2010年4月6日火曜日
★ 憲法改正大闘論:まえがき
● 2004/09
『
コンステイテーション(憲法)とは、「一緒に(コン)」「設定(スタテユート)」することである。
それが可能であるためには関係者のあいだに同意がなければならない。
しかも憲法の場合、関係者は(設定時の世代だけでなく)長期間の未来世代をも含む。
未来世代の意見も行動も一般に不確実であるにもかかわらず、一体全体、いかなる根拠で未来世代の同意を期待しうるのであろうか。
2種類の根拠しか想定できない。
一つは、未来にわたって普遍的な(国家建設にかかわる)理論が存在する、とみる革新主義の立場である。
もう一つは、過去において持続して良識の体型を堅持するなら、それは未来においても通用するはずだ、とみなす保守主義の検知である。
私はいくつもの理由から保守主義に与する者であるが、そのうちで最大の理由は、「国家」の観念そのものが保守主義的にしかとらえられない類のものだ、という点にある。
つまり国家とは「国民:ネーション」とその統治のための「家制:ステート」(あるいは政府)とのことを意味する、と解釈しなければならない。
ナショナル・ピープル(国民)は、単なるピープル(人民)とは異なって、歴史的な存在である。
慣習(ハビット)の体系を、就中、そこに内蔵されている伝統(トラデイション)の体系を、過去から継承し、未来世代に手渡す、それが国民の務めだということである。
慣習と伝統とは戴然と区別されなければならない。
「慣習とは」特定の価値へ固執によってもたらされる国民の意見・行動の「実体」である。
それに対して、「伝統とは」諸価値の葛藤において平衡を持(じ)そうとする国民精神の「形式」である。
その平衡感覚が具体的にいかなる実体として現れてくるかは、状況に依存する、つまり「時と処と場合」みよる、としか言いようがない。
こうしたものとしての伝統を遵守するというのはいうまでもなく保守的な態度である。
よって、保守主義にとっての憲法は、合理的精神によって「設計」されるものではない。
国民の歴史的良識の中から「成育」してくるものなのである。
というより、合理主義の根本的な誤謬は、
「合理のための妥当な前提は、伝統によって保証される」、
ということを理解できない点にある。
憲法に関していえば、合理主義によって革新的に設計しうるのは、たかだか(技術的な機構としての)政府についてであって、歴史的な存在としての国家についてではないのである。
こうした誤謬の最も端的な産物が日本国憲法にほかならない。
アメリカに倣って個人主義に突き進むにせよ、旧ソビエト的なものを引きずって社会民主主義に傾くにせよ、いま「個人と社会」を歴史ではなく、技術の体系の上に据え置くのが近代主義である。
そんなところに健全な「公共精神」が成育する」わけがない。
近代主義の下での公共性なるものは、要するに、多数派の意見・行動を是認することにすぎない。
伝統にもとずいて「国家を成熟させる」ことが公共性だという良識は、いまの政治勢力でいえば、公明党や共産党の少数勢力はいうにおよばず、自民党や民主党の多数勢力においても、いささかも保持されていない。
「憲法を成文化する」ことそれ自体が、理念的な模型(モデル)を追求するのが近代(モダン)だという意味において、近代主義なのである。
伝統精神に貫かれた真正の国民ならば、むしろ「不文の憲法」感覚を確認し、その明文化が具体的にどうなるかは状況に依存すると構える。
そうであればこそ、状況のなかでの「ルールに従う言論」をなによりも重んじる。
ことに因んでいえば、いま最も必要なのは改憲論ではなく、廃憲論なのかもしれない。
歴史・伝統に身をゆだねることによって国民としての自尊と自立の気持ちを持ち長らえている者なら、あちらこちらの知識人や政治家に「憲法を設計してもらいたい」などとは考えない。
自分らの家庭生活や職場生活やコミュニケーション活動のうちに、すでに憲法感覚が醸成されているのだから、「憲法の作成」などという人工的な作業は「余計なお節介」だ、とみるのが健全な国民である。
「近代主義の乗り超え」、これからの憲法論にとって必要なのはその視点なのだ。
2004年8月15日 西部邁
』
【習文:目次】
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