2010年6月16日水曜日

: 奥のほそ道

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● 2008/10[2006/04]



 徳川綱吉は土木マニアであって、護国寺、寛永寺根本中堂、湯島聖堂の造営をはじめ、日光東照宮の修復事業とつぎつぎに命じた。
 芭蕉が「奥のほそ道」のたびに出発したのは元禄2年(1689)3月である。
 同行した曾良(そら)こと岩波庄右衛門は幕府おかかえの秘密調査官である。
 東照宮改築工事にあたって、伊達藩と日光奉行との間で金銭の対立があり、その詳細を調べることが曾良の仕事であった。
 そのあたりは村松友次著「謎の旅人 曾良」(大修館書店)に詳しい。
 曾良はのちに二千石の旗本の用人となって莫大な金を扱った。

 日光までのたびは、曾良の公費出張で、旅行費用は幕府が出した。
 東照宮改築にあたる伊達藩の動静をさぐるための隠密の旅である。
 隠密であることをカムフラージュするためには、芭蕉という風雅なる俳諧宗匠を連れていくのはうまい方法だ。
 芭蕉がそういった曾良の本業を知らぬわけはない。
 曾良は吉川神道神官で、武士ではない。
 頭を丸めて僧形となったが、寺院など屁とも思わず、格式の高い神社へ参拝したい、日光での調査を果たしたあとは、自分の進行する神社をまわりたいという物見遊山的好奇心が強い。
 曾良は幕府調査官でありつつも旅を好む風流人であって、半官半宮司という立場にとどまっている。

 「奥のほそ道」は、旅を終えてから5年後に書かれた。
 芭蕉は「ほそ道」のメモ原稿を持ち歩いて、紀行の構想を5年間あたためていた。
 いかにも、長すぎる。
 紀行文は、帰郷後、遅くとも1年以内に書くことが通常で、5年もたてば忘れてしまう。
 5年間の歳月は「ほそ道」を歌仙方式にし、虚実ないまぜにして再構築するための作業であったのだが、と同時に、曾良が調査官であったために、すぐに発表することがはばかられたと思われる。
 少なくとも、芭蕉生存中には板本になってはいけない旅行記であった。
 じっさい、「奥のほそ道」は、原本は芭蕉の兄である松尾半左衛門に渡された。
 刊行されたのは芭蕉没後8年目の元禄15年(1702)、井筒屋板本であった。
 兄半左衛門が没した翌年になる。

 芭蕉は遺言集で、「紀行文は死後にみよ」と言っている。
 芭蕉が、生前に「奥のほそ道」を板本にしなかったのは、隠密の曾良との同行を隠す配慮があったためだだが、と同時に「死後刊行されれば評判をよぶだろう」という確信もあったからだと思われる。
 芭蕉は西行が念頭にあった。
 西行が歌聖として名声を高めたのは、死に方がうまかった。
 生前読んだ辞世の和歌
 「願わくは、花のしたにて春死なむ、そのきさらぎの望月のころ」
にあわせて死んでみせた「奇跡」が、定家や後鳥羽院に感銘を与えた。
 西行の評判は、生前よりも死後に高まった。

 文芸で名を高めるには、作品もさることながら、死に方の工夫が腕の見せどころで、それは明治以降のの近代文学にも受け継がれた。
 名声を得た文学者は、つぎにうまい死に方が課題になる。
 芭蕉も「奇跡」を起こしたいという野心があった。
 といっても、「奥のほそ道」が仕上がった元禄7年に死ぬことになろうとは、芭蕉は思ってもいなかったろう。

 芭蕉は、従来の歌学の伝統を打ち破ろうとして、
 「ついに西行をこえる」ことができなかった」
という思いがある。
 一番弟子の其角には「俳諧の定家」という評判があるが、それでは、俳諧は和歌の下にあることを認めたことになる。
 和歌よりさらに自由になるためには、一定の知識を前提とするそれまでの芭蕉流のすべてを否定しなければならない。
 これまでも、その「軽み」をさぐってきたけれど、さらに徹底した。
 「重く」なるのは努力すればなれるが、「軽く」なるのは容易ではない。
 
