2010年5月29日土曜日

: アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ

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● 2009/10



 まことに屈辱的、かつ自虐的な告白をしようと思う。
 いつかどこかで誰かに懺悔 しなければならぬ罪ならば、本書こそふさわしい。
 英語がしゃべれんのである。
 もともと見栄っ張りの恥知らずであるから、いっけんペラペラのように見えるらしいが、実は丸覚えの構文に適当な単語を鷹揚しているだけで、会話には程遠い。
 ヒアリングは先方の表情と一部の単語からの推理である。

 まずいことに、洋の東西を問わず世間の人々は「小説家=文学者=語学堪能」というイメージを抱いているので、私の海外旅行はその前提のうえに進行するから恐ろしい。
 入国書類にはむろん堂々と、「NOVELIST」とか「AUTHOR」と書く。
 職業を詐称してはならぬし、そのくらいの単語は知っている。
 ところがたいてい、通関の係員はこの職業に目をとめると、私にはまったく理解不能の質問を、矢継ぎ早に浴びせかけてくる。
 「アイアム・ソーリー・アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」
 屈辱の旅は、いつもこの正確無比な英語から始まる。

 もっとも、私は小説化である前に純血の日本人オヤジであるから、英語をつかえなくとも何ら不思議はない。
 しかし、わが英語歴を考えると、この結果はまことに不思議なのである。
 私立のミッションスクールに通っていた私は、何と小学校1年生のときから、外国人教師による英語教育を施されていた。
 週に2時間か3時間、6年間をみっちり学んだ。
 おそらく小学校6年生の私は、今よりずっと上手に英語を使ったはずだ。

 義務教育で3年間、中高等学校で6年間、大卒で10年間。
 私たちはかくも長大な歳月を英語学習に捧げている。
 私の場合は大学に行かなかったが、小学校の6年間に予備校での1年間を足せば、つごう13年の長きに及ぶ。
 その結果が、
 「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」
では、まさに徒労というほかあるまい。

 こうした減少は、わが国の英語教育が伝統的な読み書きの学習に偏重していて、会話に重きを置かないからだと、という説もある。
 しかしたいていの人は、会話と同様に読み書きもできないのだから、この説はいささか説得力に欠ける。
 つまるところ、相当の時間と労力をかけて学ぶことは学ぶのだが、それぞれの学校の卒業時をピークとして、アッという間に忘れてしまうのであろう。
 いよいよ徒労という感じがする。

 教養というものの正体は、何も英語に限らずそうしたものであるから、まあいいか、とも思う。
 しかし、個人的には納得いかぬことである。
 私は1年に6回や7回は海外に出る。
 滞在日数の平均を掛けると、「1年のうち2カ月」は外国にいる。
 にもかかわらず、毎度毎度、
 「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」
とは、いったいどうしたことであろう。
 あんがいバカか、あるいは語学的才能に実は欠けているのであろうか。
 しかし、いずれの理由も、職業上けっして考えたくない。

 ところで、かくいう私はラスベガスのカジノにおいてのみ、どういうわけかペラペラと英語を話す。
 デーライーやほかのゲストたちとの間には、ゲーミング以外の話題はありえないからである。
 使用される構文と単語は一定のものであるし、感情表現やジョークも、だいたい決まっている。
 だからこの小世界での会話は、知らず知らずのうちに体で覚えてしまった。
 一日目こそ多少のとまどいはあるが、耳が慣れてくると頭の中から日本語が消えてしまう。

 ところが、いったんカジノから出てショッピングセンターやレストランにはいると、どういうわけかその英語がまったく援用されないのである。
 身ぶり手ぶりであたふたとし、あげくは、
 「アイ・ドント・アンダスタンド」
 「プリーズ・スピーク・スローリー」
を連呼する。

 このごろ思うのだが、私は英語がしゃべれないのではなく、英語をしようするフィールドに臆しているのではないだろうか。
 だから自分尾フィールドだという自覚があるカジノでは十分な会話ができ、そこを離れてしまえば言葉が出なくなってしまう。
 われわれは等しく、3年も6年も10年以上も頭を悩ませてきた英語が、根こそぎ頭の中から失われてしまうはずはあるまい。
 われわれの胸のうちにはきっとどこかに、英語を使う外国人に対する気臆れがあって、しゃべれないのではなくただ口をつぐんでしまっているのではなかろうか。
 日本人の多くが、おそらく最大の時間を費やしてきた学問が、まさか徒労であったはずがない。







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: アメリカ人と中国人

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● 2009/10



 かって小説のなかでも詳しく書いた憶えがあるのだが、アメリカ人と中国人はなぜか「他人の空似」を感じさせる。
 第一に、外国人に対してすこぶる鷹揚かつフレンドリーである。
 なんらの他意なく、ほとんど挨拶の延長で旅行者に親しく語りかけてくるのは、アメリカ人と中国人であろう。
 しかも、当方が言語を解するか否かに関係なく、勝手にしゃべり続けるところまでよく似ている。
 声が大きいのも共通している。
 彼らに言わせれば、「日本人は無口のうえに声が小さい」のだそうである。
 世界中のさまざまな民族を公平に分析してみると、やはり日本人がそうなのではなく、アメリカ人と中国人が「オシャベリなうえに、声が大きい」のではなかろうかと私は思う。

