2010年3月1日月曜日

★ アラミスと呼ばれた女:文庫のためのあとがき:宇江佐真理


● 2009/04[2006/01]



 子母澤寛さんは読売新聞の社会部記者だった時代、国定忠治の75周年祭が地元で開催され、忠治を知っている古老から取材して記事を書いた。
 大正13年当時は、そういうこともできたのである。
 それが、子母澤さんが侠客譚に興味をもった初めだという。

 その後、彼は有名な侠客の実像を探るべく、各地に出かけ、当時のことを知っている古老から話を聞いて回った。
 座頭市は本のページにすれば、ほんの数ページの話に過ぎない。
 座頭市は実在した居合の達人である。
 そして実在の市は映画よりも、はるかに凄かったと言っておこう。

 さて、かく言う私も子母澤さんのおかげで『アラミスと呼ばれる女』を書くことができた。
 それは子母澤さんの『ふところ手帳』(中公文庫)の中に収録された「才女伝」からヒントをいただいた。
 幕末の戊辰戦争の頃にフランス通詞に就いていた田島勝(たじまかつ)という女性がいたという。
 しかし、彼女の存在は歴史書の中に記されていない。

 田島勝の存在に私が確証を持ったのは、後に公開されたジュール・ブリュネのスケッチを見てからである。
 ブリュネはフランスから軍事顧問団の一員として来日していたが、榎本武揚の五稜郭戦争まで行動を共にしている。
 ブリュネは写真の代わりにスケッチをして、現場の様子を本国に報告していたのだ。
 彼の描いた15代将軍徳川慶喜の肖像画は写真と何ら変わりないほどの精巧なものだった。
 そのブリュネのスケッチの中に田島勝らしい人物が描かれている。
  「初めて出会ったフランス語を話す日本人ジッタロウ(愛称アラミス)」
 と、注釈がついていた。
 フランス通詞は他にもいたのに、なぜブリュネはわざわざ、そんな注釈をいれたのだろうか。
 穿って考えれば、他の通詞のフランス語はブリュネに言わせれば、使いものにならないレベルだったのではないだろうか。
 アラミスのフランス語だけが信頼に値するものだったと私は考えた。
 田島勝は田島勝太郎として務めについていたが、カツタロウという発音はフランス人には難しく、ジッタロウ、あるいはアラミスと渾名で呼ばれていたのだと私は推測した。

 もう、ここから私は止まらなくなった。
 何が何でも「アラミスと呼ばれた女」の話を書かなければならないと強く思った。
 それにしても子母澤さんの「才女伝」の他に、これといった資料は見当たらなかった。
 書き直しを続け、ようやくこの作品が陽の目を見る事ができた時、十年の時間が過ぎていた。
 分からない部分は「見てきたようなウソをつく」小説家の想像にまかせ、とにもかくにも完成させることができたのは幸せだった。
 ネックは田島勝の子どものことだけだった。
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 何より、田島勝の仕事を褒めてやりたいのだ。
 あんたは凄い。
 あんたは立派だった。

 テレビの女性アナウンサーが流暢な外国語で話すのを聞くとき、私は決まって田島勝のことを思う。
 女性が外国語を話す、という先鞭をつけたのは、実に田島勝であった。







 【習文:目次】 



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