 突如方針転換されれば、実直に学んできた弟子ほどうろたえて、どうしたらよいのかわからない。
 弟子たちのあわてぶりに芭蕉は頓着せず、放り出している。
 芭蕉には、まだ開拓されていない分野を見つけようという野心があった。
 日々旅をすみかとする風雅になりきれず、世を逃れてひとり閑寂を求めようとしても、すぐにあきてしまう性分で、俗のなかに身をおいて、そこに人間生活の趣をみつけようとした。
 
 芭蕉は「甘味をぬけ」といった。
 濃い味をすてて、あっさりと軽い味にしろ、という。
 いかにも芭蕉らしい渋い言い方だが、老齢となれば、こってりとした濃い味の料理よりも、アッサリ味を好む、という当たり前のことにも関連してくる。
 芭蕉のいう「軽み」は、わかりやすく受け止めれば、
 「理屈をこねず、古典に頼らず、肩の力を抜き、気軽に句作する」
ということになる。

 「奥のほそ道」の巻頭は、「軽み」ではない。
 芭蕉の身になって考えれば、「重み」は紀行の地の文に移してしまって、俳諧では「軽み」でいくという配分があった。
 「奥のほそ道」では、格調高く「重み」を持たせておうて、「死後に見よ」とした。
 そういう住み分けを用意して、俳諧では「軽み」を打ち出した。



 



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2010年6月15日火曜日

★ 悪党芭蕉:はじめに&おわりに:嵐山光三郎

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● 2008/10[2006/04]



はじめに
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 「芭蕉は大山師だ」といったのは芥川龍之介である。
 芥川以前に芭蕉を批判した人は正岡子規である。
 芭蕉をけなすことは覚悟がいる。
 子規と芥川の論は芭蕉をブランド化する宗匠への反感が先立っていて「若気の至り」の感はいなめない。
 しかし、子規と芥川には、「芭蕉は悪党である」という直感があった。
 それはなぜか。

 芭蕉没後、蕪村が出るまで、俳諧は月並みとなり、混乱し、低迷を重ねた。
 蕪村は其角の弟子であった早野巴人に学んだ。
 巴人は其角に師事しながらも、江戸の洒落風になじめず、孤高の障害をすごし、
 「俳諧に門なし。ただ俳諧というをもって門となす」
と言った。
 ここにおいて、芭門は消滅したことになる。

 碑がそこかしこに作られ、浄財をつのって芭蕉堂がたてられ、木像を安置するにいたって芭蕉は偶像化され、それは今もなを続いている。
 「奥のほそ道」の芭蕉と曾良の彫像はやたらと多い。
 百回忌の寛政5年(1793)4月には、ときの神祇伯白川家より「桃青霊神」の神号を授けられ、筑後高良山に、風雅の守護神として神社にまつられた。
 その13年後の文化3年(1806)には「古池や‥‥」の句にちなんで、朝廷より「飛音明神」の号を賜った。
 百五十年忌の天保14年(1843)には、二条家より「花の本大明神」の神号を下され、芭蕉は名実ともに「神」となった。
 芭蕉は「宗教と化した」のである。

 こうなると句の鑑賞どころではなくなり、芭蕉は、ただただ拝むだけの対象となり、いまなを続く「芭蕉信仰」はこのころから始まった。
 「古池や‥‥」が「飛音明神」となれば古池もまた枯淡の聖なる池である。
 蛙が飛び込んだ池は、江戸大火で大量の死人が飛び込んだ池でもあって、泥の臭いが強い混沌の池である。
 「悪党芭蕉」とタイトルをつけて、「老人アイドル」と化した芭蕉を、俗人と同じレベルで、考えなおそうとしたのは、そのためである。
 芭蕉もひとり、私もひとり、読者もひとりの地点に立つところから考える。

