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● 1987/03/05[1981/04/25]
● 夢殿(google画像から)
● 夢殿(google画像から)
『
西院の地にある法隆寺は、養老から天平にかけて完成された寺として存在していた。
それにもかかわらず、この西院とは別に、かって対しが住んでいたとといわれる斑鳩宮の跡地に、なぜ新たに東院(夢殿)なる建物が別にたてられたのであろうか。
法隆寺のように、本建造以外に東院なる別院を同じ境内にもつ寺、2つの完成された寺院をもつ寺はほとんどない。
なぜ完成された西院建築に加えて東院なる別院がたてられたのか。
一言でいえば、聖徳太子の怨霊が再現したからである。
天平九年(737)、藤原氏にとって最大のピンチがおとずれた。
どうやら天然痘であったらしいが、疫病が九州から流行し、たちまちのうちに藤原氏の権力者の命を奪っていいた。
天平9年4月17日、不比等の第二子の房前(ふささき)が死んだ。
7月13日には藤原4兄弟の末弟、藤原麻呂が死んだ。
そして、ついに不比等の嫡男、左大臣武智麻呂も7月25日に死んだ。
そして8月5日、残った三男の宇合(うまかい)もあとを追ったのである。
疫病はたしかに流行したが、必ずしも政府の高官のすべてが死んだわけではない。
どうしてよりによって藤原氏の四兄弟の命のみを疫病は奪ったのであろうか。
残された藤原氏の縁者たちは、この突然の不幸になすところを失った。
運命は何の先ぶれもなく、権力の絶頂にあった彼らを絶望の淵におとしいれた。
残された一門の中心には光明皇后がいた。
天平7年に帰国したばかりの僧玄昉が突如として僧正になったのは、この年の8月26日である。
玄昉は、おそらくこの四兄弟の死にショックをうけた光明皇后や、宮子皇太夫人の心にしのび込んでいったのであろう。
藤原四兄弟の死と、それに続く玄昉の僧正就任と玄昉による宮子のノイローゼ治癒とはすべて法隆寺東院建造に関係していると思う。
天平10年閏7月9日、行信は律師になるが、おそらくこの律師就任は、玄昉の引きによるのであろう。
その後、行信は諸寺の検校となり、どうやら大僧都にまでなり、玄昉とともに当事の仏教界を支配するようになる。
法隆寺の夢殿建造は、もともとこの行信の力によるものである。
法隆寺の夢殿には行信の像がある。
『法隆寺東院縁起』は、この東院が、行信の願により建設されたと伝える。
行信は、このかって沼沢対しが住んでいた宮殿のあとが、今は荒れ果てて、野獣のすみかになっているのを嘆いて、ここに東院建設の願をたてたという。
たしかにその通りであろうが、東院建築の理由は、ただ、この太子の宮のあった土地が荒れ果てていたためのみではあるまい。
おそらく行信は、光明皇后にこう言ったにちがいない。
「
先年の不幸はすべて聖徳太子の祟りのせいです。
たしかに、あなたのなくなったお母さん(橘三千代)をはじめ藤原家のひとびとは、法隆寺をつくって手厚く対しを祀りました。
しかし、まだ太子の霊は慰められていないのです。
あなたのおじいさん(鎌足)が何をやったか、あなたは、お父さんやお母さんに聞いていませんか。
太子の霊の怨みは尽きないのです。
怨みの霊は、あの、用心深く作られた法隆寺を脱出して、あなたの四人のお兄さんを殺したではありませんか。
太子の生前住んでいた宮殿の跡が荒れ果てたままです。
そこに太子を祀るのです。
もう二度と太子の怨霊が出られないように、完璧なお堂をつくるのです
」
おそらく行信は、光明皇后の援助のもとに夢殿建設を計画したのであろう。
東院、かって聖徳太子が住んでいて、山背大兄皇子の事件のとき火を放った斑鳩の宮が焼け跡のまま放置されている。
そこに対し供養の寺を建てる。
これが夢殿であるが、その寺の形を八角円堂にしたのは何故であるか。
この八角円堂は、墓である。
夢殿という名は、まさに生前の聖徳太子を思わせるが、実は、八角円堂のこの建物は太子の死後に建てられたのである。
発掘の結果、この場所に昔の住居の跡が出てきたが、それは八角円堂ではなかった。
この八角円堂は、太子の死後、太子の霊を祀るために建てられたものであろう。
八角堂の中には、やはり八角の意志の壇があり、その上に、やはり八角の厨子があり、その中にあの有名な救世観音がおられるのである。
そこは太子の瞑想の場所などではなく、やはり、太子の死の場所であったらしい。
このはっかくの大きな石は、なんとなく石棺を思い出させる。
日本人はししゃの出現を恐れた。
そして、おそらく偉人の霊は死後必ず出現してくると力をもっているにちがいないと思い、大きな古墳をつくり、大きな石棺にその死体を埋めた。
永久に死者の霊魂が出てこないようにするためであろう。
おそらく当事の、最高技術が古墳の製作にどういんされたであろうが、仏教はこのような古墳の製作を禁止した。
古墳製作に向けられた建築技術が、仏寺の建築に向かったのである。
夢殿の堂内の冷え冷えするような巨大な石壇は、なんとなく巨大な石室や石室や石棺を思い出させる。
』
『
この石の壇の上に厨子があり、その中に救世観音が納まっていたのである。
この救世観音は長い間秘仏であった。
秘仏であるばかりか、その体いっぱいに白布が巻かれていた。
この白布が取り除かれ、救世観音が姿をあらわしたぼが明治17年である。
それ以前、この秘仏のお姿をみたものはほとんどなかったのではないかと思われる。
この仏は創立当時以来、秘仏であったのであろう。
この秘仏が、1200年にわたる秘密のベールをはがされたのは、明治17年の夏であった。
「
この秀美なる仏像は等身よりは少し大にして、実に明治17年の夏、余が一命の日本同僚とともに発見したところに係る。
余は日本中央政府より下付せられたる公文により、法隆寺の各倉庫各厨子の開検を要求する権能をを有したり。
八角形の夢殿の中央に閉鎖した大厨子ありて、柱のごとく天に冲したり。
法隆寺の僧は伝説を語ていわく、このうちには推古天皇の時、朝鮮より輸入したるものあり、然れども二百年前より曾て一度も開扉したことなしと。
此のごとき稀世の宝物を見るに熱心なる余は、あらゆる議論を用いて開扉を強いたり。
寺僧は、もしこれを開扉せばたちまち神罰あり、地震は全寺を毀つべしとて長く抗論したり。
しかれども我等の議論はついに勝ち、二百年間用いざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今において忘れがたし。
厨子のうちには木綿をもって鄭重に巻きたる高き物あらわれ、その上に幾世の塵埃堆積したり。
木綿を取り除くこと容易に非ず、飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、およそ五百"ヤード"の木綿を取り除きたり思うその時、最終の包皮落下し、この驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現れたり。
フェノロサ『東亜美術史網』
」
[注].500ヤードは約450メーター(約0.5km)になるのだが、果たしてそんなにあったのだろうか。
この時から救世観音は、美的鑑賞の対象となったのである。
まず恐ろしき像であり、続いて聖なる像、畏敬すべき像になったのである。
フェノロサ以来、この像は、芸術的に鑑賞されるべき日本美術史上の傑作となったのである。
救世観音というこの仏像は木彫である。
全身に金箔がぬられていて、遠くからみると金銅仏のように見えるが、実は木彫なのである。
金銅仏の如く見せた木彫の仏像といってよいかもしれない。
先に、渡しはこの救世観音を百済観音に比較した。
この2つの像はよく似ている。
あるいは同じ作者かもしれない。
しかし、決定的な違いが二つある。
一つは、救世観音の体は空洞であることである。
つまりそれは、全面からは人間に見えるが、実は人間ではない。
背や尻などが、この像には欠如しているのである。
そしてもう一つは、光背が大きな釘によって頭に直接打ち付けられていることである。
この2点に、まさに太子像である救世観音像の本質がある。
仏像を彫刻し、中を空にする。
それは技術的には一体の仏像を彫るより困難であろう。
これは故意に背後を作らなかったとしか考えられない。
いったい世界の彫刻の中で、背後を中空にしておくという像が、他にあろうか。
この像の意味をもっと深く考えさせるのは光背である。
光背が直接、太い大きなグギで、仏像の頭の真後ろに打ち付けられている。
日本ではふつう光背は百済観音のように、支え木で止められるのが常である。
重い光背を仏像に背負わせ、しかも頭の真後ろに太い釘を打ち付ける。
いったい、こともあろうに仏像の頭に真ん中に、釘をうつということがあるか。
「釘を打つ」というのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである。
仏像の頭の真後ろに太い釘が打たれている。
しかもその仏像は、救世観音という尊い名でよばれ、聖徳太子御等身の像、すなわち太子ご自身である。
いったいこのことをどう考えたらよいのであろう。
日本人の感覚からいって、最大の瀆神行為である。
それはおそるべき犯罪である。
聖なる御堂の聖なる観音に、おそるべき犯罪が行われている。
ありうべからざることである。
それがありうべからざることであるゆえに、今まで誰一人として、この釘と光背の意味について疑おうとしなかった。
しかしどうやらこの仏像の奇妙に腹をつきだした形は、あらかじめこの頭にのせられるべき重い光背を予想していたと思われる。
とすれば、この仏像は重い光背を太い釘で頭の真後ろに打ち込まれなければならない運命をもっていたのである。
なぜこの仏像が秘仏になり、なぜあのような白布でまかれ、しかも「天地変異」の寺伝によってこの秘密が保護されなくてはならなかったのか。
この聖なる御堂でこういう耐えられないことが現実に起こっていたのである。
ひとびとは、このような恐ろしい事実に全く気づかなかった。
藤原氏が作り上げた歴史に、見事にだまされていたからである。
聖なる寺のもっとも聖なる場所に、このような犯罪が行われていようとは、夢にも思われなかったのは当然である。
』
● 夢殿模型(google画像から)
【習文:目次】
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習文[2010-2012(前半)]
<<注>>「習文」は解釈であり、原文の忠実なコピーではない。
2012年4月22日日曜日
:金堂の仏たち
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● 1987/03/05[1981/04/25]