 むろん悪いことではない。
 旅行者の立場からすると、そうした国民性は居心地がよい。
 アメリカ人と中国人は、民族的にはアカの他人である。
 ではなぜ他人の空似があるのだろうか。
 たぶん原因は地理的は形態であろう。
 地図を拡げてみれば一目瞭然だが、地球上のほぼ同じ緯度に、ほぼ同じサイズで存在している。
 早い話が、国がデカければ声もデカいのである。
 私はロシアに旅したことがなく、ロシア人もよく知らないが、たぶんアメリカ人や中国人にも増して声がデカいのではなかろうか。

 他人の空似とはいっても、似て非なるところもある。
 両国民とも自己主張がはっきりしていて譲らぬから、路上の県下をしばしば見かける。
 その点は似ているのだが、非なるところは中国人の「口喧嘩」に反して、アメリカ人は「腕喧嘩」で手が早い。
 中国人の口喧嘩は壮観である。
 相手を罵る単語が豊富であり、構文的にも多岐をきわめている。
 たとえ言葉が理解不能でも、多くの語彙を駆使していることや、さまざまの表現で相手を罵倒しているのはわかる。
 さらに感心することは、この口喧嘩の壮大な応酬は、男女の性別や年齢や、明らかにヒエラルキーが異なると見受けられるご両人でも、ほとんど関係なくくり広げられることである。
 そもそも口下手がいないのか、それとも「口下手は喧嘩する資格が無い」のか、ともかく中国における路上の喧嘩は際限がなく、しまいには人垣に囲まれたリング場の様相を呈する。
 野次馬が仲裁に入らないのもまた面白い。
 つまりそのくらい中国語はすぐれた言語なのである。
 口ですむから暴力に訴える必要はないらしく、私はかって中国の路上で殴りあう喧嘩を見たためしがない。
 それを承知しているから、あえて仲裁に入る者もいないのであろう。

 一方、アメリカ人の喧嘩はすこぶる危険である。
 言葉での応酬は実に短い。
 たちまち手がでる。
 野次馬もそういう展開を読んでいるので、相当の距離をおいて観戦する。
 カジノでは、大声を聞けばガードマンが疾風怒濤のごとくあちこちから殺到し、仲裁どころか両者を押し潰して連行してしまう。
 このあたりも中国では、たとえ警官が喧嘩のかたわらを通りすがってもとりあえず野次馬に加わり、交通の妨害にでもならぬ限りは仲裁に入らない。

 さて、このように考えると、言葉はまことに大切である。
 中国人は憤懣の相当量を言語によって解消することができる。
 素晴らしい言語能力を持つ漢民族が、かって漢土を出て戦いをしたためしは、4千年の歴史のうちでもほとんどないのではなかろうか。

 言葉というもののプリミテイブな形は「読み書き」するものではない。
 「語り聞く」ことによって相互の意思を伝達い合うものである。
 本来は対面して語りかつ聞くべきである言語が、電話機の登場によって対面せずとも可能になり、さらにはコンピューターの普及によって、「対面もせず語りもせず」に意思の疎通が図れるようになった。
 言葉の今日的な退化とは、おそらく活字離れに起因しているのではなく、対面して発声することのなくなった対話の実体が、最も重大な原因なのではないかと私は思う。
 感情を制御し担保するだけの言語は失われ、その途端に人間は暴力による感情表現をなさねばならなくなる。







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: 自動販売機(ペンデイング・マシーン)

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● 2009/10



 私が物心ついたとき、自販機はすでに存在していた。
 唯一と言ってもいいであろうか、昭和30年ごろの自販機といえば、駅の出札である。
 10円玉を入れて重いハンドルをガタンと押すと、初乗り区間の切符が出手きた。
 ほどなくそのハンドルがなくなって、硬貨を入れると同時に切符が出る機械が出現したときには、これは大したものだと感動した記憶がvある。

 それからというもの、いわゆる自販機は雨後のタケノコの生えるがごとく街角のあちこちに現れ、ありとあらゆる品物を売り始めたのである。
 したがってそれらと肩を並べて成長した私には、異物感どころか幼馴染のような親しささえある。
 長い歴史の間には、あえてなんだとは言わぬが、自販機だからこそつくづく有難かったものとか、パロデイとしか思えぬ一発屋とか、存在理由がどうしても理解できぬ変わり種とか、いろいろあったのだけれど、そうしたキャラクターもまたともに育った友人と同じだった。
 いきおい若い人たちからすれば、自販機社会は既成事実であり、自然環境に等しい。
 むしろこんな便利なものが、なぜ外国には少ないのだろうと誰もが首をかしげるにちがいない。

 ところで、ふと思い返してみるに私が初めて海外に出た昭和40年代末のことだが、ホノルルのアラモアホテルのエレベーターホールには、日本のそれと同じ清涼飲料水の自販機がたしかにあった。
 缶コーラが25セントだったことも覚えているのだから、まちがいではない。
 つまりそのころには、日本製か米国製かはしらないが、少なくともハワイには自販機が導入されていた。
 しかしほどなくそれらは姿を消してしまい、このごろになってようやくあのバカでかい、それこそ中に人が入っているんじゃないかと思えるようなコーラの自販機が、世界中の都市のあちこちでちらほら見受けられるようになった。

