2010年6月16日水曜日

: 奥のほそ道

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● 2008/10[2006/04]



 徳川綱吉は土木マニアであって、護国寺、寛永寺根本中堂、湯島聖堂の造営をはじめ、日光東照宮の修復事業とつぎつぎに命じた。
 芭蕉が「奥のほそ道」のたびに出発したのは元禄2年(1689)3月である。
 同行した曾良(そら)こと岩波庄右衛門は幕府おかかえの秘密調査官である。
 東照宮改築工事にあたって、伊達藩と日光奉行との間で金銭の対立があり、その詳細を調べることが曾良の仕事であった。
 そのあたりは村松友次著「謎の旅人 曾良」(大修館書店)に詳しい。
 曾良はのちに二千石の旗本の用人となって莫大な金を扱った。

 日光までのたびは、曾良の公費出張で、旅行費用は幕府が出した。
 東照宮改築にあたる伊達藩の動静をさぐるための隠密の旅である。
 隠密であることをカムフラージュするためには、芭蕉という風雅なる俳諧宗匠を連れていくのはうまい方法だ。
 芭蕉がそういった曾良の本業を知らぬわけはない。
 曾良は吉川神道神官で、武士ではない。
 頭を丸めて僧形となったが、寺院など屁とも思わず、格式の高い神社へ参拝したい、日光での調査を果たしたあとは、自分の進行する神社をまわりたいという物見遊山的好奇心が強い。
 曾良は幕府調査官でありつつも旅を好む風流人であって、半官半宮司という立場にとどまっている。

 「奥のほそ道」は、旅を終えてから5年後に書かれた。
 芭蕉は「ほそ道」のメモ原稿を持ち歩いて、紀行の構想を5年間あたためていた。
 いかにも、長すぎる。
 紀行文は、帰郷後、遅くとも1年以内に書くことが通常で、5年もたてば忘れてしまう。
 5年間の歳月は「ほそ道」を歌仙方式にし、虚実ないまぜにして再構築するための作業であったのだが、と同時に、曾良が調査官であったために、すぐに発表することがはばかられたと思われる。
 少なくとも、芭蕉生存中には板本になってはいけない旅行記であった。
 じっさい、「奥のほそ道」は、原本は芭蕉の兄である松尾半左衛門に渡された。
 刊行されたのは芭蕉没後8年目の元禄15年(1702)、井筒屋板本であった。
 兄半左衛門が没した翌年になる。

 芭蕉は遺言集で、「紀行文は死後にみよ」と言っている。
 芭蕉が、生前に「奥のほそ道」を板本にしなかったのは、隠密の曾良との同行を隠す配慮があったためだだが、と同時に「死後刊行されれば評判をよぶだろう」という確信もあったからだと思われる。
 芭蕉は西行が念頭にあった。
 西行が歌聖として名声を高めたのは、死に方がうまかった。
 生前読んだ辞世の和歌
 「願わくは、花のしたにて春死なむ、そのきさらぎの望月のころ」
にあわせて死んでみせた「奇跡」が、定家や後鳥羽院に感銘を与えた。
 西行の評判は、生前よりも死後に高まった。

 文芸で名を高めるには、作品もさることながら、死に方の工夫が腕の見せどころで、それは明治以降のの近代文学にも受け継がれた。
 名声を得た文学者は、つぎにうまい死に方が課題になる。
 芭蕉も「奇跡」を起こしたいという野心があった。
 といっても、「奥のほそ道」が仕上がった元禄7年に死ぬことになろうとは、芭蕉は思ってもいなかったろう。

 芭蕉は、従来の歌学の伝統を打ち破ろうとして、
 「ついに西行をこえる」ことができなかった」
という思いがある。
 一番弟子の其角には「俳諧の定家」という評判があるが、それでは、俳諧は和歌の下にあることを認めたことになる。
 和歌よりさらに自由になるためには、一定の知識を前提とするそれまでの芭蕉流のすべてを否定しなければならない。
 これまでも、その「軽み」をさぐってきたけれど、さらに徹底した。
 「重く」なるのは努力すればなれるが、「軽く」なるのは容易ではない。
 
 突如方針転換されれば、実直に学んできた弟子ほどうろたえて、どうしたらよいのかわからない。
 弟子たちのあわてぶりに芭蕉は頓着せず、放り出している。
 芭蕉には、まだ開拓されていない分野を見つけようという野心があった。
 日々旅をすみかとする風雅になりきれず、世を逃れてひとり閑寂を求めようとしても、すぐにあきてしまう性分で、俗のなかに身をおいて、そこに人間生活の趣をみつけようとした。
 
 芭蕉は「甘味をぬけ」といった。
 濃い味をすてて、あっさりと軽い味にしろ、という。
 いかにも芭蕉らしい渋い言い方だが、老齢となれば、こってりとした濃い味の料理よりも、アッサリ味を好む、という当たり前のことにも関連してくる。
 芭蕉のいう「軽み」は、わかりやすく受け止めれば、
 「理屈をこねず、古典に頼らず、肩の力を抜き、気軽に句作する」
ということになる。

 「奥のほそ道」の巻頭は、「軽み」ではない。
 芭蕉の身になって考えれば、「重み」は紀行の地の文に移してしまって、俳諧では「軽み」でいくという配分があった。
 「奥のほそ道」では、格調高く「重み」を持たせておうて、「死後に見よ」とした。
 そういう住み分けを用意して、俳諧では「軽み」を打ち出した。



 



 【習文:目次】 



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