 芭蕉が評価する弟子は、つぎからつぎへと離反していく。
 ということは、芭蕉は危険な人物であったのだ。
 弟子は、自分こそが第一実力者だと思っているから、芭蕉に反旗をひるがえすことは、むしろ当然の行為となる。
 義仲寺葬儀に三百余人が参列したことは、俳風によること第一だが、葬儀を仕切った其角(きかく)の力が大きい。
 芭蕉が性格破綻の弟子をかばうのは、そこに自己の分身を見ていたからだ。
 それが、門下内の軋轢を招いた。
 芭蕉の周囲は危険人物だらけである。
 にもかかわらず、俳聖とあがめられ、数百にわたる研究書や評釈集も、芭蕉を「求道の人」「枯淡の人」「侘び寂びの俳人」としている。
 俳人の多くが芭蕉を深読みすればするほど、芭蕉像は七色の虹に彩られていく。

おわりに
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 紆余曲折しつつ芭蕉の正体をさぐってきたが、ここでひとまず筆を擱くこととする。
 芭蕉は多面体の革新派で、たえず揺れ動いているから、どれをもって芯とするかは難しい。
 ただ、芭蕉の周辺には危険な人物が多く、其角もそのひとりである。
 其角は幕府を挑発する句を詠んでいるから流罪すれすれのところにいた。
 そういった遊び人連中が蕉風の俳趣味を第一としていた。
 芭蕉を「悪党」としてしまったのはそういう意味であると了解願いたい。
 芭蕉は危険領域の頂に君臨する宗匠であって、旅するだけの風雅人ではない。
 芭蕉の凄味は連句の席でぬっと顔を出す。
 
 江戸の蕉門は、旗本や豪商にまじって、其角を中心とする遊び人が多かった。
 芭蕉が没する前年の元禄6年(1693)、幕府が出す「生類憐みの令」はますますエスカレートし、魚釣りが全面禁止となり、釣り船営業停止となった。
 其角はそれをからかった句を詠んでいる。
 「奥のほそ道」のあとに芭蕉が旅をしようと考えていたのは長崎である。
 江戸へ下ったとき、芭蕉の眼にとまったのは紅毛人のカピタンだった。
 長崎はまるごとカピタンの町で悪所でもあった。
 貿易港だから、抜荷船が出没し、磔刑、斬首となるものが続出していた。

 繁栄する都市には犯罪がつきもので、芭蕉の本能は都市をめざす。
 欲に目がくらみ、身を破滅させてしまうほどの地が芭蕉をひきよせ、そこに俳諧が’成立する。
 芭蕉の強さは、門人たちの闘争にあり、各派がはりあって論争したことによる。
 芭蕉没後、弟子たちが四分五裂したからこそ、最終的に芭蕉が残ったのである。

 この一冊を書き終えて、正直いってへとへとに疲れた。
 知ればしるほど、芭蕉の凄味が見えて、どうぶつかったってかなう相手ではないことだけは、身にしみてわかった。

 平成18年3月25日記 嵐山光三郎

 



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2010年6月8日火曜日

★ 蛍火:染み抜き屋:蜂谷涼

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● 2008/12[2004/06]



 鋏を握る手がこわばりそうになるのを感じながら、つるは、どこか医者を思わせる風貌を持つ師匠の顔を思い出していた。
 お彼岸の中日に、ちぎり屋のおもんから教えてもらっておはぎを作ったつるは、それを携えて、ひさしぶりに師匠の家を訪ねたのだった。
 師匠は、さすがに寄る年波には勝てず、近頃はあまり仕事をしていないとのことだったが、つるが持っていったおはぎを「美味い、美味い」と3つも一気に食べてくれた。
 そして、濃い目の煎茶をすすった後で、ぽつりぽつりとこう語った。

 考えてみれば、面白いものよな。
 職人というのは、たいてい、何かを作り出す。
 あるものをなくそうとするのは、染み抜き屋くらいだ。
 若い自分は、それが何やらてごたえがないような、空しいことのような気がしたこともあった。
 だが、この年になってわしは、染み抜き屋の仕事というのは、もしかしたら、人の世に似ているのかもしれん、と思うようになってきた

「人の世、でございますか」
 ぎくしゃくと首を傾げるつるに、師匠は静かに微笑んだ。

 おおかたの人は、自分が生きた証として、子孫や金や名を遺したがる。
 しかし、それらとて、永遠不滅のものでもない。
 わしはな、最近、人が生きるとは、何かを遺すことではなく、この世に生まれるときに背負うてきた前世の罪業を、一つ一つ消して、無にしてゆくことではないか、という気がするんじゃ。
 ま、これも、作を何一つ遺せ染み抜き屋の、独りよがりと言われれば、それまでじゃが