 さて、この不可解な空白はいったいどうしたことであろうか。
 万事において合理性を追求するアメリカ人が、いったん導入した自販機文化を発展させなかった理由が、治安のよしあしばかれであるとは思えぬ。
 少なくともホテルの中に設置した自販機をあえて撤去する理由はあるまい。
 そこで私は、この便利な機械文明が日本だけ栄え、諸外国ではさほどに進展しなかった理由について考え直してみた。

 生活に必要な品物の売り買いというものは本来、両者が対面してこれを行うという常識と道徳がなければならぬ。
 もしや日本人はその世界的な常識と道徳とを無視して、単純に物とお金とを交換するという合理主義に走ったのではなかろうか。
 だとすると、香港の良識ある新聞が、
 「少子化対策のため」、あるいは
 「移民の労働を代行するため」
と規定した自販機の存在理由も、むしろ好意的な対日本人観と思える。

 たぶん私たちはめくるめく高度成長期に、アメリカの合理主義を超越してしまったのであろう。
 自販機がかくも増殖した本当の理由は、日本人の機械好きでも、日本社会の治安の良さでもなく、われわれが物の売り買いにまつわる人間のコミュニケーションすらも、不要なものだと考えた結果ではあるまいか。
 懲役52年の老侠客は、明けやらぬ路上で自販機を見つめながら、しみじみとこう呟く。

 いってえ日本はいつになったら元通りになるんでござんしょう。
 戦いに負けるってのア、切ねえもんでござんすね








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: ラスベガス

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● 2009/10



 私がラスベガスに通う目的は、一にかかって「自己喪失」である。
 そもそも旅なるものの本質はそれなのだが、旅なれぬ人はその本質を誤解して「自己確認」をしようとし、ために旅をはなはだつまらぬものにしてしまう。

 ベガスにおける自己喪失感は、すこぶる顕著かつてきめんである。
 かくやくたるモハヴェ砂漠の太陽に身を晒したとたん、自己は一滴の水のごとく揮発し、陽が落ちてブールヴァードの光の洪水に身を委ねれば、自己もしくは自己と信じていたもののすべてが、抜け殻のようにいずこともなく流れ去る。
 かくて、たとえば浅田次郎という人物は消去され、おのれはアルファベットの一文字で表記されるような、あるいはそれにすら価しない任意の一人になる。
 すなわち、この奇妙な感覚が旅の本質であり、旅人の正しい姿なのである。
 
 「旅の哲学」を語ったからには、わが身になぞらえて自説を証明する必要があろう。
 以前にも書いたが、私はかって旅先作家に憧れを抱いていた。
 心の逝くままぶらりと旅に出て、鄙びた温泉宿やリゾート地のホテルで、甘い恋物語を書き綴るのが夢であった。
 ところが、いざ小説家という職業についてみると、そうしたロマンチックな現実は許されなかった。
 人並みの幸福に浸る、ころあいのいい売れ具合というものがないのである。
 つまり、生産性はまったく自分ひとりにかかっているのである。
 不遇の時代には生活と格闘せねばならず、やがて厳冬を一気に抜けると、たちまちに膨大な仕事が小身にのしかかって身動きもできぬようになる。
 いくら忙しくなろうと、時間はなんとかなる。
 夜も眠らずに原稿を書いて、それでも物理的に到達不可能な目標など、いかに無計画な作家でも受けるはずないからである。
 これは経験上、たしかに何とかなる。

 この際の問題は肉体ではなく精神力である。
 たとえば5本尾連載小説を抱えてしまうと、そこには5つの異なったテーマが存在し、数十人の人格と彼らが後世する5つの世界がある。
 多くの読者を得心させるようなエンターテインメントに、日常の退屈な些事を書き綴ることなど許されない。
 すなわち、書くべき物語は血沸き肉躍る5つの嘘である。
 多少の宣伝を兼ねて具体的に述べると、かって『蒼穹の昴』と『プリズンホテル』は同時進行であり、『壬生義士伝』と『王妃の館』と『オー・マイ・ガアッ!』もまったく同時期の連載であった。
 もちろんそのうえに、毎月一篇か二篇の短編小説が積み重ねられ、さらに連載エッセイが加わる。
 こうなると、作家というよりむしろその精神状態は、昼の部と夜の部に喜悲劇の舞台をかけもちする役者に似ている。
 まことに重篤な多重人格障害である。

 幸い頑健な肉体が、精神を担保している今のうちはよいとしても、いずれ筋肉の衰えとともに精神が肉体を最良する年齢に至れば、自殺するか発狂するか犯罪をおかすか、それらのすべてが嫌なら廃業もしくは僧籍に入るほかなかろう。
 ところがそのとき、私の精神を支えている意外な事実に気がついた。
 月曜日の私は自己を恢復しているのである。
 つまり月曜をスタートラインとして、金曜日まで八面六臂の仕事をし、週末は朝から競馬場に行く。
 そこでいったん、5日分の多重人格とおさらばする。
 ただしくは虚構の自我を喪失して、本来の自我を獲得するのである。
 かくてこの手法の演繹により、私は週ごとの短期的自己喪失を競馬場で行い、それでも蓄積する長期的虚構は、ラスベガスの太陽の生け贄としてささげることにした。

