2010年1月6日水曜日

★ 草原の記:黒い砂地:司馬遼太郎

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● 1992/07[1992/06]



 農耕文明は、まちを必要とした。
 農耕文明は「物を蓄える」という特徴がある。
 食物、布、金属、什器、さらにいえば過去や現在の収穫や配分のための記録、あるいは農耕のひまなときに読む書籍。
 ユーラシア大陸では城壁に囲まれた都市が発達した。
 政庁は場内の倉に租税として穀物を積み上げ、また商人は布などの商品をたくわえた。
 遊牧民は、古来、者を貯えない。
 不必要に多量な什器や衣類を持てば、移動ができなくなってしまう。
 モンゴル人は、日常かるがると移動することを愛してきた。
 とはいえ、金目のものとしての宝石や金銀の装身具を持つことはあった。
 そういうものなら、移動の場合に荷重にならない。

 チンギス・ハーンの後継者にオゴタイがなった。
 オゴタイは
「財宝がなんであろう。
 金銭がなんでえあろう。
 この世にあるものはすべて過ぎゆく」
 と、韻を踏んでいった。
 この世はすべて空(くう)だという。
 この当時、モンゴルにはまだ仏教が入っていなかったから、この言葉はモンゴルにおける固有思想から出ているといっていい。
 この草原には、古代以来、透明な厭世思想がある。
 オゴタイは続ける。
「永遠なるものとはなにか、それは人間の記憶である」
 映画も財宝も城郭もすべてはまぼろしである。
 重要なのは記憶である。
 オゴタイにすれば、自分がどんな人間であったかを後世に記憶させたい。
 それだけだという。

 オゴタイ・ハーンほど、モンゴル的な人物はすくなかった。
 かれの寡欲に至っては、平均的モンゴル人の肖像を見るようである。
 むろん、寡欲はどの民族にとっても美徳である。
 しかしながら、世界史の近代は物欲の肯定から出発したため、やがてモンゴル近代史にとって、この美質は負に働いてゆく。
 つまり、物欲がすくないために家内工業もおこらず、資本の蓄積も行われない。
 結局はそれらを基盤とした「近代」がこの草原には生まれにくかった。

 日本文化は室町期も江戸期も好事家の文化であった。
 室町期は好事(こうず)のことを「数奇」といい、江戸期では「道楽」といい、家を失い未を滅ぼすとされた。
 西行も芭蕉も宣長も富永仲基も山片バン桃も、何ごとかトクになるためにそれをやったのではない。
 好事への傾斜につき動かされて生涯をおえた。
 この傾向は、アジアの他の地域にはあまり見られない。







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