観音は長い間秘仏であった。
秘仏であるばかりか、その体いっぱいに白布が巻かれていた。
この白布が取り除かれ、救世観音が姿をあらわしたぼが明治17年である。
それ以前、この秘仏のお姿をみたものはほとんどなかったのではないかと思われる。
この仏は創立当時以来、秘仏であったのであろう。
この秘仏が、1200年にわたる秘密のベールをはがされたのは、明治17年の夏であった。
「
この秀美なる仏像は等身よりは少し大にして、実に明治17年の夏、余が一命の日本同僚とともに発見したところに係る。
余は日本中央政府より下付せられたる公文により、法隆寺の各倉庫各厨子の開検を要求する権能をを有したり。
八角形の夢殿の中央に閉鎖した大厨子ありて、柱のごとく天に冲したり。
法隆寺の僧は伝説を語ていわく、このうちには推古天皇の時、朝鮮より輸入したるものあり、然れども二百年前より曾て一度も開扉したことなしと。
此のごとき稀世の宝物を見るに熱心なる余は、あらゆる議論を用いて開扉を強いたり。
寺僧は、もしこれを開扉せばたちまち神罰あり、地震は全寺を毀つべしとて長く抗論したり。
しかれども我等の議論はついに勝ち、二百年間用いざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今において忘れがたし。
厨子のうちには木綿をもって鄭重に巻きたる高き物あらわれ、その上に幾世の塵埃堆積したり。
木綿を取り除くこと容易に非ず、飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、およそ五百"ヤード"の木綿を取り除きたり思うその時、最終の包皮落下し、この驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現れたり。
フェノロサ『東亜美術史網』
」
[注].500ヤードは約450メーター(約0.5km)になるのだが、果たしてそんなにあったのだろうか。
この時から救世観音は、美的鑑賞の対象となったのである。
まず恐ろしき像であり、続いて聖なる像、畏敬すべき像になったのである。
フェノロサ以来、この像は、芸術的に鑑賞されるべき日本美術史上の傑作となったのである。
救世観音というこの仏像は木彫である。
全身に金箔がぬられていて、遠くからみると金銅仏のように見えるが、実は木彫なのである。
金銅仏の如く見せた木彫の仏像といってよいかもしれない。
先に、渡しはこの救世観音を百済観音に比較した。
この2つの像はよく似ている。
あるいは同じ作者かもしれない。
しかし、決定的な違いが二つある。
一つは、救世観音の体は空洞であることである。
つまりそれは、全面からは人間に見えるが、実は人間ではない。
背や尻などが、この像には欠如しているのである。
そしてもう一つは、光背が大きな釘によって頭に直接打ち付けられていることである。
この2点に、まさに太子像である救世観音像の本質がある。
仏像を彫刻し、中を空にする。
それは技術的には一体の仏像を彫るより困難であろう。
これは故意に背後を作らなかったとしか考えられない。
いったい世界の彫刻の中で、背後を中空にしておくという像が、他にあろうか。
この像の意味をもっと深く考えさせるのは光背である。
光背が直接、太い大きなグギで、仏像の頭の真後ろに打ち付けられている。
日本ではふつう光背は百済観音のように、支え木で止められるのが常である。
重い光背を仏像に背負わせ、しかも頭の真後ろに太い釘を打ち付ける。
いったい、こともあろうに仏像の頭に真ん中に、釘をうつということがあるか。
「釘を打つ」というのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである。
仏像の頭の真後ろに太い釘が打たれている。
しかもその仏像は、救世観音という尊い名でよばれ、聖徳太子御等身の像、すなわち太子ご自身である。
いったいこのことをどう考えたらよいのであろう。
日本人の感覚からいって、最大の瀆神行為である。
それはおそるべき犯罪である。
聖なる御堂の聖なる観音に、おそるべき犯罪が行われている。
ありうべからざることである。
それがありうべからざることであるゆえに、今まで誰一人として、この釘と光背の意味について疑おうとしなかった。
しかしどうやらこの仏像の奇妙に腹をつきだした形は、あらかじめこの頭にのせられるべき重い光背を予想していたと思われる。
とすれば、この仏像は重い光背を太い釘で頭の真後ろに打ち込まれなければならない運命をもっていたのである。
なぜこの仏像が秘仏になり、なぜあのような白布でまかれ、しかも「天地変異」の寺伝によってこの秘密が保護されなくてはならなかったのか。
この聖なる御堂でこういう耐えられないことが現実に起こっていたのである。
ひとびとは、このような恐ろしい事実に全く気づかなかった。
藤原氏が作り上げた歴史に、見事にだまされていたからである。
聖なる寺のもっとも聖なる場所に、このような犯罪が行われていようとは、夢にも思われなかったのは当然である。
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● 夢殿模型(google画像から)
【習文:目次】
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