 この喪失と恢復の方法は小説家にのみ有効なものなのであろうか。
 周囲を見渡せば現代に生きる人々は誰しも、喪失せしめねばならぬ虚構の自我を持っている。
 そしてしかるのち本来の自己を恢復せねば、実は健全に生きていくことはできぬのである。
 それが私にとってのラスベガスの効用なのである。



 



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★ つばさよつばさ:ピラミッド:浅田次郎


● 2009/10



 近ごろの学説によると、エジプトの巨大ピラミッドは王墓ではないらしい。
 今さらそんなことを言われても、誰だって子どものころから「ピラミッドはファラオの墓」と教えられてきたのだし、百科事典の記載もいまだその通りなのだから、甚だとまどう。

 正しくは「王墓ではない」とする明確な証拠があるわけではなく、「王墓である」とするには矛盾点が多いのである。
 つまりわれわれは、紀元前5世紀にギリシャのヘロドトスが『歴史』の著述でそう断定して以来、「ピラミッドはファラオの墓」と思いこみ続けてきたことになる。

 いちおうヘロドトスの名誉のために言っておくが、もし私がヘロドトスであったとしても、あの巨大なクフ王にピラミッドをひとめ見れば、疑いようもなくファラオの墓だと直感するであろう。
 多少頭を働かせたところで、ひかの存在理由は思いつかぬのだから、やはり墓だと信ずる。
 ましてや日本には、同じくらい巨大な古代天皇陵があるので連想はたやす。

 ではピラミッドが墓でないとすると、いったいなんの目的で造られたのか。
 この点の有力なる最新学説には二度驚かされる。
 「公共事業」だそうである。
 つまりナイル川の氾濫期に畑を失ってしまう農民を集めて、ひたすらピラミッド建設に従事させ、食料を給与するという失業対策事業であったというのだ。
 目的はピラミッドの完成ではなく、雇用促進にあったという。

 あまりに今日的な解釈という気がしないでもないが、よく考えてみればこの5千年に人類が進歩したと思われる点は、ひとえに科学的な分野においてのみであって、芸術やら思想やら社会制度は、進歩というよりへんせんといったほうが正しかろう。
 明らかに退行していると思われる面も少なくない。
 だとするとクフ王が失業対策に悩んだあげく、
 「なんでもいいからデカものをを造れ、ともかく雇用だ」
と、命じたとしても、ふしぎではないような気がする。
 施しが美徳とされるのは、ずっと後世になって宗教的な裏づけがなされからのことであろう。
 プリミテイヴは王権社会では、
 「働かざる者、食うべからず」
という理念があったはずである。

 もしこれらの最新学説が正しいとすると、ファラオはましてや偉大である。
 かれらの公共事業は雇用促進の目的を達成したばかりでなく、それから5千年の長きにわたってエジプトのシンボルであり続け、いまだに年間二百数十万人の観光客の招致と膨大な外貨獲得に寄与している。
 そう考えれば、もしかしたらわが国の天皇陵も中国の万里の長城も、失業者対策という目的を持っていたのかもしれない。

 今日の政治がまさか古代エジプトより劣っているとは思えぬが、人類が徐々に目的達成のダイナミズムを失ったことはたしかであろう。
 後世の人々はみな、古代ギリシャ人でさえもファラオのダイナミズムに思い及ばず、「ピラミッドはファラオの墓」としか考えつかなかったのではないだろうか。
 ヘロドトス依頼の思いこみは、言をかえれば
 「人類社会は進歩している」
という思いこみである。

 



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2010年5月27日木曜日

★ 進化するグーグル:まえがき & あとがき:林信行

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● 2009/01



 まえがき
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 小さなちがいが大きな流れの変化を生み出すことがある。
 
 グーグル以前にも、世の中みはいくらでもインターネット検索のサービスはあった。
 「キーワードを入力してボタンをクリックすると、結果一覧の表示」
 こう書くとグーグルも、それ以前の検索サービスもあまりかわらない。
 しかし、そうした機能説明では伝わらない、ちょっとした違いが大きな変化を生み出した。
 クリック後、瞬時に結果が表示される快適さや「気になる答えが必ず上位に表示される」という賢さが加わったことで、グーグル検索は
 「インターネットの探し物はほぼ確実に見つかるという実感」
を、世界中の人々に植えつけた。

 このグーグル登場後すぐに、Webではもう一つの変化が起きる。
 それまで技術を持った人と資金力のある企業しかいなかったインターネットに、まったく機械音痴という人でも簡単に世界へ情報発信できるそーしゃるメデイア(ブログ、SNSなどを含む参加型メデイア)が広がり始める。
 これらのソーシャルメデイアは、グーグルが生み出した変化に乗り、発信した情報が、それを求めている人に確実に届くように---たとえば記事ごとに独立したページを設けるなどして---検索されやすくなるように努めた。

 小さな変化が、インターネット全体を取り込んだ大きな潮流に変化し始めた。
 こうして、世界中の知恵と情報が結びつくようになると、インターンネットはさらに多くの人々に広まり、より広い目的で使われるようになる。
 このような、我々の日常まで変えうる変革をIT系出版社オライリー・メデイア社のテイム・オライリー氏は
 「Web 2.0
と呼んだ。

