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● 1987/03/05[1981/04/25]
● 復元図(google画像より)
● 中門(google画像より)
● 復元図(google画像より)
● 塔(google画像より)
『
法隆寺の中門のは、真ん中に柱をもっている。
この柱のために、中門は四間となっている。
ふつう飛鳥時代の寺院は三間、後に奈良時代においては門は巨大になり五間のものが建てられる。
しかし、四間の門、偶数の門は他に存在しない。
しかし、再建当事の法隆寺において「偶数性の原理」が中門も、講堂も、金堂も、塔も、支配していたのである。
偶数性の原理は、中門の真ん中に柱におかせ、世にも不思議な四間の門を出現せしめ、講堂を六間にさせ、金堂の二階を四間にさせ、塔の再上層部をニ間にさせている。
偶数性の原理は建築学的にはたいへん不便である。
建物の真ん中に柱があることになり、正面がとりにくくなる。
特に寺院では本尊が真ん中に置けないことになる。
このような不便さにもかかわらず、法隆寺において偶数性の原理が支配的であるのは、よほど執拗に偶数性への執着があると思うが、この執着がもっともはっきり現れているのは金堂であろう。
金堂は、一階五間であり、内陣と外陣に分かち、内陣は三間である。
なぜこの非合理をあえてしたののか。
法隆寺の設計者は、できたらすべての間を偶数にしようとする意志をもっていたにちがいない。
しかしそれでは本尊は真ん中に置けない。
この偶数性の原理は何か。
先に石田茂作氏の著書『法隆寺雑記帳』から引用して、偶数間の建物の例として、次の4つの例を挙げた。
1.出雲大社の社殿
2.奈良元興寺の極楽坊
3.法隆寺金堂の上層四間
4.法隆寺五重塔の最上層、薬師寺三重塔の最上層、当麻寺東塔の最上層および中層
このうち、薬師寺を除けば、他はすべて怨霊を伴い社寺であることは注意すべきことである。
とうようにおいて奇数すなわち陽の数が、いかに瑞祥として考えられたか。
一月一日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日が、節句に日として祝われた。
それに対して偶数は陰の数である。
いわば、生の数にたいしての死の数なのである。
偶数性の建物は正面のない建物である。
それはいわば子孫断絶の建物である。
「死霊閉じ込め」の建物である。
正面なき建物であるとともに「出口なき建物」である。
法隆寺に偶数性の原理が支配するのは、ここに太子の霊をとじこめ、怒れる霊の鎮魂をこの寺において行おうとする意志が、いかに強いかを物語るのである。
』
『
法隆寺の塔は「現身往生の塔」といわれる。
塔は、釈迦の骨を祭るところである。
中国では塔の露盤の上に舎利が治められている場合が多い。
ところが日本人は、舎利を露盤の上より、塔の心柱の下に埋めることを好んだ。
死人の骨を天井高くあげるより、地下深くうめた方が、日本人の感覚にマッチしたからであろう。
舎利は塔の心柱の底深く埋められたのである。
発覚の舎利塔は、夢殿の屋根の上の露盤と全く同じ形であり、こういうものは法隆寺にはなはだ多く、舎利こそは、法隆寺においてもっともしばしなくりかえされるテーマなのである。
この塔の心柱のしたについても『太子伝私記』によれば
「此の塔の心柱の本には、仏舎利6粒、モトドリヒゲ6毛を納籠たり、六道の衆生を利するの相を表す」
とある。
モトドリヒゲとは、ふさふさとは得たあごひげと、きちんと結んだ髪を意味する。
このヒゲとカミは、いったい誰のものであろうか。
釈迦にヒゲやカミがあるはずない。
ヒゲやカミを剃ることは僧の生活の第一歩であるはずである。
われわれは、阿佐太子の描いたといわれる聖徳太子像を思い出す。
太子は髪を結い、頬には黒い毛がふさふさとたれている。
法隆寺の塔の心柱に埋められたヒゲやカミは、聖徳太子のものではないのか。
法隆寺のヒゲやカミが聖徳太子のものでることを確証する歴史的証拠はない。
しかし、四天王寺の塔にもまたカミが納められていて、それが太子のカミであるというはっきりとした証拠がある
<<略>>
この塔を一つの美術品として見るとき、最も大きな特徴は、塔の周囲の塑像である。
『資財帳』に、その塑像が、中門の二体の金剛力士像とともに和銅4年に出来たとあり、それが法隆寺の建造のときを確実に推測させるほとんど唯一の資料である。
『資財帳』に、
「
合塔本$面具$、(注:$辞書にない文字)
一具涅槃像 土、
一具弥勒仏像 土、