● 法隆寺金堂
● 釈迦如来像(Wikipedia画像から)
● 薬師如来像(Wikipedia画像から)
● 阿弥陀如来像(Wikipedia画像から)
『
仮説を整理しよう。
法隆寺は、太子一家の鎮魂の寺であるという仮説である。
太子一家の怨霊の鎮魂の寺。
その言葉の意味は3つの要素に分析できる。
①.聖徳太子一家という意味
②.怨霊という意味
③.鎮魂という意味
である。
金堂という空間を満たす中心的なものは、三体の本尊であろう。
右から、薬師如来、釈迦三尊、阿弥陀如来、それを四天王が取り囲む。
正面、薬師と釈迦の間に少し下がって毘沙門天が、釈迦と阿弥陀の間に吉祥天がいる。
その背後にも、同じようなところに吉祥天と地蔵菩薩がいる。
その他、この金堂には浄土の有様が描かれている壁画がある。
この金堂を構成している主役は、釈迦如来、薬師如来の二体の仏像であろう。
すべての法隆寺についての解説書はこの二体の仏像について詳しく語る。
日本におけるもっとも古い金銅仏だと考えられてきたからである。
現代のわれわれは、美術史的評価で仏の価値をきめる。
しかし、昔の人はそうではない。
もとより、この薬師如来と釈迦如来にかんしては、現在以上に大きな尊敬が払われていたが、それが推古時代に造られたからという理由によるのみではない。
薬師如来は「用明帝御等身の像」として、釈迦如来は「聖徳太子御等身の像」として、尊敬されたのである。
つまり昔の人は、この薬師仏を用命帝、釈迦如来を聖徳太子として拝んでいたのである。
「惣じて薬師は、用明天皇のために、之を営み給へり。
此れ則ち当寺の本仏なり」
と『聖徳太子伝私記』にある。
釈迦像と薬師像が、この金堂において主役を果たしていることは事実である。
しかし、この2つの仏像とはなはだよくにている西の間の阿弥陀像はどうか。
この阿弥陀如来に今の美術史家はほとんど注意を払わない。
それは、この仏像が明らかに鎌倉時代に出来たものであるためである。
その光背の銘には、承徳年間(1097--1099)に泥棒が入って仏像を盗み、須弥座がさびしく残っていたので、寛喜年間(1231)に鋳造がはじめられ、翌貞永元年の8月に供養が行われたと書かれている。
してみるとこの阿弥陀如来は1232年の作ということになる。
新しくつくられたことがはっきりしているこの仏像に、それから百年と経っていない『太子伝私記』は、次のような尊敬を払っている。
「次に西の間、須弥壇の阿弥陀三尊は、間人皇女、聖徳太子、高橋妃の御本体ゆえ、もっとも根本の尊像なり」
ここで、近代美術史家によってはほとんど問題とされていない新しくできた阿弥陀如来が
「もっとも根本の尊像なり」
とされているのである。
とすれば、われわれは阿弥陀如来を金堂の根本の尊像と考えねばならぬことになる。
阿弥陀如来を金堂の主役とすれば、いったい釈迦如来と薬師如来はどうなるのか。
金堂の釈迦三尊と薬師如来には多くの問題点がある。
一口に言えば、それらは、釈迦、薬師如来像の一般的特徴から逸脱する多くの特徴をもっている。
まず、この仏像が果たして釈迦如来とよばれ、薬師如来とやばれるべきかさえ、実は疑問なのである。
仏像の種類は、服装と印相によって決められる。
菩薩はさとりを開こうと努力している人間なのであるが、如来はすでにさとりを開いた聖者である。
大乗仏教は、その二種類の仏教者の区別を、菩薩には冠や首輪・腕輪などをつけさせるにたいし、如来には薄い僧の着物をまとわせるだけの形をとらせることによってつけている。
今、この釈迦如来と薬師如来は、明らかに宝冠や首飾りをつけていないので、如来であることは確実であるが、何如来かは明らかでない。
大乗仏教は、如来どうしのの間の区別を、「印」、すなわち「指の形」で区別をつける。
釈迦如来は、ふつう予願(よがん)・施無畏(せむい)といって、右手の掌を前にして上にあげ、左手を同じく掌を前にして下にさげる形でつくられる。
●室生寺釈迦如来像
左手の予願とは、ものを与える形であり、右手の施無畏とは、不安をなだめる手の形を示すものであろう。
薬師如来は、まさに大乗仏教のもつ現世利益の精神を代表するもので、個人の病気を治癒し、あわせて国家の安全を護る仏である。
この仏は、ふつう、その名のように薬壷をもっている。
したがって、その印も、掌を平らにしていなければならない。
多くの薬師如来は、たとえ薬壷が失われても、その手には薬壷がもたされていたことを示す何らかのしるしがある。
●薬師寺薬師如来像
しかし、この法隆寺の釈迦像と薬師像とはまったく同じ印相なのである。
薬師如来といわれる仏は、まったく薬師如来らしくないのである。
光背の銘に薬師如来とあり、そして『資財帳』にも、またこの寺の伝承にも薬師というから薬師なので、もしこのままであったら、われわれは釈迦像と言ったにちがいないのである。
印相学からみれば、この金堂には釈迦像が二体あることになる。
』
『
以上述べたように、法隆寺の金堂は、聖徳太子一家のイメージと死のイメージが満々ている。
救われぬ魂がここに充満しているのである。
この魂はどこへゆくのか。
舎利と、火炎と、刀剣でしめされる惨劇の犠牲者の魂を誰が救うのか。
ここに西方世界にましまし救い主の存在理由がある。
金堂に坐す阿弥陀仏は、先に述べたように鎌倉時代に出来たものである。
そこの前にあった仏像は盗まれたゆえに、新たにつくられたという。
この前にのっていた仏像が、はたして阿弥陀仏かどうか疑う人がある。
『資財帳』に阿弥陀仏の記載がないことと、ここに多くの小仏像があったらしいという理由で、阿弥陀仏は鎌倉時代になってはじめておかれたのではないかという人がある。
しかし、私はそうは思わない。
阿弥陀仏の存在なくして、あるいは浄土思想なくして、法隆寺は考えられないのである。
金堂には実に艶麗な壁画が描かれていて、その壁画の中でも、西面、阿弥陀浄土の画がもっとも優れていることは、多くの美術史家が認めるところである。
つまり一言でいえば、金堂には阿弥陀仏のイメージが満ちているのである。
● 阿弥陀如来壁画(Wikipediaより)
最初の阿弥陀仏がどんな仏像であったかは分からぬけれど、この法隆寺の金堂は阿弥陀仏なしには存在しえぬものなのである。
仏像は、国家鎮護の役割をすると同時に、個人の内面に働きかけるものである。
阿弥陀仏は、もっとも個人の内面に働きかける仏ではなかったか。
阿弥陀仏は、死と罪ついての形而上学的反省をひとびとに与える。
人間は死ぬ。
そして死後、定散(じょうさん)ニ善をつんだ人は極楽浄土へゆき、阿弥陀仏に救われる。
このような浄土思想が、いつ日本に入ってきたかはわからない。
日本に最初に入ってきた阿弥陀信仰は、おそらく北魏の曇鸞系のものであろうと思われる。
『書紀』における最初の阿弥陀信仰の記録は、舒明天皇12年(640)5月の頃に、前年に唐国より帰った恵隠が『無量寿経』を説いたという記事であるが、おそらく阿弥陀信仰が定着したのは孝徳朝(645--654)以後であろう。
孝徳帝のとき出来たとされる現四天王寺の本尊は阿弥陀仏であるが、特に持統帝以後から阿弥陀仏は盛んにつくられるようになる。
しかし、この時代の阿弥陀仏信仰を、平安時代の末期に流行した、この世の苦悩の世、無常の世と考え、現世を超えた浄く美しい極楽浄土に倦怠のまじった憧憬の眼を投げつつ悲しき心で阿弥陀仏の来迎を待つ、あの時代末的浄土思想と理解してはいけない。
平安末期には、阿弥陀仏は来迎印の形でつくられるが、この時代には来迎印の阿弥陀仏はほとんど作られていない。
この時代の阿弥陀仏は定印、つまり瞑想している時の姿より、説法印つまり説法している姿の阿弥陀仏が多い。
この時代の日本人は、まだ現世を享楽していた。
大伴旅人が
「今の世にし楽しくあらば来む世には無視にも鳥にもわれはなりなむ」
と歌った強烈な現世肯定の意識が、この時代の人間の精神的特徴である。
とすれば、阿弥陀仏はいかなる点においてこの時代の人間に必要であったのか。
それを一言でいえば、「死霊の恐怖からの開放」 のためであった。
自分たちが殺した人間の死霊が再びここに現れ、生きている人間に復讐を試みる。
その死霊を誰かが何処かへ連れていき、二度と地上に現れて生者の生活を邪魔しないようにして欲しい。
そういう要求を人は仏教に求める。
そして仏教側においては、そういう要求を満たすものとしての阿弥陀仏が認められはじめるのである。
古代日本人の生活を知るにつけ、彼等が死者にたいしてもっていた恐怖が、想像もできないほど大きなものであったのを知る。
それは、「死に対しての恐怖」ではなく、「死者に対する恐怖」である。
死者の霊魂が、いつ何時、生者の世界に現れて、生者の生活を乱すかもしれない。
どうか死者よ、黄泉の国にいる死者よ、静かに眠っていて欲しい。
おそらく、そういう願いを多分にこめてあの巨大古代古墳が築かれたのであろう。
あの巨大な古墳とそこに埋められる巨大な石棺が、その恐怖をわれわれにはっきり見せてくれる。
この思い石棺と大きな土山を壊して、まさか死者がこの世に現れようとは思えない。
特に偉大な人が恨みをのんで死んでいった人の霊は、よけい手厚く葬むられる必要がある。
なぜなら偉大な人間は偉大な力をもっているゆえに死後もまた偉大な力をもっていると考えられるからである。
恨みをのんで死んでいった人間の怨恨ゆえに、しばしば人間の世界に現れやすいとかんがえられるからである。
私は「古墳の大きさ」は、その人の偉大さとともに「怨恨の深さ」に正比例するのではないかと思う。
聖徳太子の霊は、そういう偉大にして、しかも、「もっとも深い怨恨をもつ霊」なのである。
この霊は、もはや巨大な古墳によって鎮められる霊ではない。
なぜなら、対し地震が日本固有の神より異国の神(仏)を信じたからである。
それゆえ太子の怨霊の出現にかんして、日本の神は無力なのである。
そこで新しい神、すなわち仏が太子の鎮魂を引き受けねばならぬ。
その仏の中でも阿弥陀仏が鎮魂の主役となる。
阿弥陀仏は、迷える霊をすべてまとめて極楽浄土へ連れていく。
死霊よ、どうぞ、阿弥陀仏の手によって極楽浄土へ’いってください。
私はこのとき、古墳時代の夜が明けた、と思う。
古墳時代において神道が果たした役割を、今や仏教が引き受けたのである。
太子の霊、このもっとも厄介な死霊を引きうけるのは、もはや古代神道ではなく、仏教なのである。
聖徳太子は、巨大な古墳に葬られるべきではなく、寺院に葬むられるべきなのである。
続々と建てられてゆく寺々とともに、古墳時代の世は完全に明けたのである。
奈良時代の人間の意識は、平安末期の人間の意識とは違っている。
極楽浄土へ行くのは、自分自身ではない。