 もっとも、この「Web 2.0」の革命は、これまではオフィスや書斎に置かれたパソコンの前まで行ってはじめて恩恵を受けいれられるものだった。
 それがいまや、アップル社の「iPhone」や、それにつづくグーグル社の携帯電話規格「Android(アンドロイド)」によって、日々の暮らしの中のパソコンに触れていない時間にまで進出をはじめようとしている。
 グーグルは、こうした新たな時代の大きなうねりを生み出しながら、1998年のたった2人での創業から、わずか10年間で、世界のトップ科学者が集う社員数2万人以上、2007年の純利益42億ドル(約4,200億円)、時価総額1,870億ドル(約18兆7千億円)の企業に成長した。

 本書では、今の社会を語る上で無視できないまでに成長したこのグループの驚くべき影響力の大きさと、今日に至る10年の歴史、そして同社がどのように発想して、こうした世界を作ってきたかを紹介していきたい。



 あとがき
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 本を買うときに、まず「あとがき」を読んで本を選ぶ人がいる。
 じつは私のその一人。
 本書では、高度情報化社会において、ますます大きくなるグーグルの影響力と、そこに至るまでの簡単な歴史、そして未来の展望を駆け足で紹介したが、その目的は、単に
 「グーグルってすごいんだ」
と驚いてもらうことではない。

 私の願いは、本書から、これから先の日本の企業や社会、そして人々の生活を想像し、創造する何かのヒントを得てもらえれば、というところにこそある。
 「打倒グーグル」と息巻いて新製品を開発する会社は多い。
 「グーグルの支配から抜け出せ」と煽り立てるメデイアもある。
 だが本当にグーグルを超えることをしたければ、ただ製品やビジネスモデルだけを考えるのではなく、懇意地、我々を取り囲む社会、そして世界全体にもう一度、目を向けて最新のテクノロジーがこの社会・世界を良くするために何ができるかを真剣に考えなければならない。

 数年前から多くの企業が流行り言葉のようにして「CSR、CSR」と唱え、とってつけたように環境への取り組みを紹介している。
 しかし、本質的なCSR(企業の社会的責任)とは、特別な"行為"をk考えることではなく、その結果生まれる社会への責任を実感したときに、自然に生まれてくる振る舞いだと思う。
 日本では、会社に閉じこもりマジメに机にしがみついていることこそが、「仕事の美徳」と考える人が多いが、世界を根底から変えるアイデイアや商品が、グーグルの遊び心溢れた職場から生まれてくることにも何か考えさせられるものがある。 
 日本は今、本当に大事なものは何か、をもう一度見直す必要がある。
 グーグルは、それに対する答えを自慢の検索サービスでは教えてくれない。
 しかしその存在と行為を通じて、世界中にヒントを発信し続けている。

 アップルもグーグルと並んで、未来の社会構造までデザインしようと目論んでいる数少ない企業の1つだ。
 
 2008年12月









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2010年5月24日月曜日

2010年5月23日日曜日

★ 泳いで帰れ:抜粋:奥田英朗

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● 2008/07[2004/11]



 みんなに問いたい。
 どうしてそんなに海外に出かけるのか。
 言葉は通じないし、勝手はちがうし、不便なことだらけではないか。
 おまけに飛行機だって(たまには)落ちる。
 昨今はテロの不安もある。
 自分は大丈夫なんて、どうして言い切れる?

 わたしが洋行を望んだのは、せいぜい好奇心が旺盛だった30代の初めまでだ。
 あとはひたすら億劫なだけだった。
 異国から成田空港に帰還したときときのうれしさよ。
 ああ明日からはチップの心配をしなくくて済むのだね。
 英語で冷や汗をかかなくて済むのだね。
 私は嫌いの面倒臭さがり屋である。
 ヴァイタリテイーなんてものは十年前に消失した。
 行動派ではないのだ。

 じゃあどうしてわたしは旅に出るのかって?
 それはもう、行ったヤツが威張るからに決まっている。
 海外旅行の土産話は、その大半が5割増しで語られる。
 ささいな出来事が大冒険のように誇張され、一言二言、言葉を交わしただけで、さも現地人とコミュニケーションを図ったかのように吹聴される。
 現地で食べた料理は、どれも絶品もしくは珍品で、忘れられないなどと凡人が遠い目をしてのたまう。
 おたくにそんな語学力がありましたっけ?
 その料理、本当はまずかったんでしょう?
 内心そう思っていても、行かない人間には発言権がない。

 マンハッタンの夜景の美しさも、香港の路地裏の賑わいも、ゴールドコーストの海の青さも、その眼で見た人間の話はどれも悔しいくらいにわたしの関心をひく。
 だからわたしは、その都度自分の尻を叩き、渋々確かめに行く。
 みんなが行かないのなら、私の大手を振って行かない
 安心して家にいる。
 しかしみんなが行くから、書斎にこもって空を眺めている自分がだんだんバカに思えてくる。
 人生で決定的な損をしているような気になる。

 おまけに、思い切って出かけると、こんなわたしでも多少は利口になって帰ってくる。
 世界というものがおぼろげながら見えてくる。
 くやしいことに、行って損をしたと思ったことがない。
 きっと旅とはそういうものなのだろう。