一具維摩詰像 土、
一具分舎利弗 土
」
とあるが、今でも塑像はそのとおりである。
● 北面涅槃像
● 西面弥勒仏像
● 東面維摩詰像
● 南面分舎利弗
塔の四面のこの塑像が、いかに芸術的に入念な注意をもってつくられているかがわかるが、この像の思想的意味が問題である。
その意味はなんであろうか。
この四面の塑像の表すのは、かくあった聖徳太子の姿というより、あるべき太子の姿であろう。
つまり、法隆寺の建設者が望んでいる聖徳太子の姿である。
聖徳太子よ、このようにあなたはすばらしい人生を送り、このように丁重に葬られ、このようにまちがいなく浄土に再生しましたので、どうぞ安らかに眠ってください、というわけである。
それゆへに、表面はまことに静かに聖徳太子を葬りつつ、内面に地獄の相を深く秘めているのである。
今日もなお、このような恐怖のあとを、われわれはまざまざと法隆寺の塔に見ることができる。
塔の四面の一層から四層までに、細長い四角の木の札のようなものが貼り付けてある。
それはふつう魔除けの札と考えられるが、そのような魔除けの札の例は他の塔にはない。
従来から不思議なものとされていたが、この魔除けの札こそ、法隆寺建設者の聖徳太子の霊にたいする強い恐怖を示すものであろう。
この塔は悲劇の塔である。
呪いの塔である。
この呪いの塔を、鎮めの塔に変えなければならない。
聖徳太子を祭り、太子の霊に釈迦の諦観を強要し、子孫断絶を納得させようとする。
用心深く、実に用心深く工夫された霊魂閉じ込めの計画。
しかし、その配慮にもかかわらず、まだ恐怖がこの塔を支配する。
ここに完全に聖徳太子の霊が閉じ込められたかどうか、やはり心配なのである。
祟り封じの魔除けの札には、どうか聖徳太子一家の霊よ、この等の中に心安らかにお鎮まり下さい、という必死の願いが込められているのである。
』
『
塔に関するもっとも不可思議な謎について論じなければならない。
既に述べたように、塔の高さが、「16丈」と資財帳に書かれているのに、実際の法隆寺の塔は、32.56メートル、丈に直して「10.744丈」しかないという謎である。
元禄時代に修理が行われて、前野高さよりも少し高くなったらしく、前の高さに直すと31.76メートル、丈に直して「10.484丈」であったといわれる。
とても資財帳の高さには及ばない。
現在の塔は資財帳の高さの約2/3である。
しかも、塔には、大規模に、その高さを変えた形跡はない。
一つの塔の全形の2/3にすることは、全く塔を新たに造り替えでもしない限り不可能である。
いったい、これはどうしたわけか。
資財帳の間違いであろうか。
しかし、資材帳は、「縁起」の部分はともかく、その本来の資財帳の部分は至って正確であり、建物の他の部分も正確であるのに、塔の高さに限ってのみ不正確なのである。
ここにおいて、法隆寺を支配する執拗な「偶数性の原理」を思い出す。
偶数性の原理は、正面がとれず、「子孫断絶の証」であると言われている。
そして「四の原理」は「死の原理」でもあった。
法隆寺は正にこの「偶数性の原理」、「四の原理」でできている建物であった。
今このような眼で、塔の高さを考えてみよう。
塔の高さは、「4カケル4、16丈」なのである。
16は4の二乗。
「死の死の原理」なのである。
法隆寺の建物が、偶数性の原理、死の原理によって作られている限り、この法隆寺をシンボライズする塔の高さも、二重に死の原理を含むものでなくてはならない。
その数学的シンボリズムをわれわれは笑うことが出来ない。
20世紀の現在まで、われわれは、数学的シンボリズムの呪縛を免れることは出来ないからええある。
今でも、日本の病院やホテルは「4の番号」の部屋のないところが多い。
「42番(42号室)」もないのである。
西洋の病院やホテルでは「13番」がかけている。
人間は、そういう数字の持つ無邪気な暗示に平気でいられるほど、おのれの運命に安心できない動物なのである。
まして、8世紀という時代、「死」という言葉がどんなにひとびとの心に不吉に響いたかは、計り知れない。
法隆寺においてはこの忌むべき死を示す「四」が、しきりに繰り返されるのである。
「四」は二乗されて「16」となり、16こそ塔の高さでなくてはならないということになったのであろう。
一階四間、二階四間の中門も、二重に死のイメージをもっているのである。
注].この部分はなにか強度のこじつけたように思えるが。』
【習文:目次】
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