 しみじみとした師匠の言葉が、今になってつるの旨に沁みてきた。
 つるは、師匠の言葉を噛みしめつつ、一心に黒振袖を解いていった。









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2010年5月29日土曜日

: アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ

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● 2009/10



 まことに屈辱的、かつ自虐的な告白をしようと思う。
 いつかどこかで誰かに懺悔 しなければならぬ罪ならば、本書こそふさわしい。
 英語がしゃべれんのである。
 もともと見栄っ張りの恥知らずであるから、いっけんペラペラのように見えるらしいが、実は丸覚えの構文に適当な単語を鷹揚しているだけで、会話には程遠い。
 ヒアリングは先方の表情と一部の単語からの推理である。

 まずいことに、洋の東西を問わず世間の人々は「小説家=文学者=語学堪能」というイメージを抱いているので、私の海外旅行はその前提のうえに進行するから恐ろしい。
 入国書類にはむろん堂々と、「NOVELIST」とか「AUTHOR」と書く。
 職業を詐称してはならぬし、そのくらいの単語は知っている。
 ところがたいてい、通関の係員はこの職業に目をとめると、私にはまったく理解不能の質問を、矢継ぎ早に浴びせかけてくる。
 「アイアム・ソーリー・アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」
 屈辱の旅は、いつもこの正確無比な英語から始まる。

 もっとも、私は小説化である前に純血の日本人オヤジであるから、英語をつかえなくとも何ら不思議はない。
 しかし、わが英語歴を考えると、この結果はまことに不思議なのである。
 私立のミッションスクールに通っていた私は、何と小学校1年生のときから、外国人教師による英語教育を施されていた。
 週に2時間か3時間、6年間をみっちり学んだ。
 おそらく小学校6年生の私は、今よりずっと上手に英語を使ったはずだ。

 義務教育で3年間、中高等学校で6年間、大卒で10年間。
 私たちはかくも長大な歳月を英語学習に捧げている。
 私の場合は大学に行かなかったが、小学校の6年間に予備校での1年間を足せば、つごう13年の長きに及ぶ。
 その結果が、
 「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」
では、まさに徒労というほかあるまい。

 こうした減少は、わが国の英語教育が伝統的な読み書きの学習に偏重していて、会話に重きを置かないからだと、という説もある。
 しかしたいていの人は、会話と同様に読み書きもできないのだから、この説はいささか説得力に欠ける。
 つまるところ、相当の時間と労力をかけて学ぶことは学ぶのだが、それぞれの学校の卒業時をピークとして、アッという間に忘れてしまうのであろう。
 いよいよ徒労という感じがする。

 教養というものの正体は、何も英語に限らずそうしたものであるから、まあいいか、とも思う。
 しかし、個人的には納得いかぬことである。
 私は1年に6回や7回は海外に出る。
 滞在日数の平均を掛けると、「1年のうち2カ月」は外国にいる。
 にもかかわらず、毎度毎度、
 「アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ」
とは、いったいどうしたことであろう。
 あんがいバカか、あるいは語学的才能に実は欠けているのであろうか。
 しかし、いずれの理由も、職業上けっして考えたくない。

 ところで、かくいう私はラスベガスのカジノにおいてのみ、どういうわけかペラペラと英語を話す。
 デーライーやほかのゲストたちとの間には、ゲーミング以外の話題はありえないからである。
 使用される構文と単語は一定のものであるし、感情表現やジョークも、だいたい決まっている。
 だからこの小世界での会話は、知らず知らずのうちに体で覚えてしまった。
 一日目こそ多少のとまどいはあるが、耳が慣れてくると頭の中から日本語が消えてしまう。

 ところが、いったんカジノから出てショッピングセンターやレストランにはいると、どういうわけかその英語がまったく援用されないのである。
 身ぶり手ぶりであたふたとし、あげくは、
 「アイ・ドント・アンダスタンド」
 「プリーズ・スピーク・スローリー」
を連呼する。

