2010年5月8日土曜日

★ 20世紀は人間を幸福にしたか:柳田邦男&河合隼雄


● 1998/02[1998/01]



河合隼雄:

 「A」と「Aでないもの」、そういう2つの勢力の対立という形で物事を考えることは、20世紀で終わっていく。
 「A」と「Aでないもの」の対立という考え方をすると、Aが正しかったら、Aでないものはは正しくない。
 20世紀というのは二項対立の考え方を徹底してやり抜いた。
 オンとオフを組み合わせることで、コンピュータまで作り上げることができた。
 しかし、その時代はいま、おわりつつある。
 20世紀の前は、自分が絶対に正しいのだから、自分以外のものを全部やっつけろという考えが支配的でした。
 十字軍なんか完全にそうだし、アメリカ人はフロンテイア精神で西へ西へ行ってどんどんインデイアンを放逐していった。
 しかし今は、地球全体が一つになって、自分だけが正しいから他人は正しくないという思考法は通じない時代になってきた。
 それなのに、われわれはみんな、昔の思考法を引きずっている。
 それをどう変えていくかという大変な時代にきていて、それはやっぱり21世紀の課題になるんじゃないかと思うんです。

 たとえば、一神教を額面どおりに考えたら自分の神意外に正しいものはありえない。
 だから、他の宗教と共存するなんて考えるのは絶対におかしい。
 ところが、いまは宗教が全部集まって宗教会議をやって、みんな共存しているわけです。
 旧約聖書の中に、旧約の神を信じない者と仲良くしなさいなんてどこに書いてあるのか。
 現実の方はそうなってきている。
 ところが、「共存のための理論」構成はまだできていない。
 共存しなきゃいけないんだけど、それは教義的に本当に正しいのかという問題を考えると、ものすごく難しいと思うんです。

 実際の場ではよく体験することですが、「正しいか、正しくないか」いってもしかたないんです。
 正しいことを言っても役にたたない。
 親子でもめている人に「お母さん、もう少し子どもに優しくしてください」といっても、それは正しいですけど、優しくできないから困っているんで、だから正しいことというのはだいたいあまり役にたたないのです。
 本当に役に立たつことをいうのはすごく難しいのです。

 ものがないとか、何かが足りないというのはすごく「生き易い」んです。
 目標がはっきりしているから。
 ところが、これだけいろんなものが出てくると、目に見える目標というのはそんなにはないでしょう。
 簡単なことでいえば、いっぺん腹一杯食いたいなんて、それだけでも僕らは生き甲斐を感じたんです。
 ところが、いまの子どもはそんなもの全部もらっているから、それは気の毒です。
 極端にいうと、それぞれの青年はお釈迦さんとおんなじレベルぐらいで悩まされている。
 だからものすごく大変です。

 自由度が高くなったということは面白いわけです。
 非常に面白い。
 昔の人で十五(元服)で大人になれない人は、おそらく死ぬか殺されるかしたでしょう。
 つまり、社会の決められたパターンに入れない者はとても不幸だったわけです。
 しかし、いまの世の中は可能性がすごく増えている。
 これはやっぱりいいことだし、社会的パターンにはまらない人でも面白い生き方ができる。
 ところが、その社会はパターンを作ってくれないものになってしまっているため、今度は何を為すべきかがが判らなくなった人は清国に迷いだす。
 だから自由度が高くなって幸福の可能性が高くなった分だけ、不幸の可能性も高くなっている。
 社会というものは幸福度を増した分だけ、不高度もまた増えるというのが僕の考えかたなんです。

 仏教というのは「関係性」から出発している。
 仏教では「私」というのはない。
 私はないけど、あらゆる関係性の中で私が存在しているかのごとく見える。
 そういう見方なんです。
 西洋だとまったく逆で、個人があって個との関係を見るわけです。
 仏教では関係が先行しているから、その関係が時々刻々と変わっていくなかで、自分と周囲との関係が、いまこうでもしばらくたったら別の形になるかもしれない。
 それでもすべたがずっと関係しながら動いている。
 ところが、そんな考え方をしていると自然科学は出てくるはずがない。

 欧米は近代になって、「心」と「もの」を明確に区別する思考法を確立して、はじめに「もの」の研究を発展させ、続いて「心」の研究をするようになりました。
 また、キリスト教文化を」もっている欧米では自然科学にしろ、個人主義にしろ、全部キリスト教を背景にしていて、「もの」だけを発展させるということは簡単にはできない。
 このように土壌の違う日本が、キリスト教抜きで欧米の科学技術だけをパーっと取り入れ、高度成長を果たした。
 このとき日本が成功したひとつの理由は、かえって背後の宗教とか哲学をほとんど取り入れなかったからともいえる。
 そして、欧米の考えをもらいながら日本古来の倫理観や宗教観でそれを支えようとした。

 「和魂」はあったし、今でもある。
 ただ西洋の科学とか、思考法では非常につかまえにくい概念です。
 ところが、「洋才」で入ってきた科学技術の考えものすごく強くなって、「和魂」では支えきれなくなり、いまではもう、「無きに等しい」といえる。
 おなじく、欧米においても進んだ科学技術をキリスト教が、もう「支え難く」なっています。
 
 本当にいまは大変な時代だと思います。
 自分がコミットできる宗教を見つけられる人は幸福です。
 各人が自分で宗教性を考えるなんて、こんなやっかいなことは過ってなかったことです。
 キリスト教にしろ、仏教にしろ、理屈抜きに子どもの頃から体に染みついていた一つの生き方がみんなにあったんです。
 それに対して反発してもいいんだけれども、人間にとって生き方が示されているって、おかしな言い方かもしれませんが「楽」なんです。

 「もったいない」ということは、ものがないということを前提にした躾の中核だったんです。
 日本人は日常生活と深く結びついたものを通して心を教え、宗教を教えるというようにやってきました。
 だがこれだけものが豊富になったら、そんなパターンはぜんぜん守れません。
 ましてやキリスト教のように明確な教会という存在を持った文化圏ではないんです、日本は。
 そうなると、各人に課せられる課題が大きくなります。
 とくに家族や子どもの問題がこれまでと違う意味を持ってくる。
 家族をつくって子どもを持つということは、いまは大事業ですが、昔は普通のことだったんです。
 社会や文化の体制がZすっと一定でしたから、子どもが大人になるなんてことはあるパターンを踏む限りは問題になるようなことではなかったのです。

 教育改革は親の意識が変わらないと、どんな制度を作っても難しい。
 僕の実感では世の親たちよりも、文部省の方がよほどラジカルに個性尊重を考えようとしています。
 でも、親の方が乗らないんです。






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 このタイトルは「傲慢」としかいいようがない。
 柳田邦男はいつ、歴史の裁断者なったのか。




 【習文:目次】 



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