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● 2001/03
『
「別冊文芸春秋」に連載していた「血脈」が完結したのは、2000年232号で、実際に書き終えて担当の樋橋優子女史に原稿を渡したのは、「(2000年)5月18日午後9時」と心覚え程度につけている日記に記している。
この日は雨で、午後から晴れたとある。
「朝4時に目が覚め、もうひと眠りしようと思ったが、血脈が気がかりで、起きて手直しにとりかかる。ラストを直して朝風呂に入り、出てからまたつづきをする。雨は降りつづき冷え込む。昼近くさすがに空腹を覚え、昨夜の味噌汁の残りに冷飯と卵を入れ、おじやにして食べる」
その後、上坂冬子さんとの対談に出かけ、腱鞘炎の治療に行ったが、突然「宮さま」が来られることになったので治療はしてもらえず、帰ってきて再び血脈を読み返して手を入れ、読めば読むほど気に入らないところが出て来そうなので芽をつむって原稿を封筒に入れた。
遠藤周作さんが「深い河」だったか「死海のほとり」だったかおぼろなのだが、とにかく大作を外国のどこかの街のホテルで書き上げた時のこと。
最後の一行を書くとペンを置いて机を離れ、窓辺へ行って夜更けの街を見下ろして感慨に浸ったという記述を何かで読んだことがある。
その時、私は彼の胸のうちに作者のほかには誰にもわからない充足感、虚脱感、解放感のようなものが湧き出てきたであろうことを想い、作者の至福とはまさにこういう時であろうと羨ましく思ったのだった。
しかしこの私は「血脈」の最後を書き上げると、アホウのようになって暫く庭を眺めているうちに何ヶ月か前に北海道から送られてきたジャガイモから芽が出ていたことを思い出し、前から気になっていたそれを何とかせねば、と立ち上がってコロッケを作った。
コロッケ15個で、芽の出たイモは完全に処理出来た。
「血脈」を12年かけて書き上げた緊張と疲れはコロッケを作ったことで拭い去られたのであった。
今から13年前になるか、14年前か、記憶は定かではない。
当時「別冊文芸春秋」の編集長だった中井勝さんから、どういう話がきっかけだったのかそれも思い出せないが、勧められて、私の一族に流れる「毒の血」を書こうという気持ちが動いた。
今は亡き親友の中山あい子は始終、
「あんたはいいよね、ヘンな親類がいっぱいいて」
小説のネタはいくらでもある、と羨んでいた。
多分そんな話でも中井さんにしたのだったかもしれない。
だが、心は動いたものの、はっきり決心したわけではなかった。
考えてみれば中山さんのいう「ヘンな親類」はあまりに多すぎる。
そればかりか考えてみれば私もその一人であることを思うと、どういう手法で書けばいいのかがわからなかった。
とつおいつしている私の所へ、中井さんからはこれでもかと言わんばかりに資料が送られて来る。
連載の期間は何年でもいい、1回の枚数も限定しないと中井さんは言ってくれる。
私は次第に「その気」になっていき、やっと書き出したのは65歳の夏である。
先はまっくら。
混沌の闇に閉ざされている。
どこまで、何に向かっていくのか、いつ終わるのか、何も分からなかった。
提灯の明りを頼りに闇をかき分けかき分け歩を進めるといったあんばいだった。
取材ノートはあるが、構成ノートなど何もない。
章が替る都度、思い浮かぶことに引っぱられて書いていた。
いつか私の60代は終り、70代にさしかかった。
小説はまだ終わらない。
その頃には書くことは(殊更に作品をモノにするといった意識ではなく)料理をしたり、風呂へ入ったりするのと同じ私の日常の中に融け込んでいた。
老いた漁師が雪の日も風の日も沖へ舟を出して魚を追うように、私の近所の豆腐屋が暑い日も寒い日も夕方になるとラッパを吹いて廻ってくるように、私は書いていた。
佐藤紅緑には、少年時代に紅緑の書く少年小説を読んで勇気と力を得たという70代、80代の読者がまだ健在で、そういう人たちから時々手紙を貰う。
またサトウハチローさんはなんて優しい純情な方でしょう、ハチローさんの詩集「おかあさん」を読むと心が洗われて涙が出てきます、という人にもよく出会う。
「血脈」はその人たちをどんなにか失望させ、憤らせることだろう。
だがそう思ったからといって、書くのをためらうという気持は起こらなかった。
それを書くことは私にとっては必然だった。
そう考えるようになっていった。
紅緑は人一倍高い理想を持ちながら、どうすることもできない情念の力に押されて、我と我が理想を踏みにじってしまう男だった。
ハチローは感じ易くセンチュメンタルで、無邪気な人間であるが、その一面、鋼鉄の冷たさと子どものエゴイズムを剥き出しにした。
若い頃の私は紅緑の小説を「造りモノ」だと批判し、ハチローの詩を「嘘つきの詩」だと軽蔑していた。
だが「血脈」を書くにつれてだんだん分かってきた。
欲望に流された紅緑も本当の紅緑なら、情熱籠めて理想を謳った紅緑も本当であることが。
ハチローのエゴイズムには無邪気でナイーブな感情が背中合わせになっていたことも。
紅緑、ハチロー、そしてその血を引く佐藤家の者たちはどうにもならぬ力で押されてまわりを苦しめつつ、自分の胸の奥に人知れず苦しい涙壷を抱えていた。
書き終わった時、私の中には、この始末に負えない血に引きずられて苦しんで死んでいった私の一族への何ともいえない辛い哀しい愛が湧き出ていた。
世間の誰もが理解しなくてもこの私だけはわかる。
我がはらからよ。
今はそういった充足感だけが私の胸の底にある。
もし中井勝さんに廻り逢わなければ、この小説は書かれずに終わっただろう。
そうなると私の我が一族への理解も届かぬままに終わっただろう。
中井さんの後。編集長は高橋一清さんに移った。
高橋さんは原稿を読むと必ず刷り出しにびっしりと完走を書き込んで送ってくれる。
その感想(実にうまい激励)を力杖に私は行く先わからぬ山路を辿った。
高橋さんから重松卓さんへ、それから明円一郎さんへと編集長が替わっていく間に私は65歳から77歳になった。
最後の3年は仕事熱心でで定評ある樋渡優子女史が担当になり、若い情熱でヨレヨレの私を引っ張ってくれた。
不精者の私に代わって取材協力者としての佐々木弘さん、向谷進さんにもどんなに助けられたことか。
小説作品は作家一人の力で生まれるものではない。
半分は伴走者としての編集者、そして取材協力者あってこそ生まれるものだと心から感謝しています。
皆さん、ありがとう。
平成13年2月 佐藤愛子
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【習文:目次】
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