むしろ自分の敵ども、自分や自分の先祖が自ら手をかけた犠牲者たちを極楽浄土へ無事送りとどけることによって、自分の政治的権力を安泰化しようとしたのである。
』
『
もと金堂に存在した玉虫厨子は、法隆寺そのものと同じく、推古時代(7世紀初期)のものとされてきた。
その建造様式などが、金堂や塔などの建築様式に類似しているからである。
しかし、再建論はほぼ毛一定的となり、現法隆寺の建物をどんなに早く見積もっても、天武帝(在位672--686)の頃としなければならないことになったとき、玉虫厨子の製作年代のみを推古時代におくことは無理であろう。
玉虫厨子は、その名の通り、仏壇であろう。
いったい誰を祀ったのか。
やはり山背大皇子をはじめとする聖徳太子一家をも祀ったものと思う。
山背大皇子を思わせる2つの物語を仏典から選び出して、それを両側にえがきつつ、舎利の画と塔の画を正面と背面に描いて、一族の菩提を弔うのである。
『資財帳』には
「
宮殿像弐具
一具金泥押出千仏像、
一具金泥銅像
」
とあるが、宮殿像ニ具とはこの玉虫厨子とたちばな婦人念持仏にあたるのではないかと多くの美術史家は考えるが、多分そのとおりであろう。
この玉虫厨子も、金堂や、塔と同じ目的のために作られたと思う。
』
● 西院復元図(左・塔、右・金堂)
● 金堂模型
注:写真はgoogle画像から
【習文:目次】
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● 1987/03/05[1981/04/25]
● 法隆寺金堂
● 釈迦如来像(Wikipedia画像から)
● 薬師如来像(Wikipedia画像から)
● 阿弥陀如来像(Wikipedia画像から)
『
仮説を整理しよう。
法隆寺は、太子一家の鎮魂の寺であるという仮説である。
太子一家の怨霊の鎮魂の寺。
その言葉の意味は3つの要素に分析できる。
①.聖徳太子一家という意味
②.怨霊という意味
③.鎮魂という意味
である。
金堂という空間を満たす中心的なものは、三体の本尊であろう。
右から、薬師如来、釈迦三尊、阿弥陀如来、それを四天王が取り囲む。
正面、薬師と釈迦の間に少し下がって毘沙門天が、釈迦と阿弥陀の間に吉祥天がいる。
その背後にも、同じようなところに吉祥天と地蔵菩薩がいる。
その他、この金堂には浄土の有様が描かれている壁画がある。
この金堂を構成している主役は、釈迦如来、薬師如来の二体の仏像であろう。
すべての法隆寺についての解説書はこの二体の仏像について詳しく語る。
日本におけるもっとも古い金銅仏だと考えられてきたからである。
現代のわれわれは、美術史的評価で仏の価値をきめる。
しかし、昔の人はそうではない。
もとより、この薬師如来と釈迦如来にかんしては、現在以上に大きな尊敬が払われていたが、それが推古時代に造られたからという理由によるのみではない。
薬師如来は「用明帝御等身の像」として、釈迦如来は「聖徳太子御等身の像」として、尊敬されたのである。
つまり昔の人は、この薬師仏を用命帝、釈迦如来を聖徳太子として拝んでいたのである。
「惣じて薬師は、用明天皇のために、之を営み給へり。
此れ則ち当寺の本仏なり」
と『聖徳太子伝私記』にある。
釈迦像と薬師像が、この金堂において主役を果たしていることは事実である。
しかし、この2つの仏像とはなはだよくにている西の間の阿弥陀像はどうか。
この阿弥陀如来に今の美術史家はほとんど注意を払わない。
それは、この仏像が明らかに鎌倉時代に出来たものであるためである。
その光背の銘には、承徳年間(1097--1099)に泥棒が入って仏像を盗み、須弥座がさびしく残っていたので、寛喜年間(1231)に鋳造がはじめられ、翌貞永元年の8月に供養が行われたと書かれている。
してみるとこの阿弥陀如来は1232年の作ということになる。
新しくつくられたことがはっきりしているこの仏像に、それから百年と経っていない『太子伝私記』は、次のような尊敬を払っている。
「次に西の間、須弥壇の阿弥陀三尊は、間人皇女、聖徳太子、高橋妃の御本体ゆえ、もっとも根本の尊像なり」
ここで、近代美術史家によってはほとんど問題とされていない新しくできた阿弥陀如来が
「もっとも根本の尊像なり」
とされているのである。
とすれば、われわれは阿弥陀如来を金堂の根本の尊像と考えねばならぬことになる。
阿弥陀如来を金堂の主役とすれば、いったい釈迦如来と薬師如来はどうなるのか。
金堂の釈迦三尊と薬師如来には多くの問題点がある。
一口に言えば、それらは、釈迦、薬師如来像の一般的特徴から逸脱する多くの特徴をもっている。
まず、この仏像が果たして釈迦如来とよばれ、薬師如来とやばれるべきかさえ、実は疑問なのである。
仏像の種類は、服装と印相によって決められる。
菩薩はさとりを開こうと努力している人間なのであるが、如来はすでにさとりを開いた聖者である。
大乗仏教は、その二種類の仏教者の区別を、菩薩には冠や首輪・腕輪などをつけさせるにたいし、如来には薄い僧の着物をまとわせるだけの形をとらせることによってつけている。
今、この釈迦如来と薬師如来は、明らかに宝冠や首飾りをつけていないので、如来であることは確実であるが、何如来かは明らかでない。
大乗仏教は、如来どうしのの間の区別を、「印」、すなわち「指の形」で区別をつける。
釈迦如来は、ふつう予願(よがん)・施無畏(せむい)といって、右手の掌を前にして上にあげ、左手を同じく掌を前にして下にさげる形でつくられる。
●室生寺釈迦如来像
左手の予願とは、ものを与える形であり、右手の施無畏とは、不安をなだめる手の形を示すものであろう。
薬師如来は、まさに大乗仏教のもつ現世利益の精神を代表するもので、個人の病気を治癒し、あわせて国家の安全を護る仏である。
この仏は、ふつう、その名のように薬壷をもっている。
したがって、その印も、掌を平らにしていなければならない。
多くの薬師如来は、たとえ薬壷が失われても、その手には薬壷がもたされていたことを示す何らかのしるしがある。
●薬師寺薬師如来像
しかし、この法隆寺の釈迦像と薬師像とはまったく同じ印相なのである。
薬師如来といわれる仏は、まったく薬師如来らしくないのである。
光背の銘に薬師如来とあり、そして『資財帳』にも、またこの寺の伝承にも薬師というから薬師なので、もしこのままであったら、われわれは釈迦像と言ったにちがいないのである。
印相学からみれば、この金堂には釈迦像が二体あることになる。
』
『
以上述べたように、法隆寺の金堂は、聖徳太子一家のイメージと死のイメージが満々ている。
救われぬ魂がここに充満しているのである。
この魂はどこへゆくのか。
舎利と、火炎と、刀剣でしめされる惨劇の犠牲者の魂を誰が救うのか。
ここに西方世界にましまし救い主の存在理由がある。
金堂に坐す阿弥陀仏は、先に述べたように鎌倉時代に出来たものである。
そこの前にあった仏像は盗まれたゆえに、新たにつくられたという。
この前にのっていた仏像が、はたして阿弥陀仏かどうか疑う人がある。
『資財帳』に阿弥陀仏の記載がないことと、ここに多くの小仏像があったらしいという理由で、阿弥陀仏は鎌倉時代になってはじめておかれたのではないかという人がある。
しかし、私はそうは思わない。
阿弥陀仏の存在なくして、あるいは浄土思想なくして、法隆寺は考えられないのである。
金堂には実に艶麗な壁画が描かれていて、その壁画の中でも、西面、阿弥陀浄土の画がもっとも優れていることは、多くの美術史家が認めるところである。
つまり一言でいえば、金堂には阿弥陀仏のイメージが満ちているのである。
● 阿弥陀如来壁画(Wikipediaより)
最初の阿弥陀仏がどんな仏像であったかは分からぬけれど、この法隆寺の金堂は阿弥陀仏なしには存在しえぬものなのである。
仏像は、国家鎮護の役割をすると同時に、個人の内面に働きかけるものである。
阿弥陀仏は、もっとも個人の内面に働きかける仏ではなかったか。
阿弥陀仏は、死と罪ついての形而上学的反省をひとびとに与える。
人間は死ぬ。
そして死後、定散(じょうさん)ニ善をつんだ人は極楽浄土へゆき、阿弥陀仏に救われる。
このような浄土思想が、いつ日本に入ってきたかはわからない。
日本に最初に入ってきた阿弥陀信仰は、おそらく北魏の曇鸞系のものであろうと思われる。
『書紀』における最初の阿弥陀信仰の記録は、舒明天皇12年(640)5月の頃に、前年に唐国より帰った恵隠が『無量寿経』を説いたという記事であるが、おそらく阿弥陀信仰が定着したのは孝徳朝(645--654)以後であろう。
孝徳帝のとき出来たとされる現四天王寺の本尊は阿弥陀仏であるが、特に持統帝以後から阿弥陀仏は盛んにつくられるようになる。
しかし、この時代の阿弥陀仏信仰を、平安時代の末期に流行した、この世の苦悩の世、無常の世と考え、現世を超えた浄く美しい極楽浄土に倦怠のまじった憧憬の眼を投げつつ悲しき心で阿弥陀仏の来迎を待つ、あの時代末的浄土思想と理解してはいけない。
平安末期には、阿弥陀仏は来迎印の形でつくられるが、この時代には来迎印の阿弥陀仏はほとんど作られていない。
この時代の阿弥陀仏は定印、つまり瞑想している時の姿より、説法印つまり説法している姿の阿弥陀仏が多い。
この時代の日本人は、まだ現世を享楽していた。
大伴旅人が
「今の世にし楽しくあらば来む世には無視にも鳥にもわれはなりなむ」
と歌った強烈な現世肯定の意識が、この時代の人間の精神的特徴である。
とすれば、阿弥陀仏はいかなる点においてこの時代の人間に必要であったのか。
それを一言でいえば、「死霊の恐怖からの開放」 のためであった。
自分たちが殺した人間の死霊が再びここに現れ、生きている人間に復讐を試みる。
その死霊を誰かが何処かへ連れていき、二度と地上に現れて生者の生活を邪魔しないようにして欲しい。
そういう要求を人は仏教に求める。
そして仏教側においては、そういう要求を満たすものとしての阿弥陀仏が認められはじめるのである。
古代日本人の生活を知るにつけ、彼等が死者にたいしてもっていた恐怖が、想像もできないほど大きなものであったのを知る。
それは、「死に対しての恐怖」ではなく、「死者に対する恐怖」である。
死者の霊魂が、いつ何時、生者の世界に現れて、生者の生活を乱すかもしれない。
どうか死者よ、黄泉の国にいる死者よ、静かに眠っていて欲しい。
おそらく、そういう願いを多分にこめてあの巨大古代古墳が築かれたのであろう。
あの巨大な古墳とそこに埋められる巨大な石棺が、その恐怖をわれわれにはっきり見せてくれる。
この思い石棺と大きな土山を壊して、まさか死者がこの世に現れようとは思えない。
特に偉大な人が恨みをのんで死んでいった人の霊は、よけい手厚く葬むられる必要がある。