 このごろ思うのだが、私は英語がしゃべれないのではなく、英語をしようするフィールドに臆しているのではないだろうか。
 だから自分尾フィールドだという自覚があるカジノでは十分な会話ができ、そこを離れてしまえば言葉が出なくなってしまう。
 われわれは等しく、3年も6年も10年以上も頭を悩ませてきた英語が、根こそぎ頭の中から失われてしまうはずはあるまい。
 われわれの胸のうちにはきっとどこかに、英語を使う外国人に対する気臆れがあって、しゃべれないのではなくただ口をつぐんでしまっているのではなかろうか。
 日本人の多くが、おそらく最大の時間を費やしてきた学問が、まさか徒労であったはずがない。







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: アメリカ人と中国人

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● 2009/10



 かって小説のなかでも詳しく書いた憶えがあるのだが、アメリカ人と中国人はなぜか「他人の空似」を感じさせる。
 第一に、外国人に対してすこぶる鷹揚かつフレンドリーである。
 なんらの他意なく、ほとんど挨拶の延長で旅行者に親しく語りかけてくるのは、アメリカ人と中国人であろう。
 しかも、当方が言語を解するか否かに関係なく、勝手にしゃべり続けるところまでよく似ている。
 声が大きいのも共通している。
 彼らに言わせれば、「日本人は無口のうえに声が小さい」のだそうである。
 世界中のさまざまな民族を公平に分析してみると、やはり日本人がそうなのではなく、アメリカ人と中国人が「オシャベリなうえに、声が大きい」のではなかろうかと私は思う。

 むろん悪いことではない。
 旅行者の立場からすると、そうした国民性は居心地がよい。
 アメリカ人と中国人は、民族的にはアカの他人である。
 ではなぜ他人の空似があるのだろうか。
 たぶん原因は地理的は形態であろう。
 地図を拡げてみれば一目瞭然だが、地球上のほぼ同じ緯度に、ほぼ同じサイズで存在している。
 早い話が、国がデカければ声もデカいのである。
 私はロシアに旅したことがなく、ロシア人もよく知らないが、たぶんアメリカ人や中国人にも増して声がデカいのではなかろうか。

 他人の空似とはいっても、似て非なるところもある。
 両国民とも自己主張がはっきりしていて譲らぬから、路上の県下をしばしば見かける。
 その点は似ているのだが、非なるところは中国人の「口喧嘩」に反して、アメリカ人は「腕喧嘩」で手が早い。
 中国人の口喧嘩は壮観である。
 相手を罵る単語が豊富であり、構文的にも多岐をきわめている。
 たとえ言葉が理解不能でも、多くの語彙を駆使していることや、さまざまの表現で相手を罵倒しているのはわかる。
 さらに感心することは、この口喧嘩の壮大な応酬は、男女の性別や年齢や、明らかにヒエラルキーが異なると見受けられるご両人でも、ほとんど関係なくくり広げられることである。
 そもそも口下手がいないのか、それとも「口下手は喧嘩する資格が無い」のか、ともかく中国における路上の喧嘩は際限がなく、しまいには人垣に囲まれたリング場の様相を呈する。
 野次馬が仲裁に入らないのもまた面白い。
 つまりそのくらい中国語はすぐれた言語なのである。
 口ですむから暴力に訴える必要はないらしく、私はかって中国の路上で殴りあう喧嘩を見たためしがない。
 それを承知しているから、あえて仲裁に入る者もいないのであろう。

 一方、アメリカ人の喧嘩はすこぶる危険である。
 言葉での応酬は実に短い。
 たちまち手がでる。
 野次馬もそういう展開を読んでいるので、相当の距離をおいて観戦する。
 カジノでは、大声を聞けばガードマンが疾風怒濤のごとくあちこちから殺到し、仲裁どころか両者を押し潰して連行してしまう。
 このあたりも中国では、たとえ警官が喧嘩のかたわらを通りすがってもとりあえず野次馬に加わり、交通の妨害にでもならぬ限りは仲裁に入らない。

 さて、このように考えると、言葉はまことに大切である。
 中国人は憤懣の相当量を言語によって解消することができる。
 素晴らしい言語能力を持つ漢民族が、かって漢土を出て戦いをしたためしは、4千年の歴史のうちでもほとんどないのではなかろうか。