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 試合(註.アテネオリンピック野球三位決定戦:対カナダ)は進み、8回裏。
 スコアは7対2.
 先頭の広島・木村拓が2塁打を放つと、続く藤本が送りバントをした。
 ははは!。
 完全に見限った。
 好きにしてくれ。
 ここに勇敢な戦士は一人もいない。
 日本の連打があって11対2になる。
 どうだっていい。
 ネット裏ではボードが掲げられた。
 《感動をありがとう。長嶋ジャパン》
 でた。
 ついに出た。
 感動をありがとう、か。
 全身の力が抜けた。
 この試合はクソだ。
 ものも言う気になれない。
 もしここに白い横断幕と筆があったら、私はこう殴り書きする。

 (全員)泳いで帰れ!
 ああ、いやだ、いやだ。
 わたしは死んでも拍手はしない。
 「よくやった」と言われて喜ぶ選手がいるとしたら、プライドの欠けらもない二流選手だ。









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2010年5月8日土曜日

★ 20世紀は人間を幸福にしたか:柳田邦男&河合隼雄


● 1998/02[1998/01]



河合隼雄:

 「A」と「Aでないもの」、そういう2つの勢力の対立という形で物事を考えることは、20世紀で終わっていく。
 「A」と「Aでないもの」の対立という考え方をすると、Aが正しかったら、Aでないものはは正しくない。
 20世紀というのは二項対立の考え方を徹底してやり抜いた。
 オンとオフを組み合わせることで、コンピュータまで作り上げることができた。
 しかし、その時代はいま、おわりつつある。
 20世紀の前は、自分が絶対に正しいのだから、自分以外のものを全部やっつけろという考えが支配的でした。
 十字軍なんか完全にそうだし、アメリカ人はフロンテイア精神で西へ西へ行ってどんどんインデイアンを放逐していった。
 しかし今は、地球全体が一つになって、自分だけが正しいから他人は正しくないという思考法は通じない時代になってきた。
 それなのに、われわれはみんな、昔の思考法を引きずっている。
 それをどう変えていくかという大変な時代にきていて、それはやっぱり21世紀の課題になるんじゃないかと思うんです。

 たとえば、一神教を額面どおりに考えたら自分の神意外に正しいものはありえない。
 だから、他の宗教と共存するなんて考えるのは絶対におかしい。
 ところが、いまは宗教が全部集まって宗教会議をやって、みんな共存しているわけです。
 旧約聖書の中に、旧約の神を信じない者と仲良くしなさいなんてどこに書いてあるのか。
 現実の方はそうなってきている。
 ところが、「共存のための理論」構成はまだできていない。
 共存しなきゃいけないんだけど、それは教義的に本当に正しいのかという問題を考えると、ものすごく難しいと思うんです。

 実際の場ではよく体験することですが、「正しいか、正しくないか」いってもしかたないんです。
 正しいことを言っても役にたたない。
 親子でもめている人に「お母さん、もう少し子どもに優しくしてください」といっても、それは正しいですけど、優しくできないから困っているんで、だから正しいことというのはだいたいあまり役にたたないのです。
 本当に役に立たつことをいうのはすごく難しいのです。

 ものがないとか、何かが足りないというのはすごく「生き易い」んです。
 目標がはっきりしているから。
 ところが、これだけいろんなものが出てくると、目に見える目標というのはそんなにはないでしょう。
 簡単なことでいえば、いっぺん腹一杯食いたいなんて、それだけでも僕らは生き甲斐を感じたんです。
 ところが、いまの子どもはそんなもの全部もらっているから、それは気の毒です。
 極端にいうと、それぞれの青年はお釈迦さんとおんなじレベルぐらいで悩まされている。
 だからものすごく大変です。

 自由度が高くなったということは面白いわけです。
 非常に面白い。
 昔の人で十五(元服)で大人になれない人は、おそらく死ぬか殺されるかしたでしょう。
 つまり、社会の決められたパターンに入れない者はとても不幸だったわけです。
 しかし、いまの世の中は可能性がすごく増えている。
 これはやっぱりいいことだし、社会的パターンにはまらない人でも面白い生き方ができる。
 ところが、その社会はパターンを作ってくれないものになってしまっているため、今度は何を為すべきかがが判らなくなった人は清国に迷いだす。
 だから自由度が高くなって幸福の可能性が高くなった分だけ、不幸の可能性も高くなっている。
 社会というものは幸福度を増した分だけ、不高度もまた増えるというのが僕の考えかたなんです。

 仏教というのは「関係性」から出発している。
 仏教では「私」というのはない。
 私はないけど、あらゆる関係性の中で私が存在しているかのごとく見える。
 そういう見方なんです。
 西洋だとまったく逆で、個人があって個との関係を見るわけです。
 仏教では関係が先行しているから、その関係が時々刻々と変わっていくなかで、自分と周囲との関係が、いまこうでもしばらくたったら別の形になるかもしれない。
 それでもすべたがずっと関係しながら動いている。
 ところが、そんな考え方をしていると自然科学は出てくるはずがない。