なぜなら偉大な人間は偉大な力をもっているゆえに死後もまた偉大な力をもっていると考えられるからである。
恨みをのんで死んでいった人間の怨恨ゆえに、しばしば人間の世界に現れやすいとかんがえられるからである。
私は「古墳の大きさ」は、その人の偉大さとともに「怨恨の深さ」に正比例するのではないかと思う。
聖徳太子の霊は、そういう偉大にして、しかも、「もっとも深い怨恨をもつ霊」なのである。
この霊は、もはや巨大な古墳によって鎮められる霊ではない。
なぜなら、対し地震が日本固有の神より異国の神(仏)を信じたからである。
それゆえ太子の怨霊の出現にかんして、日本の神は無力なのである。
そこで新しい神、すなわち仏が太子の鎮魂を引き受けねばならぬ。
その仏の中でも阿弥陀仏が鎮魂の主役となる。
阿弥陀仏は、迷える霊をすべてまとめて極楽浄土へ連れていく。
死霊よ、どうぞ、阿弥陀仏の手によって極楽浄土へ’いってください。
私はこのとき、古墳時代の夜が明けた、と思う。
古墳時代において神道が果たした役割を、今や仏教が引き受けたのである。
太子の霊、このもっとも厄介な死霊を引きうけるのは、もはや古代神道ではなく、仏教なのである。
聖徳太子は、巨大な古墳に葬られるべきではなく、寺院に葬むられるべきなのである。
続々と建てられてゆく寺々とともに、古墳時代の世は完全に明けたのである。
奈良時代の人間の意識は、平安末期の人間の意識とは違っている。
極楽浄土へ行くのは、自分自身ではない。
むしろ自分の敵ども、自分や自分の先祖が自ら手をかけた犠牲者たちを極楽浄土へ無事送りとどけることによって、自分の政治的権力を安泰化しようとしたのである。
』
『
もと金堂に存在した玉虫厨子は、法隆寺そのものと同じく、推古時代(7世紀初期)のものとされてきた。
その建造様式などが、金堂や塔などの建築様式に類似しているからである。
しかし、再建論はほぼ毛一定的となり、現法隆寺の建物をどんなに早く見積もっても、天武帝(在位672--686)の頃としなければならないことになったとき、玉虫厨子の製作年代のみを推古時代におくことは無理であろう。
玉虫厨子は、その名の通り、仏壇であろう。
いったい誰を祀ったのか。
やはり山背大皇子をはじめとする聖徳太子一家をも祀ったものと思う。
山背大皇子を思わせる2つの物語を仏典から選び出して、それを両側にえがきつつ、舎利の画と塔の画を正面と背面に描いて、一族の菩提を弔うのである。
『資財帳』には
「
宮殿像弐具
一具金泥押出千仏像、
一具金泥銅像
」
とあるが、宮殿像ニ具とはこの玉虫厨子とたちばな婦人念持仏にあたるのではないかと多くの美術史家は考えるが、多分そのとおりであろう。
この玉虫厨子も、金堂や、塔と同じ目的のために作られたと思う。
』
● 西院復元図(左・塔、右・金堂)
● 金堂模型
注:写真はgoogle画像から
【習文:目次】
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2012年4月21日土曜日
:中門と塔
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● 1987/03/05[1981/04/25]
● 復元図(google画像より)
● 中門(google画像より)
● 復元図(google画像より)
● 塔(google画像より)
『
法隆寺の中門のは、真ん中に柱をもっている。
この柱のために、中門は四間となっている。
ふつう飛鳥時代の寺院は三間、後に奈良時代においては門は巨大になり五間のものが建てられる。
しかし、四間の門、偶数の門は他に存在しない。
しかし、再建当事の法隆寺において「偶数性の原理」が中門も、講堂も、金堂も、塔も、支配していたのである。
偶数性の原理は、中門の真ん中に柱におかせ、世にも不思議な四間の門を出現せしめ、講堂を六間にさせ、金堂の二階を四間にさせ、塔の再上層部をニ間にさせている。
偶数性の原理は建築学的にはたいへん不便である。
建物の真ん中に柱があることになり、正面がとりにくくなる。
特に寺院では本尊が真ん中に置けないことになる。
このような不便さにもかかわらず、法隆寺において偶数性の原理が支配的であるのは、よほど執拗に偶数性への執着があると思うが、この執着がもっともはっきり現れているのは金堂であろう。
金堂は、一階五間であり、内陣と外陣に分かち、内陣は三間である。
なぜこの非合理をあえてしたののか。
法隆寺の設計者は、できたらすべての間を偶数にしようとする意志をもっていたにちがいない。
しかしそれでは本尊は真ん中に置けない。
この偶数性の原理は何か。
先に石田茂作氏の著書『法隆寺雑記帳』から引用して、偶数間の建物の例として、次の4つの例を挙げた。
1.出雲大社の社殿
2.奈良元興寺の極楽坊
3.法隆寺金堂の上層四間
4.法隆寺五重塔の最上層、薬師寺三重塔の最上層、当麻寺東塔の最上層および中層
このうち、薬師寺を除けば、他はすべて怨霊を伴い社寺であることは注意すべきことである。
とうようにおいて奇数すなわち陽の数が、いかに瑞祥として考えられたか。
一月一日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日が、節句に日として祝われた。
それに対して偶数は陰の数である。
いわば、生の数にたいしての死の数なのである。
偶数性の建物は正面のない建物である。
それはいわば子孫断絶の建物である。
「死霊閉じ込め」の建物である。
正面なき建物であるとともに「出口なき建物」である。
法隆寺に偶数性の原理が支配するのは、ここに太子の霊をとじこめ、怒れる霊の鎮魂をこの寺において行おうとする意志が、いかに強いかを物語るのである。
』
『
法隆寺の塔は「現身往生の塔」といわれる。
塔は、釈迦の骨を祭るところである。
中国では塔の露盤の上に舎利が治められている場合が多い。
ところが日本人は、舎利を露盤の上より、塔の心柱の下に埋めることを好んだ。
死人の骨を天井高くあげるより、地下深くうめた方が、日本人の感覚にマッチしたからであろう。
舎利は塔の心柱の底深く埋められたのである。
発覚の舎利塔は、夢殿の屋根の上の露盤と全く同じ形であり、こういうものは法隆寺にはなはだ多く、舎利こそは、法隆寺においてもっともしばしなくりかえされるテーマなのである。
この塔の心柱のしたについても『太子伝私記』によれば
「此の塔の心柱の本には、仏舎利6粒、モトドリヒゲ6毛を納籠たり、六道の衆生を利するの相を表す」
とある。
モトドリヒゲとは、ふさふさとは得たあごひげと、きちんと結んだ髪を意味する。
このヒゲとカミは、いったい誰のものであろうか。
釈迦にヒゲやカミがあるはずない。
ヒゲやカミを剃ることは僧の生活の第一歩であるはずである。
われわれは、阿佐太子の描いたといわれる聖徳太子像を思い出す。
太子は髪を結い、頬には黒い毛がふさふさとたれている。
法隆寺の塔の心柱に埋められたヒゲやカミは、聖徳太子のものではないのか。
法隆寺のヒゲやカミが聖徳太子のものでることを確証する歴史的証拠はない。
しかし、四天王寺の塔にもまたカミが納められていて、それが太子のカミであるというはっきりとした証拠がある
<<略>>
この塔を一つの美術品として見るとき、最も大きな特徴は、塔の周囲の塑像である。
『資財帳』に、その塑像が、中門の二体の金剛力士像とともに和銅4年に出来たとあり、それが法隆寺の建造のときを確実に推測させるほとんど唯一の資料である。
『資財帳』に、
「
合塔本$面具$、(注:$辞書にない文字)
一具涅槃像 土、
一具弥勒仏像 土、
一具維摩詰像 土、
一具分舎利弗 土
」
とあるが、今でも塑像はそのとおりである。
● 北面涅槃像
● 西面弥勒仏像
● 東面維摩詰像
● 南面分舎利弗
塔の四面のこの塑像が、いかに芸術的に入念な注意をもってつくられているかがわかるが、この像の思想的意味が問題である。
その意味はなんであろうか。
この四面の塑像の表すのは、かくあった聖徳太子の姿というより、あるべき太子の姿であろう。
つまり、法隆寺の建設者が望んでいる聖徳太子の姿である。
聖徳太子よ、このようにあなたはすばらしい人生を送り、このように丁重に葬られ、このようにまちがいなく浄土に再生しましたので、どうぞ安らかに眠ってください、というわけである。
それゆへに、表面はまことに静かに聖徳太子を葬りつつ、内面に地獄の相を深く秘めているのである。
今日もなお、このような恐怖のあとを、われわれはまざまざと法隆寺の塔に見ることができる。
塔の四面の一層から四層までに、細長い四角の木の札のようなものが貼り付けてある。
それはふつう魔除けの札と考えられるが、そのような魔除けの札の例は他の塔にはない。
従来から不思議なものとされていたが、この魔除けの札こそ、法隆寺建設者の聖徳太子の霊にたいする強い恐怖を示すものであろう。
この塔は悲劇の塔である。
呪いの塔である。
この呪いの塔を、鎮めの塔に変えなければならない。
聖徳太子を祭り、太子の霊に釈迦の諦観を強要し、子孫断絶を納得させようとする。
用心深く、実に用心深く工夫された霊魂閉じ込めの計画。
しかし、その配慮にもかかわらず、まだ恐怖がこの塔を支配する。
ここに完全に聖徳太子の霊が閉じ込められたかどうか、やはり心配なのである。
祟り封じの魔除けの札には、どうか聖徳太子一家の霊よ、この等の中に心安らかにお鎮まり下さい、という必死の願いが込められているのである。
』
『
塔に関するもっとも不可思議な謎について論じなければならない。
既に述べたように、塔の高さが、「16丈」と資財帳に書かれているのに、実際の法隆寺の塔は、32.56メートル、丈に直して「10.744丈」しかないという謎である。
元禄時代に修理が行われて、前野高さよりも少し高くなったらしく、前の高さに直すと31.76メートル、丈に直して「10.484丈」であったといわれる。
とても資財帳の高さには及ばない。
現在の塔は資財帳の高さの約2/3である。
しかも、塔には、大規模に、その高さを変えた形跡はない。
一つの塔の全形の2/3にすることは、全く塔を新たに造り替えでもしない限り不可能である。
いったい、これはどうしたわけか。
資財帳の間違いであろうか。
しかし、資材帳は、「縁起」の部分はともかく、その本来の資財帳の部分は至って正確であり、建物の他の部分も正確であるのに、塔の高さに限ってのみ不正確なのである。
ここにおいて、法隆寺を支配する執拗な「偶数性の原理」を思い出す。
偶数性の原理は、正面がとれず、「子孫断絶の証」であると言われている。
そして「四の原理」は「死の原理」でもあった。
法隆寺は正にこの「偶数性の原理」、「四の原理」でできている建物であった。