 言葉というもののプリミテイブな形は「読み書き」するものではない。
 「語り聞く」ことによって相互の意思を伝達い合うものである。
 本来は対面して語りかつ聞くべきである言語が、電話機の登場によって対面せずとも可能になり、さらにはコンピューターの普及によって、「対面もせず語りもせず」に意思の疎通が図れるようになった。
 言葉の今日的な退化とは、おそらく活字離れに起因しているのではなく、対面して発声することのなくなった対話の実体が、最も重大な原因なのではないかと私は思う。
 感情を制御し担保するだけの言語は失われ、その途端に人間は暴力による感情表現をなさねばならなくなる。







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: 自動販売機(ペンデイング・マシーン)

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● 2009/10



 私が物心ついたとき、自販機はすでに存在していた。
 唯一と言ってもいいであろうか、昭和30年ごろの自販機といえば、駅の出札である。
 10円玉を入れて重いハンドルをガタンと押すと、初乗り区間の切符が出手きた。
 ほどなくそのハンドルがなくなって、硬貨を入れると同時に切符が出る機械が出現したときには、これは大したものだと感動した記憶がvある。

 それからというもの、いわゆる自販機は雨後のタケノコの生えるがごとく街角のあちこちに現れ、ありとあらゆる品物を売り始めたのである。
 したがってそれらと肩を並べて成長した私には、異物感どころか幼馴染のような親しささえある。
 長い歴史の間には、あえてなんだとは言わぬが、自販機だからこそつくづく有難かったものとか、パロデイとしか思えぬ一発屋とか、存在理由がどうしても理解できぬ変わり種とか、いろいろあったのだけれど、そうしたキャラクターもまたともに育った友人と同じだった。
 いきおい若い人たちからすれば、自販機社会は既成事実であり、自然環境に等しい。
 むしろこんな便利なものが、なぜ外国には少ないのだろうと誰もが首をかしげるにちがいない。

 ところで、ふと思い返してみるに私が初めて海外に出た昭和40年代末のことだが、ホノルルのアラモアホテルのエレベーターホールには、日本のそれと同じ清涼飲料水の自販機がたしかにあった。
 缶コーラが25セントだったことも覚えているのだから、まちがいではない。
 つまりそのころには、日本製か米国製かはしらないが、少なくともハワイには自販機が導入されていた。
 しかしほどなくそれらは姿を消してしまい、このごろになってようやくあのバカでかい、それこそ中に人が入っているんじゃないかと思えるようなコーラの自販機が、世界中の都市のあちこちでちらほら見受けられるようになった。

 さて、この不可解な空白はいったいどうしたことであろうか。
 万事において合理性を追求するアメリカ人が、いったん導入した自販機文化を発展させなかった理由が、治安のよしあしばかれであるとは思えぬ。
 少なくともホテルの中に設置した自販機をあえて撤去する理由はあるまい。
 そこで私は、この便利な機械文明が日本だけ栄え、諸外国ではさほどに進展しなかった理由について考え直してみた。

 生活に必要な品物の売り買いというものは本来、両者が対面してこれを行うという常識と道徳がなければならぬ。
 もしや日本人はその世界的な常識と道徳とを無視して、単純に物とお金とを交換するという合理主義に走ったのではなかろうか。
 だとすると、香港の良識ある新聞が、
 「少子化対策のため」、あるいは
 「移民の労働を代行するため」
と規定した自販機の存在理由も、むしろ好意的な対日本人観と思える。

 たぶん私たちはめくるめく高度成長期に、アメリカの合理主義を超越してしまったのであろう。
 自販機がかくも増殖した本当の理由は、日本人の機械好きでも、日本社会の治安の良さでもなく、われわれが物の売り買いにまつわる人間のコミュニケーションすらも、不要なものだと考えた結果ではあるまいか。
 懲役52年の老侠客は、明けやらぬ路上で自販機を見つめながら、しみじみとこう呟く。