 欧米は近代になって、「心」と「もの」を明確に区別する思考法を確立して、はじめに「もの」の研究を発展させ、続いて「心」の研究をするようになりました。
 また、キリスト教文化を」もっている欧米では自然科学にしろ、個人主義にしろ、全部キリスト教を背景にしていて、「もの」だけを発展させるということは簡単にはできない。
 このように土壌の違う日本が、キリスト教抜きで欧米の科学技術だけをパーっと取り入れ、高度成長を果たした。
 このとき日本が成功したひとつの理由は、かえって背後の宗教とか哲学をほとんど取り入れなかったからともいえる。
 そして、欧米の考えをもらいながら日本古来の倫理観や宗教観でそれを支えようとした。

 「和魂」はあったし、今でもある。
 ただ西洋の科学とか、思考法では非常につかまえにくい概念です。
 ところが、「洋才」で入ってきた科学技術の考えものすごく強くなって、「和魂」では支えきれなくなり、いまではもう、「無きに等しい」といえる。
 おなじく、欧米においても進んだ科学技術をキリスト教が、もう「支え難く」なっています。
 
 本当にいまは大変な時代だと思います。
 自分がコミットできる宗教を見つけられる人は幸福です。
 各人が自分で宗教性を考えるなんて、こんなやっかいなことは過ってなかったことです。
 キリスト教にしろ、仏教にしろ、理屈抜きに子どもの頃から体に染みついていた一つの生き方がみんなにあったんです。
 それに対して反発してもいいんだけれども、人間にとって生き方が示されているって、おかしな言い方かもしれませんが「楽」なんです。

 「もったいない」ということは、ものがないということを前提にした躾の中核だったんです。
 日本人は日常生活と深く結びついたものを通して心を教え、宗教を教えるというようにやってきました。
 だがこれだけものが豊富になったら、そんなパターンはぜんぜん守れません。
 ましてやキリスト教のように明確な教会という存在を持った文化圏ではないんです、日本は。
 そうなると、各人に課せられる課題が大きくなります。
 とくに家族や子どもの問題がこれまでと違う意味を持ってくる。
 家族をつくって子どもを持つということは、いまは大事業ですが、昔は普通のことだったんです。
 社会や文化の体制がZすっと一定でしたから、子どもが大人になるなんてことはあるパターンを踏む限りは問題になるようなことではなかったのです。

 教育改革は親の意識が変わらないと、どんな制度を作っても難しい。
 僕の実感では世の親たちよりも、文部省の方がよほどラジカルに個性尊重を考えようとしています。
 でも、親の方が乗らないんです。






[◇]
 このタイトルは「傲慢」としかいいようがない。
 柳田邦男はいつ、歴史の裁断者なったのか。




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2010年5月4日火曜日

: 対談 幕末よもやま 司馬遼太郎




● 2005/03[1956/**]



司馬遼太郎:
 さっそくですが、私は新選組を調べていましたとき、子母澤先生の『新選組始末記』がどうしても越えられない。
 あれを最初に読みましたとき、私はまだ二十歳過ぎでしたが、非常に鮮やかな驚きを覚えました。
 これは学問の新しい方法だと思ったわけです。
 つまり植物採集とか昆虫採集とかいう、科学の方の分類学とか形態学とかいう方法を、違った分野で使ったのが民俗学、柳田国男さんとか、折口信夫さんの民俗学でございますね。
 それと同じ方法で採集して回られた。
 新選組という、いまは幻のようになっているものを、その痕跡、その他少しでも生き残っているものがあれば、一つずつ採集して回られた。
 珍しいお仕事でございますね。
 先生を前にして答えさせるのは無意味ですけれど、やはり時代的にいって、影響がございますでしょうか。
 民俗学の‥‥

子母澤寛:
 いえ、とんでもないですよ。
 わたしはただ怠け者ですからね。
 自分で勉強しないで人の話を聞いている方が気楽だから、そういう方法をとったわけですよ。

司馬:
 ですけれど、採集しただけでなくて、その選択がえらく働いております。
 そのときの驚きというのがずっとあって、それで私が新選組のことを書こうと思ったとき、これはどうしても「始末記」を離れられない。
 ですから先生のところに来て、あれをひとつ使わしていただきますと‥‥そういうことでしたのですが、そのとき伺った生き残りの碑田某、あれは面白うござんしたね。
 先生が碑田宅へ行かれていろいろ取材された。
 そうすると、老人、だんだん新選組時代に気分が戻っていって、顔つきまで変わって、その辺りを窺うような目つきで、これは秘密のことだが‥‥

子母澤:
 「貴官が‥‥」というやつ。
 「新選組の幹部」だったろうという‥‥

司馬:
 向こうもわからなくなって、次第に錯覚しだしたのですね。
 私、今日うかがおうと思っていたことが一つございますんです。
 それは何でもないことですが、先生の作品を読んでいて、先生の場合は幕臣だったおじいさんをお持ちで、どうしても幕臣だったおじいさんの気持ちとか、美意識とか、そういうものを自分が書かなくては、という悲壮感があるように思えてならないのですが、やはりございますでしょうね。

子母澤:
 それはありますね。
 それから、少年時代にじじいのあぐらの中で年寄りの繰り言の如きものを聞かされたわけです。
 それがいまだに耳についていましてね、年寄りと話すことが非常に楽しんですよ。
 この頃はこっちが年寄りになりましたからその機会もなくなったのですが、若い頃から年寄りと話す機会を自ら求めた。
 ですから、自分では、おれは年寄りと話をすることがうまいという、そういう自身を持っているんです。