今このような眼で、塔の高さを考えてみよう。
塔の高さは、「4カケル4、16丈」なのである。
16は4の二乗。
「死の死の原理」なのである。
法隆寺の建物が、偶数性の原理、死の原理によって作られている限り、この法隆寺をシンボライズする塔の高さも、二重に死の原理を含むものでなくてはならない。
その数学的シンボリズムをわれわれは笑うことが出来ない。
20世紀の現在まで、われわれは、数学的シンボリズムの呪縛を免れることは出来ないからええある。
今でも、日本の病院やホテルは「4の番号」の部屋のないところが多い。
「42番(42号室)」もないのである。
西洋の病院やホテルでは「13番」がかけている。
人間は、そういう数字の持つ無邪気な暗示に平気でいられるほど、おのれの運命に安心できない動物なのである。
まして、8世紀という時代、「死」という言葉がどんなにひとびとの心に不吉に響いたかは、計り知れない。
法隆寺においてはこの忌むべき死を示す「四」が、しきりに繰り返されるのである。
「四」は二乗されて「16」となり、16こそ塔の高さでなくてはならないということになったのであろう。
一階四間、二階四間の中門も、二重に死のイメージをもっているのである。
注].この部分はなにか強度のこじつけたように思えるが。』
【習文:目次】
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● 1987/03/05[1981/04/25]
● 復元図(google画像より)
● 中門(google画像より)
● 復元図(google画像より)
● 塔(google画像より)
『
法隆寺の中門のは、真ん中に柱をもっている。
この柱のために、中門は四間となっている。
ふつう飛鳥時代の寺院は三間、後に奈良時代においては門は巨大になり五間のものが建てられる。
しかし、四間の門、偶数の門は他に存在しない。
しかし、再建当事の法隆寺において「偶数性の原理」が中門も、講堂も、金堂も、塔も、支配していたのである。
偶数性の原理は、中門の真ん中に柱におかせ、世にも不思議な四間の門を出現せしめ、講堂を六間にさせ、金堂の二階を四間にさせ、塔の再上層部をニ間にさせている。
偶数性の原理は建築学的にはたいへん不便である。
建物の真ん中に柱があることになり、正面がとりにくくなる。
特に寺院では本尊が真ん中に置けないことになる。
このような不便さにもかかわらず、法隆寺において偶数性の原理が支配的であるのは、よほど執拗に偶数性への執着があると思うが、この執着がもっともはっきり現れているのは金堂であろう。
金堂は、一階五間であり、内陣と外陣に分かち、内陣は三間である。
なぜこの非合理をあえてしたののか。
法隆寺の設計者は、できたらすべての間を偶数にしようとする意志をもっていたにちがいない。
しかしそれでは本尊は真ん中に置けない。
この偶数性の原理は何か。
先に石田茂作氏の著書『法隆寺雑記帳』から引用して、偶数間の建物の例として、次の4つの例を挙げた。
1.出雲大社の社殿
2.奈良元興寺の極楽坊
3.法隆寺金堂の上層四間
4.法隆寺五重塔の最上層、薬師寺三重塔の最上層、当麻寺東塔の最上層および中層
このうち、薬師寺を除けば、他はすべて怨霊を伴い社寺であることは注意すべきことである。
とうようにおいて奇数すなわち陽の数が、いかに瑞祥として考えられたか。
一月一日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日が、節句に日として祝われた。
それに対して偶数は陰の数である。
いわば、生の数にたいしての死の数なのである。
偶数性の建物は正面のない建物である。
それはいわば子孫断絶の建物である。
「死霊閉じ込め」の建物である。
正面なき建物であるとともに「出口なき建物」である。
法隆寺に偶数性の原理が支配するのは、ここに太子の霊をとじこめ、怒れる霊の鎮魂をこの寺において行おうとする意志が、いかに強いかを物語るのである。
』
『
法隆寺の塔は「現身往生の塔」といわれる。
塔は、釈迦の骨を祭るところである。
中国では塔の露盤の上に舎利が治められている場合が多い。
ところが日本人は、舎利を露盤の上より、塔の心柱の下に埋めることを好んだ。
死人の骨を天井高くあげるより、地下深くうめた方が、日本人の感覚にマッチしたからであろう。
舎利は塔の心柱の底深く埋められたのである。
発覚の舎利塔は、夢殿の屋根の上の露盤と全く同じ形であり、こういうものは法隆寺にはなはだ多く、舎利こそは、法隆寺においてもっともしばしなくりかえされるテーマなのである。
この塔の心柱のしたについても『太子伝私記』によれば
「此の塔の心柱の本には、仏舎利6粒、モトドリヒゲ6毛を納籠たり、六道の衆生を利するの相を表す」
とある。
モトドリヒゲとは、ふさふさとは得たあごひげと、きちんと結んだ髪を意味する。
このヒゲとカミは、いったい誰のものであろうか。
釈迦にヒゲやカミがあるはずない。
ヒゲやカミを剃ることは僧の生活の第一歩であるはずである。
われわれは、阿佐太子の描いたといわれる聖徳太子像を思い出す。
太子は髪を結い、頬には黒い毛がふさふさとたれている。
法隆寺の塔の心柱に埋められたヒゲやカミは、聖徳太子のものではないのか。
法隆寺のヒゲやカミが聖徳太子のものでることを確証する歴史的証拠はない。
しかし、四天王寺の塔にもまたカミが納められていて、それが太子のカミであるというはっきりとした証拠がある
<<略>>
この塔を一つの美術品として見るとき、最も大きな特徴は、塔の周囲の塑像である。
『資財帳』に、その塑像が、中門の二体の金剛力士像とともに和銅4年に出来たとあり、それが法隆寺の建造のときを確実に推測させるほとんど唯一の資料である。
『資財帳』に、
「
合塔本$面具$、(注:$辞書にない文字)
一具涅槃像 土、
一具弥勒仏像 土、
一具維摩詰像 土、
一具分舎利弗 土
」
とあるが、今でも塑像はそのとおりである。
● 北面涅槃像
● 西面弥勒仏像
● 東面維摩詰像
● 南面分舎利弗
塔の四面のこの塑像が、いかに芸術的に入念な注意をもってつくられているかがわかるが、この像の思想的意味が問題である。
その意味はなんであろうか。
この四面の塑像の表すのは、かくあった聖徳太子の姿というより、あるべき太子の姿であろう。
つまり、法隆寺の建設者が望んでいる聖徳太子の姿である。
聖徳太子よ、このようにあなたはすばらしい人生を送り、このように丁重に葬られ、このようにまちがいなく浄土に再生しましたので、どうぞ安らかに眠ってください、というわけである。
それゆへに、表面はまことに静かに聖徳太子を葬りつつ、内面に地獄の相を深く秘めているのである。
今日もなお、このような恐怖のあとを、われわれはまざまざと法隆寺の塔に見ることができる。
塔の四面の一層から四層までに、細長い四角の木の札のようなものが貼り付けてある。
それはふつう魔除けの札と考えられるが、そのような魔除けの札の例は他の塔にはない。
従来から不思議なものとされていたが、この魔除けの札こそ、法隆寺建設者の聖徳太子の霊にたいする強い恐怖を示すものであろう。
この塔は悲劇の塔である。
呪いの塔である。
この呪いの塔を、鎮めの塔に変えなければならない。
聖徳太子を祭り、太子の霊に釈迦の諦観を強要し、子孫断絶を納得させようとする。
用心深く、実に用心深く工夫された霊魂閉じ込めの計画。
しかし、その配慮にもかかわらず、まだ恐怖がこの塔を支配する。
ここに完全に聖徳太子の霊が閉じ込められたかどうか、やはり心配なのである。
祟り封じの魔除けの札には、どうか聖徳太子一家の霊よ、この等の中に心安らかにお鎮まり下さい、という必死の願いが込められているのである。
』
『
塔に関するもっとも不可思議な謎について論じなければならない。
既に述べたように、塔の高さが、「16丈」と資財帳に書かれているのに、実際の法隆寺の塔は、32.56メートル、丈に直して「10.744丈」しかないという謎である。
元禄時代に修理が行われて、前野高さよりも少し高くなったらしく、前の高さに直すと31.76メートル、丈に直して「10.484丈」であったといわれる。
とても資財帳の高さには及ばない。
現在の塔は資財帳の高さの約2/3である。
しかも、塔には、大規模に、その高さを変えた形跡はない。
一つの塔の全形の2/3にすることは、全く塔を新たに造り替えでもしない限り不可能である。
いったい、これはどうしたわけか。
資財帳の間違いであろうか。
しかし、資材帳は、「縁起」の部分はともかく、その本来の資財帳の部分は至って正確であり、建物の他の部分も正確であるのに、塔の高さに限ってのみ不正確なのである。
ここにおいて、法隆寺を支配する執拗な「偶数性の原理」を思い出す。
偶数性の原理は、正面がとれず、「子孫断絶の証」であると言われている。
そして「四の原理」は「死の原理」でもあった。
法隆寺は正にこの「偶数性の原理」、「四の原理」でできている建物であった。
今このような眼で、塔の高さを考えてみよう。
塔の高さは、「4カケル4、16丈」なのである。
16は4の二乗。
「死の死の原理」なのである。
法隆寺の建物が、偶数性の原理、死の原理によって作られている限り、この法隆寺をシンボライズする塔の高さも、二重に死の原理を含むものでなくてはならない。
その数学的シンボリズムをわれわれは笑うことが出来ない。
20世紀の現在まで、われわれは、数学的シンボリズムの呪縛を免れることは出来ないからええある。
今でも、日本の病院やホテルは「4の番号」の部屋のないところが多い。
「42番(42号室)」もないのである。
西洋の病院やホテルでは「13番」がかけている。
人間は、そういう数字の持つ無邪気な暗示に平気でいられるほど、おのれの運命に安心できない動物なのである。
まして、8世紀という時代、「死」という言葉がどんなにひとびとの心に不吉に響いたかは、計り知れない。
法隆寺においてはこの忌むべき死を示す「四」が、しきりに繰り返されるのである。
「四」は二乗されて「16」となり、16こそ塔の高さでなくてはならないということになったのであろう。
一階四間、二階四間の中門も、二重に死のイメージをもっているのである。
注].この部分はなにか強度のこじつけたように思えるが。』
【習文:目次】
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2012年4月19日木曜日
:現代日本の美術史方法論への疑問
● 1987/03/05[1981/04/25]
『
私は現代の日本の美術史の方法論に、深い疑問をおぼえる。
たとえば、法隆寺の研究法をみるがよい。
