2010年11月30日火曜日

: モンゴル、デジタル技術の三段跳び

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● 2007/05[2003/11]



 モンゴルはイランやアラスカとほぼ同じ大きさだ。
 260万人の人口はカンザスシテイ程度である。
 国民の1/4は首都ウランバートルに住んでいて、残りの人々が広大な地域に分散していることになる。
 14世紀中頃までモンゴル人がユーラシアの大半、韓国からハンガリーまで支配していて、その100年以上も前にその地域を制服していた、とはなかなか信じられない。
 万里の長城は、騎馬民族モンゴル人の侵略を食い止めるために築かれたものだった。
 モンゴルは日本も侵略しようとしたが、台風に襲われ、船は沈み撤退した。
 以来、日本人は「カミカゼ」という言葉を使うようになった。
 マルコ・ポーロはモンゴル帝国を訪れるためにベニスを旅だったと記している。
 モンゴル人はその冬至、偉大なる騎馬民族として世界を席巻していたが、ある簡単な発明が彼らに多くの力を与えた。
 それはまだ馬が主に荷役のために使われていた時代に、アブミを使うことで、彼らは脚の速い馬を操ることができたのだ。
 そのうち誰もがその新しい技術を手に入れ、その後の変化についていけなくなったモンゴル人は、歴史のかなたへと姿を消す。

 「外モンゴル」は今ではほとんど「停滞」という言葉と同義語になっている。
 僻地、退行、未開拓といったことを想起させる。
 がしかし、モンゴルの首都ウランバートルは、
 おそらく世界最先端の技術都市
であり、高度にデジタル化されている。
 ソ連の崩壊で自由を得たモンゴルは、外国から多くの援助を受けて、
 約3世代分の技術を一気に飛び越したのだ。
 街全体に光ファイバー網が張り巡らされ、ほとんどの電話からウエブに接続できるようになっている。
 ロシアではそんなことは不可能だ。
 なにしろ電話するのも大変だ。
 ロシアでeメールを送るためには、インターネット・プロバイダーを探さなければならないのだ。
 10年間の間に世界がどれほど劇的に変わったかという一例だ。

 デジタル時代の到来が、世界を旅する者にもたらしたもう一つ重要な変化は「お金へのアクセス」である。
 ペイジと私はここまで22カ国を回っていたが、驚きだったもは、通過の問題にはほとんど悩まされなかったことだ。
 前回の旅では国境を超えるとき、入る方と出る方の両方の国で、税関の役人の目から厳禁をかくさなければならなかった。
 新しい千年紀の直前の今、ビザやマスターカード、ダイナーズ・クラブ、アメリカン・エキスプレスはどこでも使えた。

 人口の少ない広大なモンゴル中に電話線を張るのは技術的には悪夢、経済的には狂気の沙汰である。
 そこでこの国は「飛越技術:リープフロッギング・テクノロジー」を使い、直接デジタル通信にしたのだ。
 モンゴルでは誰もが携帯電話を持っている。
 この国の遊牧民は馬に乗って国を横断しながら、携帯電話を操るのだ。
 ほとんどの包(ユルト)に携帯電話がある。

 この技術の三段跳びは何世紀も歴史に衝撃を与えてきた。
 19世紀の初めのアメリカは交易ルートを開くために運河を求めていた。
 運河に恵まれなかった不運な街は直接、最新の鉄道を選んだ。
 すぐに古い運河は消滅した。
 それからインターステート高速道路網が作られ、その影響を無視した古い鉄道の街は姿を消した。
 そして、他の人たちが新しい自動車道を誘致しようとしている間に、高速道路網にとって代わるものは何かを見抜いて、そっちに飛び乗ろうとしている。





 【習文:目次】 



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