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 (中央公論 昭和42年8月号)







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★ 父子鷹:あとがき:子母沢寛


● 2005/03[1956/**]



 私の仏壇には牛込の清隆寺さんからいただいた勝小吉の霊位が祀ってある。
 嘉永3年9月4日没。栄徳院殿夢酔日正居子。
 私は何となく祀らずにはいられない気持ちでもう3年程も前から祀っている。
 「箱館崩れ」で北海の寒村に没した祖父の霊位を拝し、この小吉の霊位を拝しているうちにいつの間にか私の胸の中にはこの2人がよく一緒になってしまう事がある。

 小吉には「夢酔独言(むすいどくげん)」というものがある。
 「天保14年寅歳の初冬於鶯谷庵かきつつりぬ」という。
 「おれは之までも、なんにも文字のむつかしい事はよめぬから、ここにかくにも、かなのちがひも多くあるからよくよく考えてよむべし」といって、家の者へいろいろと教訓した。
 「麟太郎のやうないい倅が出来たから、今は誠に楽隠居になった。
 もしおれがような子供が出来たならば、なかなかこの楽は出来まいと思ふ。
 これもふしぎに神仏には捨てられぬ身と思ふ。
 孫や其子はよくよく義邦(りんたろう)の通りにして子々孫々の栄えるやうに心がけるがいいぜ。」
とある。

 私はじっとこうした小吉を思っていると、それが大きな炉の前に座って何かしゃべっている口を時々こうへの字に結ぶ癖のある祖父の顔つきにまざまざとかわって来るのである。
 祖父はこの小吉の書いているのとそっくりな口調で物をいった。
 何にかというと祖母などに大きな声でがみがみとひどい悪口雑言をいうが、内心は労わりの心が深くてあたたかい人であった。
 祖母が病気でねたきりになった頃は、私の家は破産して祖父は祖母の為めに思うような事も出来なくなっていたようである。
 それがどんなに口惜しかったか。
 時々うなたれていた祖父の姿を未だにはっきり覚えている。

  *

 祖母が何にか飴菓子を食べたいが、それを買う銭がないのを知って遠慮しているのを、祖父がまた見兼ねて、ひどい吹雪の中を誰かのところへ借りに行って、菓子をふところに抱いて戻って来て枕元に座って、祖母へ一つ一つ、自分で食べさせているのを見た事がある。
 たかが菓子を買う銭である。
 ほんの僅かな物であろうが、私の家は祖母が死ぬ頃にはこの銭にも事欠いた。
 いかに落ちぶれもそんな借金をしなくてはならなかった日頃利かん気の祖父の気持ちを思うと私は泣きたくなる。
 その身の果てをどんなに悲しんだろう。
 小吉も同じような貧乏は身にしみた。
 しかし倅の勝海舟の父として後世に残っただけでも幸福である。

 彰義戦にやぶれ、箱館にやぶれ、しかも浪の荒れる小漁村に埋れて、名も無く朽ち果てた私の祖父は小吉に比べて天地の差のある不幸な生涯であった。
 小吉が麟太郎に深く謝して「神仏にすてられる身と思ふ」といったのに対し、祖父は私がまだ中学生の頃に死んだ。
 ろくな看病も出来ないため病院へ入って3日目に没した。
 この祖父に小吉のように、神仏に捨てられぬ身と、貧しい中にもその幸福を味あわせる事の出来なかったのを、私は今日もなお口惜しくて堪らない。

 小吉の祖父で、一代にして江戸に知られる大分限となった男谷検校の出生はこれまで越後小千谷(おぢや)とよりわかっていないが、いろいろな方にだんだんお話を伺ってみると、大正のはじめころ勝伯爵家が土地の新聞に一箇月余も、検校に縁ある人は名乗ってほしいと広告を出してはっきりした検校出生地を探した事があったが、遂に誰一人出なかった。
 ところが本当に居ないかというとそうではない。
 越後柏崎から三里、小千谷から五里のところに刈羽郡北条村東長島というのがある。
 ここに当主を山口さんという旧家がある。
 これが男谷検校の出た家だと、大正の中ごろに出た「刈羽郡誌」にはっきり書いてある。
 男谷検校はこの辺では米山検校といっている。
 例の三階節(さんがいぶし)の「米山さんから月があ出たあ」あれからとってつけたものだという。
 
 ところが、故郷では貧乏だったが、江戸へ出て金持になると、さあ在所の者がいろいろな縁故をたどり検校をたよって出て来るわ出て来るわ、実にこれには弱った様子だ。
 越後にはこういう唄がある。

 越後出る時あ涙が出たが、
 今じゃ越後の風も忌(い)や。

 これは男谷検校が、その田舎ものの図々しい客に閉口して自分で作った唄だという。
 嘘かも知れないが有りそうなことでもある。
 越後飢饉の時、検校は少なからぬ金を郷里に送ったといい、その報徳碑があったともいうが、今ははっきりしない。
 それにしても勝家で探した時にどうして名乗り出なかったかというと、何しろ相手が伯爵家なので、一農家が私共ですといって出て、痛くない腹を探られるのも忌やなので、沈黙していたのだと伝えられる。
 これも有りそうな話である。

 昭和38年厳冬  子母澤 寛





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