建築は建築、彫刻は彫刻、工芸は工芸と、それぞれ部門が分けられて研究される。
分けられて研究されることは、研究を精密にするために必須の作業である。
こうして研究は精密になる。
しかし、研究が精密になればなるほど、法隆寺を観察する綜合的視点が失われてしまう。
一つの寺は、ある意味をもってそこに存在している。
この意味を与えたのは、それを作った人間の意志である。
一つの意志によって、一つの寺は統一され、そしてその寺のすべての建築、彫刻、工芸は、その意志の中で、それぞれある種の役割を果たしているのである。
一つの寺を研究するには、その寺のもつ意志を知らねばならない。
その意味を知るには、その寺を造った人間の意志を明らかにしなければならぬ。
その意志は、必ずしも宗教的意志ではない。
そこには、宗教的意志と同時に政治的意志が働いている。
宗教的意志でもあり、政治的意志でもある。
一つの形而上学的根本意志が、必ず一つの寺院や、神社や、宮殿には存在している。
そういう、いわばすべての芸術を綜合する意志によって、一つの時代の芸術は出来上がる。
そして建築も、彫刻も、絵画も、工芸も、すべてこの意志によって統一されているのである。
そしてその意志によってそれらは一つの世界を形成する。
そのようなものが、われわれの問題としている芸術には存在している。
かってギリシャのパルテノンはそのような世界であり、また中国のゴシック建築もそのような世界であり、今われわれが問題としている古代寺院もそのような世界である。
それゆえ、そういう芸術を知るには、それが建てられた根本的意志のようなものを知らねばならなぬのである。
ところが、現代の芸術学はそういう意志についてきわめて無関心である。
統一をもった世界を個々の部分に分解し、個々の部分の綿密な研究が進めば、この建築物を完全に理解したと思っている。
そこに近代芸術学の主流があり、特に日本の美術史学界にはそういう傾向が強い。
しかし、私は言いたい。
それは誤った芸術理解の方法であると。
そういう理解の方法は、もともと現代の分業化された世界から生まれた。
かっては協力して一つの世界を創っていた建築だの、絵画だの、彫刻だのが、それぞれ独立し、独自の下術の道をゆく。
これが現代芸術の方向であり、現代の美術史の方向もまた現代芸術の方向と同じであり、分業によってその理解を深かめようとしている。
あるいは、近代芸術を理解するにはこのような方法でよいかもしれない。
しかし、まだ統一的世界が失われていない時代の芸術を探るのには、このような方法は不完全である。
その上、現代の美術史にとって、すべて、観賞の対象は「もの」である。
ちょうど現代の歴史学が資料を一つの「もの」として見るように、美術史学においても一つの芸術的遺品は、その時代のある種の芸術の本質を教える一つの遺品、残った「もの」にすぎない。
しかし、私は違うと思う。
一つの芸術作品は、やはり人間の造ったものである。
そこには人間の願望や祈りが、欲望や怨恨が含まれている。
それが人間の造ったものである以上、意味をもつ。
一つの意志をもった人間精神の産物として理解する道、そういう道が唯一の正しい芸術理解の道であると思う。
分業して、精密な研究を進めるがよい。
しかし、その研究は、結局そのような寺院なら寺院の背後にある一つの人間的意志を、その寺そのものたらしめている一つの意味を見出すために手段であろう。
意味の分析が、まったく現代の日本の美術史には欠けていたと思う。
そのような方法論によって、どれだけ、法隆寺の本質が解けるのだろうか。
』
● 復元図(google画像より)
【習文:目次】
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2012年4月18日水曜日
:日本書紀・続日本紀について
● 1987/03/05[1981/04/25]
『
■権力は歴史を偽造する
まず第一の謎から解明してゆこう。
再建法隆寺がはじめて正史に登場するのは、和銅8年(715)である。
この日本書紀・続日本記を通じての法隆寺に関する沈黙は、果たして偶然であろうか、故意であろうか。
故意とすれば、何のためか。
それが第一の謎である。
この謎は、すでに半ば解かれている。
私は、山背皇子殺害の事件をめぐる推論において、書紀の性格にふれた。
『日本書紀』は必ずしも正確なる事件の叙述の書ではない。
およそいかなる歴史書といえども、単に正確なる叙述の意志のみで作られることはあるまいと私は思う。
『史記』のように個人によって歴史書が作られる場合ですら、そこに司馬遷の意識的あるいは無意識なる意志が働くことは否定しがたいと思う。
まして国家の権力者によって歴史書が作られる場合、そこに強力な政治的意志が働く。
日本書紀が藤原不比等を中心として作られたとすれば、そこに何よりも、藤原氏の意志が強く働いていることは否定できない。
古事記とともに神話において露骨に藤原氏の利益を代弁している日本書紀が、それ以外のところにおいても、自己に都合のよい歴史解釈をしているのはまず間違いない。
日本書紀は、山背大兄皇子殺害を蘇我入鹿一人の単独犯にして、入鹿殺害を、そのような犯罪への復讐と思わせようとしている。
それはまさに因果律の偽造である。
因果律の偽造によって、藤原氏は仏教勢力を自己の支配下に置こうとする。
仏教をめぐる一大陰謀の一端を、書紀自らが担いでいるのである。
つまり藤原氏は、かって仏教の保護者であった蘇我氏にかわって仏教の保護者になろうとしているのである。
そのためには、自家の祖先の藤原鎌足こそ仏教の保護者聖徳太子の子孫を惨殺した蘇我入鹿を誅伐した人物であり、聖徳太子の遺志を継いだ仏教の保護者であるという印象を与える必要がある。
聖徳太子の聖化。
そして「否定の否定の論理」により、藤原氏こそ、まさに太子の遺志を継いだ仏教の保護者であるという印象をあたえようとしたのである。
まったく奇妙なる弁証法であるが、この弁証法にわれわれは長い間だまされてきた。
中大兄皇子と鎌足を正義の復讐者のように、何か聖徳太子の味方であり、太子の遺志を受けて入鹿を殺したような錯覚に陥ってしまっていた。
この錯覚こそ、日本書紀製作の一つの目的ではなかったのか。
この弁証法はわれわれをあざむいてきたばかりでなく、鎌足の子孫までも呪縛してしまったように思われる。
それは個々の偽造であったが、その偽造された過去の歴史に、逆に彼らの子孫の未来が規定されることになったのである。
藤原不比等は、天皇が仏教を利用し、仏教信者であると見せかけることは必要であると考えても、仏教好きになってしまうこと、政治が仏教の中に飲み込まれてしまうことが、いかに危険かということをよく知っていた。
だが、ここで偽造された弁証法は、ついに真実の歴史の方向になってしまう。
藤原氏は、自己の偽造された仮面の方向に自己変革をとげ、純粋な仏教信者になってしまった。
ウソからマコトが生まれ、仮面が真実の顔になった。
■官の遺志の陰にひそむ吏の証言
「官」と「吏」は違う。
「官」は、政治家である。
それゆえ、政治的見地から事実を収拾選択する。
時に事実を偽造したりする。
だから、官の記録は信用出来ないことが多い。
しかし、「吏」は違う。
吏は、いわば事務屋である。
事務屋はただ真実を書くことのみが目的である。
だから吏の記録は信用することができる。
日本書紀は、第一に官によって書かれたものである。
官の指導者、藤原不比等の存在は否定しがたい。
その彼が歴史を偽造する。
日本書紀を貫いているものは、「偽造への遺志」である。
しかし、そればかりでは歴史は書けないのである。
歴史を書くにはやはり吏の協力が必要である。
吏は官とは違った意志を持つ。
表面上、彼らの意志は官の意志であらねばならぬ。
しかし、彼らは目立たないところで、自分の意志を示す。
彼らの誇りは、支配への意志ではない。
彼らは官のように立身出世できるわけではない。
彼らの誇りは「正確な叙述」にある。
そういう誇りをもつ彼らは、どこかで歴史の偽造にブレーキをかけている。
真実を解く鍵を、官によって命じられた歴史の叙述のなかに、ひそかに記述しておくのである。
たとえば、例の山背大兄皇子殺害のところに、古人皇子のいう言葉がある。
「鼠は穴に伏れて生き、穴を失いて死ぬ」という言葉である。
もう一つ、入鹿が殺された後に、古人皇子はおどろいて人に言う。
「韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し」と‥‥。
この韓人とは誰かについていろいろ説がある。
この言葉は謎の言葉とされている。
私は後にくわしく論じたいが、この古人皇子の言葉も、吏によって書かれた記録ではないかと思う。
古人皇子は、やがて中大兄皇子によって殺される。
まさしく死人に口なしである。
その口のない死人に、歴史の真実の破片を示す言葉を吐かせているのである。
「心ある人よ、この一片の言葉から、真実の歴史の姿を読み取ってくれ」
そういう、官によっておさえられた吏の意志のが見られると私は思う。
』
【習文:目次】
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2012年4月2日月曜日
:法隆寺の七不思議
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● 1987/03/05[1981/04/25]
『
かって、法隆寺には七不思議の伝説があった。
1.法隆寺にはキモが巣をかけない。
2.南大門の前に鯛石(たいいし)とよばれる大きな意志がある。
3.五重塔の上に鎌がささっている。
4.不思議な伏蔵(ふくぞう)がある。
5.法隆寺のカエルには片目がない。
6.夢殿の礼盤(坊さんがすわる台)の下に汗をかいている。
7.雨だれが穴をあけるべき地面に穴がない
(石田茂作著『法隆寺雑記帳』)
なにやら怪談じみた話である。
なんだかうす気味悪い話である。
そのうす気味悪い伝説の背後にあるのは、いったいなんだろうか。
石田茂作氏は、そういううす気味の悪い伝説を排除して、次のように七不思議を考えている(同『法隆寺雑記帳』)。
1.中門の柱
2.金堂・五重塔の裳階(もこし)
3.中門・講堂中軸線の食い違い
4.五重塔の四天柱礎石の火災骨
5.三伏蔵
6.五重塔心礎舎利器に舎利なし
7.若草塔の心礎
石田氏のあげる七不思議は、伝説的な七不思議よりいちじるしく科学的である。
その七不思議の中には、すでに科学的に解かれた第三の不思議のようなものもある。
しかし、不思議の性格が科学的になったとしても、まだ不思議は残る。
特に中門の柱の謎は、依然として溶けない。
(注:講堂は現在九間であるが、もとは八間であった。復元した八間の講堂の中心線は中門の中心線と一致していた)