 いってえ日本はいつになったら元通りになるんでござんしょう。
 戦いに負けるってのア、切ねえもんでござんすね








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: ラスベガス

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● 2009/10



 私がラスベガスに通う目的は、一にかかって「自己喪失」である。
 そもそも旅なるものの本質はそれなのだが、旅なれぬ人はその本質を誤解して「自己確認」をしようとし、ために旅をはなはだつまらぬものにしてしまう。

 ベガスにおける自己喪失感は、すこぶる顕著かつてきめんである。
 かくやくたるモハヴェ砂漠の太陽に身を晒したとたん、自己は一滴の水のごとく揮発し、陽が落ちてブールヴァードの光の洪水に身を委ねれば、自己もしくは自己と信じていたもののすべてが、抜け殻のようにいずこともなく流れ去る。
 かくて、たとえば浅田次郎という人物は消去され、おのれはアルファベットの一文字で表記されるような、あるいはそれにすら価しない任意の一人になる。
 すなわち、この奇妙な感覚が旅の本質であり、旅人の正しい姿なのである。
 
 「旅の哲学」を語ったからには、わが身になぞらえて自説を証明する必要があろう。
 以前にも書いたが、私はかって旅先作家に憧れを抱いていた。
 心の逝くままぶらりと旅に出て、鄙びた温泉宿やリゾート地のホテルで、甘い恋物語を書き綴るのが夢であった。
 ところが、いざ小説家という職業についてみると、そうしたロマンチックな現実は許されなかった。
 人並みの幸福に浸る、ころあいのいい売れ具合というものがないのである。
 つまり、生産性はまったく自分ひとりにかかっているのである。
 不遇の時代には生活と格闘せねばならず、やがて厳冬を一気に抜けると、たちまちに膨大な仕事が小身にのしかかって身動きもできぬようになる。
 いくら忙しくなろうと、時間はなんとかなる。
 夜も眠らずに原稿を書いて、それでも物理的に到達不可能な目標など、いかに無計画な作家でも受けるはずないからである。
 これは経験上、たしかに何とかなる。

 この際の問題は肉体ではなく精神力である。
 たとえば5本尾連載小説を抱えてしまうと、そこには5つの異なったテーマが存在し、数十人の人格と彼らが後世する5つの世界がある。
 多くの読者を得心させるようなエンターテインメントに、日常の退屈な些事を書き綴ることなど許されない。
 すなわち、書くべき物語は血沸き肉躍る5つの嘘である。
 多少の宣伝を兼ねて具体的に述べると、かって『蒼穹の昴』と『プリズンホテル』は同時進行であり、『壬生義士伝』と『王妃の館』と『オー・マイ・ガアッ!』もまったく同時期の連載であった。
 もちろんそのうえに、毎月一篇か二篇の短編小説が積み重ねられ、さらに連載エッセイが加わる。
 こうなると、作家というよりむしろその精神状態は、昼の部と夜の部に喜悲劇の舞台をかけもちする役者に似ている。
 まことに重篤な多重人格障害である。

 幸い頑健な肉体が、精神を担保している今のうちはよいとしても、いずれ筋肉の衰えとともに精神が肉体を最良する年齢に至れば、自殺するか発狂するか犯罪をおかすか、それらのすべてが嫌なら廃業もしくは僧籍に入るほかなかろう。
 ところがそのとき、私の精神を支えている意外な事実に気がついた。
 月曜日の私は自己を恢復しているのである。
 つまり月曜をスタートラインとして、金曜日まで八面六臂の仕事をし、週末は朝から競馬場に行く。
 そこでいったん、5日分の多重人格とおさらばする。
 ただしくは虚構の自我を喪失して、本来の自我を獲得するのである。
 かくてこの手法の演繹により、私は週ごとの短期的自己喪失を競馬場で行い、それでも蓄積する長期的虚構は、ラスベガスの太陽の生け贄としてささげることにした。

 この喪失と恢復の方法は小説家にのみ有効なものなのであろうか。
 周囲を見渡せば現代に生きる人々は誰しも、喪失せしめねばならぬ虚構の自我を持っている。
 そしてしかるのち本来の自己を恢復せねば、実は健全に生きていくことはできぬのである。
 それが私にとってのラスベガスの効用なのである。



 



 【習文:目次】 



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