2012年4月19日木曜日

:現代日本の美術史方法論への疑問


● 1987/03/05[1981/04/25]



 私は現代の日本の美術史の方法論に、深い疑問をおぼえる。
 たとえば、法隆寺の研究法をみるがよい。
 建築は建築、彫刻は彫刻、工芸は工芸と、それぞれ部門が分けられて研究される。
 分けられて研究されることは、研究を精密にするために必須の作業である。
 こうして研究は精密になる。
 しかし、研究が精密になればなるほど、法隆寺を観察する綜合的視点が失われてしまう。

 一つの寺は、ある意味をもってそこに存在している。
 この意味を与えたのは、それを作った人間の意志である。
 一つの意志によって、一つの寺は統一され、そしてその寺のすべての建築、彫刻、工芸は、その意志の中で、それぞれある種の役割を果たしているのである。
 一つの寺を研究するには、その寺のもつ意志を知らねばならない。
 その意味を知るには、その寺を造った人間の意志を明らかにしなければならぬ。
 その意志は、必ずしも宗教的意志ではない。
 そこには、宗教的意志と同時に政治的意志が働いている。
 宗教的意志でもあり、政治的意志でもある。
 一つの形而上学的根本意志が、必ず一つの寺院や、神社や、宮殿には存在している。
 そういう、いわばすべての芸術を綜合する意志によって、一つの時代の芸術は出来上がる。
 そして建築も、彫刻も、絵画も、工芸も、すべてこの意志によって統一されているのである。
 そしてその意志によってそれらは一つの世界を形成する。

 そのようなものが、われわれの問題としている芸術には存在している。
 かってギリシャのパルテノンはそのような世界であり、また中国のゴシック建築もそのような世界であり、今われわれが問題としている古代寺院もそのような世界である。
 それゆえ、そういう芸術を知るには、それが建てられた根本的意志のようなものを知らねばならなぬのである。

 ところが、現代の芸術学はそういう意志についてきわめて無関心である。
 統一をもった世界を個々の部分に分解し、個々の部分の綿密な研究が進めば、この建築物を完全に理解したと思っている。
 そこに近代芸術学の主流があり、特に日本の美術史学界にはそういう傾向が強い。

 しかし、私は言いたい。
 それは誤った芸術理解の方法であると。
 そういう理解の方法は、もともと現代の分業化された世界から生まれた。
 かっては協力して一つの世界を創っていた建築だの、絵画だの、彫刻だのが、それぞれ独立し、独自の下術の道をゆく。
 これが現代芸術の方向であり、現代の美術史の方向もまた現代芸術の方向と同じであり、分業によってその理解を深かめようとしている。
 あるいは、近代芸術を理解するにはこのような方法でよいかもしれない。
 しかし、まだ統一的世界が失われていない時代の芸術を探るのには、このような方法は不完全である。

 その上、現代の美術史にとって、すべて、観賞の対象は「もの」である。
 ちょうど現代の歴史学が資料を一つの「もの」として見るように、美術史学においても一つの芸術的遺品は、その時代のある種の芸術の本質を教える一つの遺品、残った「もの」にすぎない。
  しかし、私は違うと思う。
 一つの芸術作品は、やはり人間の造ったものである。
 そこには人間の願望や祈りが、欲望や怨恨が含まれている。
 それが人間の造ったものである以上、意味をもつ。
 一つの意志をもった人間精神の産物として理解する道、そういう道が唯一の正しい芸術理解の道であると思う。
 分業して、精密な研究を進めるがよい。
 しかし、その研究は、結局そのような寺院なら寺院の背後にある一つの人間的意志を、その寺そのものたらしめている一つの意味を見出すために手段であろう。

 意味の分析が、まったく現代の日本の美術史には欠けていたと思う。
 そのような方法論によって、どれだけ、法隆寺の本質が解けるのだろうか。






● 復元図(google画像より)



 【習文:目次】 



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