石田氏の七不思議は、現場の学者らしい発想であるが、私は法隆寺を綜合的に見て、私なりの七不思議を考えてみよう。
①.『日本書紀』に関する疑問。
法隆寺建造に関して正史である日本書記に一言も書かれていない。
法隆寺の名前が最初に日本書紀に出てくるのは法隆寺の火災の記録である。
日本書紀あるいは続日本紀は、さまざまな秘密をもった本である。
続日本紀は古事記については一言も語らず、日本書紀にかんしては「一行」しか語らず、おそらくその頃までに完成したと思われる出雲大社についても一言も語らなかった。
あれほど立派な建物と仏像を残しながら日本書紀および続日本紀がこの建物について語らなかったのは、古事記や日本書紀が出雲大社について真実を語らなかったように、そこに何か大きな秘密が隠されているのではなかろか。
法隆寺に関して日本書紀は実にあいまいである。
そのあいまいさは故意のものか、それとも偶然のものなのであろうか。
②.このあいまいさは『法隆寺資材帳』、正確にいえば『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によって一層深化される。
『資財帳』とは、各寺院が政府に差し出っした財産目録である。
この資財帳は何よりも正確であらねばならぬ。
なぜなら寺院の財産を売り飛ばしたり盗まれたりしたら、寺院は責任を問われるからである。
ところがこの正確を旨とする資財帳が、なぜか寺院の設立にかんして、きわめてあいまいである。
③.次は建物の謎、「中門の謎」であろう。
中門の真ん中に柱があるのは全くおかしい。
④.中門を入った右側に金堂があるが、この金堂についてもわからぬことが多い
⑤.次は塔である。
資財帳には16丈と報告してあるが、実測すると10丈なにがしの高さなのである。
資財帳に現われた塔は、現実の塔より、約1.5倍も高いのである。
大幅に改造されたのであろうか。
しかし、そのような改造の痕跡はない。
⑥.夢殿を中心とする寺院、それを法隆寺では東院と名付けているが、建物は西院のみで完全な寺院形態である。
それなのに、どうして加えてもう一つ大きな伽藍をなぜ必要とするのか。
⑦.最後に、「祭り」の謎である。
以上において、私は法隆寺を、その文献ニ、その建物・彫刻四、その祭り一にわたって健闘してみた。
法隆寺がそのすべてにおいて大きな謎に包まれているのを見た。
実際、法隆寺は全くわからない寺である。
調べれば調べるほどわからなくなると、多くの学者が嘆くのも無理もない。
この謎に向かって私は挑戦したいのである。
』
『
こうしてわれわれは、法隆寺にかんする謎を解くべき、一切の用意を整え終わったのである。
いよいよ、謎そのものの解明に入らねばならない。
謎とは次の七つである。
一. 『日本書紀』、『続日本書紀』にかんする謎
ニ. 『法隆寺資材帳』にかんする謎
三. 中門にかんする謎
四. 金堂にかんする謎
五. 塔にかんする謎
六. 夢殿にかんする謎
七. 聖霊会にかんする謎
』
【習文:目次】
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● 1987/03/05[1981/04/25]
『
かって、法隆寺には七不思議の伝説があった。
1.法隆寺にはキモが巣をかけない。
2.南大門の前に鯛石(たいいし)とよばれる大きな意志がある。
3.五重塔の上に鎌がささっている。
4.不思議な伏蔵(ふくぞう)がある。
5.法隆寺のカエルには片目がない。
6.夢殿の礼盤(坊さんがすわる台)の下に汗をかいている。
7.雨だれが穴をあけるべき地面に穴がない
(石田茂作著『法隆寺雑記帳』)
なにやら怪談じみた話である。
なんだかうす気味悪い話である。
そのうす気味悪い伝説の背後にあるのは、いったいなんだろうか。
石田茂作氏は、そういううす気味の悪い伝説を排除して、次のように七不思議を考えている(同『法隆寺雑記帳』)。
1.中門の柱
2.金堂・五重塔の裳階(もこし)
3.中門・講堂中軸線の食い違い
4.五重塔の四天柱礎石の火災骨
5.三伏蔵
6.五重塔心礎舎利器に舎利なし
7.若草塔の心礎
石田氏のあげる七不思議は、伝説的な七不思議よりいちじるしく科学的である。
その七不思議の中には、すでに科学的に解かれた第三の不思議のようなものもある。
しかし、不思議の性格が科学的になったとしても、まだ不思議は残る。
特に中門の柱の謎は、依然として溶けない。
(注:講堂は現在九間であるが、もとは八間であった。復元した八間の講堂の中心線は中門の中心線と一致していた)
石田氏の七不思議は、現場の学者らしい発想であるが、私は法隆寺を綜合的に見て、私なりの七不思議を考えてみよう。
①.『日本書紀』に関する疑問。
法隆寺建造に関して正史である日本書記に一言も書かれていない。
法隆寺の名前が最初に日本書紀に出てくるのは法隆寺の火災の記録である。
日本書紀あるいは続日本紀は、さまざまな秘密をもった本である。
続日本紀は古事記については一言も語らず、日本書紀にかんしては「一行」しか語らず、おそらくその頃までに完成したと思われる出雲大社についても一言も語らなかった。
あれほど立派な建物と仏像を残しながら日本書紀および続日本紀がこの建物について語らなかったのは、古事記や日本書紀が出雲大社について真実を語らなかったように、そこに何か大きな秘密が隠されているのではなかろか。
法隆寺に関して日本書紀は実にあいまいである。
そのあいまいさは故意のものか、それとも偶然のものなのであろうか。
②.このあいまいさは『法隆寺資材帳』、正確にいえば『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によって一層深化される。
『資財帳』とは、各寺院が政府に差し出っした財産目録である。
この資財帳は何よりも正確であらねばならぬ。
なぜなら寺院の財産を売り飛ばしたり盗まれたりしたら、寺院は責任を問われるからである。
ところがこの正確を旨とする資財帳が、なぜか寺院の設立にかんして、きわめてあいまいである。
③.次は建物の謎、「中門の謎」であろう。
中門の真ん中に柱があるのは全くおかしい。
④.中門を入った右側に金堂があるが、この金堂についてもわからぬことが多い
⑤.次は塔である。
資財帳には16丈と報告してあるが、実測すると10丈なにがしの高さなのである。
資財帳に現われた塔は、現実の塔より、約1.5倍も高いのである。
大幅に改造されたのであろうか。
しかし、そのような改造の痕跡はない。
⑥.夢殿を中心とする寺院、それを法隆寺では東院と名付けているが、建物は西院のみで完全な寺院形態である。
それなのに、どうして加えてもう一つ大きな伽藍をなぜ必要とするのか。
⑦.最後に、「祭り」の謎である。
以上において、私は法隆寺を、その文献ニ、その建物・彫刻四、その祭り一にわたって健闘してみた。
法隆寺がそのすべてにおいて大きな謎に包まれているのを見た。
実際、法隆寺は全くわからない寺である。
調べれば調べるほどわからなくなると、多くの学者が嘆くのも無理もない。
この謎に向かって私は挑戦したいのである。
』
『
こうしてわれわれは、法隆寺にかんする謎を解くべき、一切の用意を整え終わったのである。
いよいよ、謎そのものの解明に入らねばならない。
謎とは次の七つである。
一. 『日本書紀』、『続日本書紀』にかんする謎
ニ. 『法隆寺資材帳』にかんする謎
三. 中門にかんする謎
四. 金堂にかんする謎
五. 塔にかんする謎
六. 夢殿にかんする謎
七. 聖霊会にかんする謎
』
【習文:目次】
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:法隆寺にかんする新しい仮説
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● 1987/03/05[1981/04/25]
『
冷静に事実を語ろう。
私が法隆寺にかんする新しい仮説に気づいたのは、一昨年の春であった。
それは、1970年の4月のある日のことであった。
私は何げなく天平19年(747年)に書かれた法隆寺の『資財帳』を読んでいた。
そこで私は巨勢徳太(こせのとこた)が孝徳天皇に頼んで、法隆寺へ食封(へひと)300戸を給わっているのを見た。
巨勢徳太というのは、かって法隆寺をとりかこみ、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)はじめ聖徳太子一族25人を虐殺した当の本人ではないか。
その男が、どうして法隆寺に食封を寄附する必要があるのか。
日本の歴史を少しかじったものとして私は知っていた。
日本において、
多くの勝者は自らの手で葬った死者を、同じ手でうやうやしく神とまつり、その葬られた前代の支配者の霊の鎮魂こそ、次の時代の支配者の大きな政治的、宗教的課題であることを。
私はここに
日本の「神まつり」のもっとも根本的な意味があると思っていた。
もしも法隆寺に太子一族の虐殺者たちによって食封が与えられているとすれば、法隆寺もまた後世の御霊神社や、天満宮と同じように、対し一族の虐殺者たちによって建てられた鎮魂の寺ではないのか。
私はその仮説に到達したときの多摩市の興奮を忘れることができない。
私はたかぶった心を抑えて、一夜あれこれ推論をめぐらした。
法隆寺が聖徳太子一族の鎮魂のための寺であるとしたら。
この仮説をとるとき、今まで長い間謎とされてきた、私にとっても長い間謎であった法隆寺の秘密が一気にとける思いであった。
謎をとくには、もはや、ここの仏像や、建築学の問題を越えて、法隆寺一般がいかなる意味をもつかという綜合的な問いを問わねばならないが、そういう問いが今までは、全く欠如していた。
法隆寺にあるすべての仏像、すべての建築、すべての工芸を統一して、それらに意味を与えるもの、そういう全体的なもの、綜合的なものへの問いなしに、法隆寺は理解されることができないのに、今までは法隆寺は分析的・部分的にのみ研究されてきた。
そのことは法隆寺にかんする研究ばかりにあてはまるものではない。
日本の古代学の全体の欠陥なのである。
現代において、すべての学問は分業の方向をたどっている。
美術史学にしても、ある学者は彫刻のみを、ある学者は建築のみを研究する。
それによってたしかに学問は、より精密になり、より正確になるが、同時に全体的な視野を見失いやすい。
ゼーデルマイヤーのいう「中心の喪失」が現代文化の運命であろうが、そういう中心を喪失した文化の中に生き、中心の喪失した分業化された学問に慣れているわれわれは、中心が厳然として存在し、その中心によってすべてのものが統一され、すべてのものが意味を与えられていた時代の文化遺産を研究する場合にも、中心を喪失した学問によって、よく理解できると考えているのである。
