2010年5月29日土曜日

: ラスベガス

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● 2009/10



 私がラスベガスに通う目的は、一にかかって「自己喪失」である。
 そもそも旅なるものの本質はそれなのだが、旅なれぬ人はその本質を誤解して「自己確認」をしようとし、ために旅をはなはだつまらぬものにしてしまう。

 ベガスにおける自己喪失感は、すこぶる顕著かつてきめんである。
 かくやくたるモハヴェ砂漠の太陽に身を晒したとたん、自己は一滴の水のごとく揮発し、陽が落ちてブールヴァードの光の洪水に身を委ねれば、自己もしくは自己と信じていたもののすべてが、抜け殻のようにいずこともなく流れ去る。
 かくて、たとえば浅田次郎という人物は消去され、おのれはアルファベットの一文字で表記されるような、あるいはそれにすら価しない任意の一人になる。
 すなわち、この奇妙な感覚が旅の本質であり、旅人の正しい姿なのである。
 
 「旅の哲学」を語ったからには、わが身になぞらえて自説を証明する必要があろう。
 以前にも書いたが、私はかって旅先作家に憧れを抱いていた。
 心の逝くままぶらりと旅に出て、鄙びた温泉宿やリゾート地のホテルで、甘い恋物語を書き綴るのが夢であった。
 ところが、いざ小説家という職業についてみると、そうしたロマンチックな現実は許されなかった。
 人並みの幸福に浸る、ころあいのいい売れ具合というものがないのである。
 つまり、生産性はまったく自分ひとりにかかっているのである。
 不遇の時代には生活と格闘せねばならず、やがて厳冬を一気に抜けると、たちまちに膨大な仕事が小身にのしかかって身動きもできぬようになる。
 いくら忙しくなろうと、時間はなんとかなる。
 夜も眠らずに原稿を書いて、それでも物理的に到達不可能な目標など、いかに無計画な作家でも受けるはずないからである。
 これは経験上、たしかに何とかなる。

 この際の問題は肉体ではなく精神力である。
 たとえば5本尾連載小説を抱えてしまうと、そこには5つの異なったテーマが存在し、数十人の人格と彼らが後世する5つの世界がある。
 多くの読者を得心させるようなエンターテインメントに、日常の退屈な些事を書き綴ることなど許されない。
 すなわち、書くべき物語は血沸き肉躍る5つの嘘である。
 多少の宣伝を兼ねて具体的に述べると、かって『蒼穹の昴』と『プリズンホテル』は同時進行であり、『壬生義士伝』と『王妃の館』と『オー・マイ・ガアッ!』もまったく同時期の連載であった。
 もちろんそのうえに、毎月一篇か二篇の短編小説が積み重ねられ、さらに連載エッセイが加わる。
 こうなると、作家というよりむしろその精神状態は、昼の部と夜の部に喜悲劇の舞台をかけもちする役者に似ている。
 まことに重篤な多重人格障害である。

 幸い頑健な肉体が、精神を担保している今のうちはよいとしても、いずれ筋肉の衰えとともに精神が肉体を最良する年齢に至れば、自殺するか発狂するか犯罪をおかすか、それらのすべてが嫌なら廃業もしくは僧籍に入るほかなかろう。
 ところがそのとき、私の精神を支えている意外な事実に気がついた。
 月曜日の私は自己を恢復しているのである。
 つまり月曜をスタートラインとして、金曜日まで八面六臂の仕事をし、週末は朝から競馬場に行く。
 そこでいったん、5日分の多重人格とおさらばする。
 ただしくは虚構の自我を喪失して、本来の自我を獲得するのである。
 かくてこの手法の演繹により、私は週ごとの短期的自己喪失を競馬場で行い、それでも蓄積する長期的虚構は、ラスベガスの太陽の生け贄としてささげることにした。

 この喪失と恢復の方法は小説家にのみ有効なものなのであろうか。
 周囲を見渡せば現代に生きる人々は誰しも、喪失せしめねばならぬ虚構の自我を持っている。
 そしてしかるのち本来の自己を恢復せねば、実は健全に生きていくことはできぬのである。
 それが私にとってのラスベガスの効用なのである。



 



 【習文:目次】 



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