_
● 1987/03/05[1981/04/25]
『
冷静に事実を語ろう。
私が法隆寺にかんする新しい仮説に気づいたのは、一昨年の春であった。
それは、1970年の4月のある日のことであった。
私は何げなく天平19年(747年)に書かれた法隆寺の『資財帳』を読んでいた。
そこで私は巨勢徳太(こせのとこた)が孝徳天皇に頼んで、法隆寺へ食封(へひと)300戸を給わっているのを見た。
巨勢徳太というのは、かって法隆寺をとりかこみ、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)はじめ聖徳太子一族25人を虐殺した当の本人ではないか。
その男が、どうして法隆寺に食封を寄附する必要があるのか。
日本の歴史を少しかじったものとして私は知っていた。
日本において、
多くの勝者は自らの手で葬った死者を、同じ手でうやうやしく神とまつり、その葬られた前代の支配者の霊の鎮魂こそ、次の時代の支配者の大きな政治的、宗教的課題であることを。
私はここに
日本の「神まつり」のもっとも根本的な意味があると思っていた。
もしも法隆寺に太子一族の虐殺者たちによって食封が与えられているとすれば、法隆寺もまた後世の御霊神社や、天満宮と同じように、対し一族の虐殺者たちによって建てられた鎮魂の寺ではないのか。
私はその仮説に到達したときの多摩市の興奮を忘れることができない。
私はたかぶった心を抑えて、一夜あれこれ推論をめぐらした。
法隆寺が聖徳太子一族の鎮魂のための寺であるとしたら。
この仮説をとるとき、今まで長い間謎とされてきた、私にとっても長い間謎であった法隆寺の秘密が一気にとける思いであった。
謎をとくには、もはや、ここの仏像や、建築学の問題を越えて、法隆寺一般がいかなる意味をもつかという綜合的な問いを問わねばならないが、そういう問いが今までは、全く欠如していた。
法隆寺にあるすべての仏像、すべての建築、すべての工芸を統一して、それらに意味を与えるもの、そういう全体的なもの、綜合的なものへの問いなしに、法隆寺は理解されることができないのに、今までは法隆寺は分析的・部分的にのみ研究されてきた。
そのことは法隆寺にかんする研究ばかりにあてはまるものではない。
日本の古代学の全体の欠陥なのである。
現代において、すべての学問は分業の方向をたどっている。
美術史学にしても、ある学者は彫刻のみを、ある学者は建築のみを研究する。
それによってたしかに学問は、より精密になり、より正確になるが、同時に全体的な視野を見失いやすい。
ゼーデルマイヤーのいう「中心の喪失」が現代文化の運命であろうが、そういう中心を喪失した文化の中に生き、中心の喪失した分業化された学問に慣れているわれわれは、中心が厳然として存在し、その中心によってすべてのものが統一され、すべてのものが意味を与えられていた時代の文化遺産を研究する場合にも、中心を喪失した学問によって、よく理解できると考えているのである。
すべての
文化を文化たらしめている統一的な意味を研究すること、
これこそまさに哲学に課せられた仕事なのである。
哲学的思惟の特徴は、まさに綜合性にあるが、この統合性の認識がまさにここで、日本の古代学にも必要だったわけである。
私ははっきり言いたいが、すでに驚くほど精密になった個々のジャンルの研究の成果において、法隆寺にかんする真理は解明される準備が十分ととのえられていたのである。
私がその仮説に到達した日から、私は改めて法隆寺にかんする多くの文献を読みあさり何度か現場に行って、自分の眼でそれを確かめたのである。
不思議なことに、ちょうど、磁石に金属が向こうからひっついてくるように、法隆寺にかんする多くの事実が向こうから私の仮説のまわりにひっついてきたのである。
今まで如何なる理論によっても説明出来なかった法隆寺にかんするすべての謎が、私の仮説によって、一つ一つ明瞭に説明されてくるのであった。
ここで展開された私の仮説が正しいかどうか、その判断を、私は現在および未来の読者にまかせるよりほかはないが、一般に学問において、「真理とは何であるか」を、ひとこと説明しておく必要があろう。
それは
「もっとも簡単で、もっとも明晰な前提でもって、もっとも多くの事実を説明する仮説」
と考えて差し支えないであろう。
われわれは地動説を真理として、天動説を誤謬と考えているが、それは地動説をとった方が天動説をとったときより、観察によって確かめられる天体現象が、はるかに明瞭に、はるかに簡単に説明されうるからである。
地動説が100パーセント真理であるわけではないのである。
それは今でも一つの仮説に過ぎないものであるが、その仮説によって、今まで、天動説によって説明されなかった現象が、より明瞭に、より簡単に説明される以 上は、それは、それ以上、明瞭簡単に天体現象を説明できる仮説が発見されぬ限り、その真理性のカベを維持することができるのである。
もし地動説では説明されぬ天体現象が見出され、それをより明瞭に、より簡単に説明できる理論が見つかったら、地動説は、真理性の位置を別の仮説にゆずらねければならぬであろう。
人文科学においても、ほぼ同じことがあてはまる。
私の法隆寺にかんする仮説が、たとえどんなに簡単であり、それによって、今までの理論によって説明されなかった法隆寺の謎が、どんなに明らかに説明されたとしても、それは絶対の真理性を主張するわけにはゆかないのである。
他日に、私の仮説以上に簡単であり、私の仮説以上に、明らかに法隆寺にかんする多くの謎を証明する仮説がたてられたら、私の仮説はその真理性の位置を新しい仮説に譲らなければならぬだろう。
もとより、専門の歴史家でも、仏像学者でも、建築学者でもない私は、認識の過程で若干の誤りを犯しているかもしれない。
あるいはまた、私の想像力が事実をこえて、空想の世界へ迷い込んだところも、少しはあるかもしれない。
そういう個々のミスを指摘していただくのも大いに結構であるが、願わくば、それと共に、この本の根底にある理論そのものを問題にしてほしいのである。
一旦、こういう仮説が提出されたからには、もはや、古い常識と通説へ帰ることはできないと思う。
この仮説の否定は、この仮説以上の理論的整合性をもった他の仮説の創造によってのみ可能なのである。
願わくば、私の大胆なるこの仮説が、はなはな認識が遅れていると思われる、日本の古代学の発展の刺激にならんことを。
とにかく、ここ2年半ほど私の魂を熱中させた古代にかんする認識の最初の本を、私はここに刊行スルことになった。
私の心は処女作を世に送り出す時以上の喜びと不安にふるえているのである。
1972年2月1日 梅原 猛
』
【習文:目次】
_