すべての
文化を文化たらしめている統一的な意味を研究すること、
これこそまさに哲学に課せられた仕事なのである。
哲学的思惟の特徴は、まさに綜合性にあるが、この統合性の認識がまさにここで、日本の古代学にも必要だったわけである。
私ははっきり言いたいが、すでに驚くほど精密になった個々のジャンルの研究の成果において、法隆寺にかんする真理は解明される準備が十分ととのえられていたのである。
私がその仮説に到達した日から、私は改めて法隆寺にかんする多くの文献を読みあさり何度か現場に行って、自分の眼でそれを確かめたのである。
不思議なことに、ちょうど、磁石に金属が向こうからひっついてくるように、法隆寺にかんする多くの事実が向こうから私の仮説のまわりにひっついてきたのである。
今まで如何なる理論によっても説明出来なかった法隆寺にかんするすべての謎が、私の仮説によって、一つ一つ明瞭に説明されてくるのであった。
ここで展開された私の仮説が正しいかどうか、その判断を、私は現在および未来の読者にまかせるよりほかはないが、一般に学問において、「真理とは何であるか」を、ひとこと説明しておく必要があろう。
それは
「もっとも簡単で、もっとも明晰な前提でもって、もっとも多くの事実を説明する仮説」
と考えて差し支えないであろう。
われわれは地動説を真理として、天動説を誤謬と考えているが、それは地動説をとった方が天動説をとったときより、観察によって確かめられる天体現象が、はるかに明瞭に、はるかに簡単に説明されうるからである。
地動説が100パーセント真理であるわけではないのである。
それは今でも一つの仮説に過ぎないものであるが、その仮説によって、今まで、天動説によって説明されなかった現象が、より明瞭に、より簡単に説明される以 上は、それは、それ以上、明瞭簡単に天体現象を説明できる仮説が発見されぬ限り、その真理性のカベを維持することができるのである。
もし地動説では説明されぬ天体現象が見出され、それをより明瞭に、より簡単に説明できる理論が見つかったら、地動説は、真理性の位置を別の仮説にゆずらねければならぬであろう。
人文科学においても、ほぼ同じことがあてはまる。
私の法隆寺にかんする仮説が、たとえどんなに簡単であり、それによって、今までの理論によって説明されなかった法隆寺の謎が、どんなに明らかに説明されたとしても、それは絶対の真理性を主張するわけにはゆかないのである。
他日に、私の仮説以上に簡単であり、私の仮説以上に、明らかに法隆寺にかんする多くの謎を証明する仮説がたてられたら、私の仮説はその真理性の位置を新しい仮説に譲らなければならぬだろう。
もとより、専門の歴史家でも、仏像学者でも、建築学者でもない私は、認識の過程で若干の誤りを犯しているかもしれない。
あるいはまた、私の想像力が事実をこえて、空想の世界へ迷い込んだところも、少しはあるかもしれない。
そういう個々のミスを指摘していただくのも大いに結構であるが、願わくば、それと共に、この本の根底にある理論そのものを問題にしてほしいのである。
一旦、こういう仮説が提出されたからには、もはや、古い常識と通説へ帰ることはできないと思う。
この仮説の否定は、この仮説以上の理論的整合性をもった他の仮説の創造によってのみ可能なのである。
願わくば、私の大胆なるこの仮説が、はなはな認識が遅れていると思われる、日本の古代学の発展の刺激にならんことを。
とにかく、ここ2年半ほど私の魂を熱中させた古代にかんする認識の最初の本を、私はここに刊行スルことになった。
私の心は処女作を世に送り出す時以上の喜びと不安にふるえているのである。
1972年2月1日 梅原 猛
』
【習文:目次】
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● 1987/03/05[1981/04/25]
『
冷静に事実を語ろう。
私が法隆寺にかんする新しい仮説に気づいたのは、一昨年の春であった。
それは、1970年の4月のある日のことであった。
私は何げなく天平19年(747年)に書かれた法隆寺の『資財帳』を読んでいた。
そこで私は巨勢徳太(こせのとこた)が孝徳天皇に頼んで、法隆寺へ食封(へひと)300戸を給わっているのを見た。
巨勢徳太というのは、かって法隆寺をとりかこみ、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)はじめ聖徳太子一族25人を虐殺した当の本人ではないか。
その男が、どうして法隆寺に食封を寄附する必要があるのか。
日本の歴史を少しかじったものとして私は知っていた。
日本において、
多くの勝者は自らの手で葬った死者を、同じ手でうやうやしく神とまつり、その葬られた前代の支配者の霊の鎮魂こそ、次の時代の支配者の大きな政治的、宗教的課題であることを。
私はここに
日本の「神まつり」のもっとも根本的な意味があると思っていた。
もしも法隆寺に太子一族の虐殺者たちによって食封が与えられているとすれば、法隆寺もまた後世の御霊神社や、天満宮と同じように、対し一族の虐殺者たちによって建てられた鎮魂の寺ではないのか。
私はその仮説に到達したときの多摩市の興奮を忘れることができない。
私はたかぶった心を抑えて、一夜あれこれ推論をめぐらした。
法隆寺が聖徳太子一族の鎮魂のための寺であるとしたら。
この仮説をとるとき、今まで長い間謎とされてきた、私にとっても長い間謎であった法隆寺の秘密が一気にとける思いであった。
謎をとくには、もはや、ここの仏像や、建築学の問題を越えて、法隆寺一般がいかなる意味をもつかという綜合的な問いを問わねばならないが、そういう問いが今までは、全く欠如していた。
法隆寺にあるすべての仏像、すべての建築、すべての工芸を統一して、それらに意味を与えるもの、そういう全体的なもの、綜合的なものへの問いなしに、法隆寺は理解されることができないのに、今までは法隆寺は分析的・部分的にのみ研究されてきた。
そのことは法隆寺にかんする研究ばかりにあてはまるものではない。
日本の古代学の全体の欠陥なのである。
現代において、すべての学問は分業の方向をたどっている。
美術史学にしても、ある学者は彫刻のみを、ある学者は建築のみを研究する。
それによってたしかに学問は、より精密になり、より正確になるが、同時に全体的な視野を見失いやすい。
ゼーデルマイヤーのいう「中心の喪失」が現代文化の運命であろうが、そういう中心を喪失した文化の中に生き、中心の喪失した分業化された学問に慣れているわれわれは、中心が厳然として存在し、その中心によってすべてのものが統一され、すべてのものが意味を与えられていた時代の文化遺産を研究する場合にも、中心を喪失した学問によって、よく理解できると考えているのである。
すべての
文化を文化たらしめている統一的な意味を研究すること、
これこそまさに哲学に課せられた仕事なのである。
哲学的思惟の特徴は、まさに綜合性にあるが、この統合性の認識がまさにここで、日本の古代学にも必要だったわけである。
私ははっきり言いたいが、すでに驚くほど精密になった個々のジャンルの研究の成果において、法隆寺にかんする真理は解明される準備が十分ととのえられていたのである。
私がその仮説に到達した日から、私は改めて法隆寺にかんする多くの文献を読みあさり何度か現場に行って、自分の眼でそれを確かめたのである。
不思議なことに、ちょうど、磁石に金属が向こうからひっついてくるように、法隆寺にかんする多くの事実が向こうから私の仮説のまわりにひっついてきたのである。
今まで如何なる理論によっても説明出来なかった法隆寺にかんするすべての謎が、私の仮説によって、一つ一つ明瞭に説明されてくるのであった。
ここで展開された私の仮説が正しいかどうか、その判断を、私は現在および未来の読者にまかせるよりほかはないが、一般に学問において、「真理とは何であるか」を、ひとこと説明しておく必要があろう。
それは
「もっとも簡単で、もっとも明晰な前提でもって、もっとも多くの事実を説明する仮説」
と考えて差し支えないであろう。
われわれは地動説を真理として、天動説を誤謬と考えているが、それは地動説をとった方が天動説をとったときより、観察によって確かめられる天体現象が、はるかに明瞭に、はるかに簡単に説明されうるからである。
地動説が100パーセント真理であるわけではないのである。
それは今でも一つの仮説に過ぎないものであるが、その仮説によって、今まで、天動説によって説明されなかった現象が、より明瞭に、より簡単に説明される以 上は、それは、それ以上、明瞭簡単に天体現象を説明できる仮説が発見されぬ限り、その真理性のカベを維持することができるのである。
もし地動説では説明されぬ天体現象が見出され、それをより明瞭に、より簡単に説明できる理論が見つかったら、地動説は、真理性の位置を別の仮説にゆずらねければならぬであろう。
人文科学においても、ほぼ同じことがあてはまる。
私の法隆寺にかんする仮説が、たとえどんなに簡単であり、それによって、今までの理論によって説明されなかった法隆寺の謎が、どんなに明らかに説明されたとしても、それは絶対の真理性を主張するわけにはゆかないのである。
他日に、私の仮説以上に簡単であり、私の仮説以上に、明らかに法隆寺にかんする多くの謎を証明する仮説がたてられたら、私の仮説はその真理性の位置を新しい仮説に譲らなければならぬだろう。
もとより、専門の歴史家でも、仏像学者でも、建築学者でもない私は、認識の過程で若干の誤りを犯しているかもしれない。
あるいはまた、私の想像力が事実をこえて、空想の世界へ迷い込んだところも、少しはあるかもしれない。
そういう個々のミスを指摘していただくのも大いに結構であるが、願わくば、それと共に、この本の根底にある理論そのものを問題にしてほしいのである。
一旦、こういう仮説が提出されたからには、もはや、古い常識と通説へ帰ることはできないと思う。
この仮説の否定は、この仮説以上の理論的整合性をもった他の仮説の創造によってのみ可能なのである。
願わくば、私の大胆なるこの仮説が、はなはな認識が遅れていると思われる、日本の古代学の発展の刺激にならんことを。
とにかく、ここ2年半ほど私の魂を熱中させた古代にかんする認識の最初の本を、私はここに刊行スルことになった。
私の心は処女作を世に送り出す時以上の喜びと不安にふるえているのである。
1972年2月1日 梅原 猛
』
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