2010年1月30日土曜日

: 追いかけられた荷風翁

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● 1994/05[1994/03]




 いやがる荷風氏を市川の自宅から浅草まで追っかけ追っかけ、カメラを向けてパチパチに撮りつづけた井沢という青年の話だ。
 往来といわず、電車の中といわず、「尾張屋」というソバ屋に逃げ込んだところまで追ってカメラを向けたという。
 数ある荷風氏の写真の中に「井沢昭彦撮影」とコメントのついたのを目にすることは多い。
 それらの写真はそのとき撮られたものなのだ。

 死の前年の荷風さんを追いかけた井沢氏は当時、多摩美大の写真科の学生だったという。
「新聞社の方ですか?」
 写真を撮らせて欲しいと市川の自宅に荷風さんを訪ねた井沢氏に、荷風翁はそういったそうだ。
「写真科の学生です」
 と答えると、あっさり拒絶された。
 まだ話が始まったばかりでとび出した「新聞社の方ですか」のひと言で、たちまち生身の永井荷風が目に浮かぶ。
 実際に荷風さんを見た人の話はやはり臨場感がある。
 そのあと長々と聞いた話の内容は、帰宅してすぐにメモにとっておいた。

(1).すべてのきっかけは、昭和33年暮ごろの読売新聞の記事。
  記事の内容は忘れたが、風変わりな作家が近くに住んでいるのがわかった。
  荷風氏は市川市、井沢氏は千葉市、同じ県内である。
(2).最初はカメラを厚紙の箱に入れて、開けておいた穴から隠し撮りをやってみたが、うまく写らなかった。
  それで公然とカメラを構えて撮ることにし、何日も追っかけた。
(3).当時は電車も空いていたから、荷風さんの座っている正面に座って写すことができた。
(4).「アリゾナ」(レストラン)はちょっと高そうなので、店の中までは入らなかった。
  「尾張屋」のソバなら安いと思って自分も店に入り、店内でも撮った。
(5).雷門前から荷風さんがタクシーを拾って走り去るところまでしか終えなかった。
(6).ある時とうとう、「馬鹿野郎、交番へ行くか!」と荷風さんが怒った。

 井沢氏はまだ二十歳にもなっていなかった。
 若かったからこそ、なりふり構わなかったのだろう。
 井沢氏がいかにも不思議だったのは、荷風さんがまるで幼児みたいに隠れん坊をすることだったという。
 街灯の細い電柱の陰にたってこちらの様子をうかがうなど、頭かくして尻かくさず。
 突然カメラで追っかけられると、誰しもそんな行動をとるのかもしれないが、なんとも奇妙な姿に見えたらしい。
 やがて荷風氏が亡くなったことを知り、すぐに「週刊大衆」と岩波書店へ写真を「売り込み」に行ってみたそうな。
 マスコミにとっても絶好なタイミングで井沢氏の写真は世に出た。
 「3千円もらいましたね。当時それで軽井沢に一泊のたびを楽しみました」。
 若い井沢氏はうれしかったに違いない。
 公開にあたっては遺族の了解を得た。 

 そういつまでもこのときの写真が命を長らえようとは思っていなかったが、荷風没後三十数年たった現在でも、テレビにとりあげられたり、月刊誌「東京人」の荷風特集(1992年9月号)に登場したりしている。
 荷風氏の写真は数あれど、隠遁者の荷風老人に血気盛んな若者が」奇襲攻撃をかけたところに凄味がある。
 青年の奔放は天の采配だったのだ。

 店の中まで追いすがって写真を撮ろうとした「尾張屋」では、荷風さんが困っているのを見るに見かねて、店の女の子がわざと行ったりきたりして撮影の邪魔をしたという。
 しかし、荷風没後に井沢氏の届けてくれた写真を見て、あまりによく撮れているので、大きく引き伸ばして現在も店内に飾られているという。
 そりゃ一度見てみねば。

 「尾張屋」だが、浅草でこれほど有名な食べ物屋はざらにないくらいの老舗だ。
 場所については新藤兼人氏の一文に「尾張屋は雷門の左右にあって、荷風が行った尾張屋は向かって右の本店である」とすこぶる明解だ。







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: 臨終の現場写真

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● 1994/05[1994/03]




 荷風氏が最後に住んだ家は大体こんな間取りだったらしい。
 亡くなる2年前に新築したものである。
 京成電車の八幡駅のすぐ北、八幡小学校の裏手にあたる。
 玄関を入ると、三畳、四畳半、六畳と部屋が東西に並んでいて、裏手に台所と便所があった。
 日々送られてくる寄贈本や雑誌は多かったろうが、片っ端から古本屋へ打った。
 家具らしいものは机と火鉢ぐらいなものだからさっぱりしたものであった。



 さっぱりしていたといっても、きれいさっぱりなのもなかったのではない。
 むしろ、細々としたものが部屋中に散らかっていた。
 日用品や食料品のビンや缶、箱の類である。
 布団は敷きっぱなしか、せいぜい二つ折りにされたくらいだろう。
 この家に暮らしたのは77歳から79歳という高齢で、しかも独り暮らしだったのであるから、無理もない。
 亡くなる直前には、洋服を着たまま寝たらしい。

 亡くなった日の部屋の一部が新聞に写真で出ていた。
 通いの掃除婦にも絶対立ち入らせなかった奥の六畳はクモの巣だらけだった。
 愛用のコウモリ傘がその部屋の長押に引っ掛けられていた。
 この写真にはおなじみのバッグが見え、その右にこんもりと丸まっているのはオーバーかなにかだろう。
 そして、その向こう側におそろしい光景がくり広げられていたのである。

 「ずいぶん暗い写真だなあ」と思った。
 雰囲気が暗いより何より、全体が黒々としていて、何が写っているのかちょっとわからない。
 国会図書館で探し当てた永井荷風臨終の現場写真を見ての感想である。
 暗がりの中で目がなれてくるように、だんだんと現場の様子がわかってくる。
 わかってくると、背筋がだんだん寒くなってくる。
 火鉢の向こうに人間らしきもの横たわっているのだ。
 
 一番よく見なければならないのが横たわっている遺体なのだが、顔は暗くてよく見えない。
 目を閉じて顔の半分をこちらに向けているのが、かろうじてわかるぐらいだ。
 頭の部分がやけにすべすべしているようなのは、マフラーをかぶっているらしい。
 背広の裾が乱れてまくれ上がっている。
 背中と腰の部分に光が当たっていて、老人の体の輪郭を浮かび上がらせているが、手は物の陰、足は真っ黒な闇の中で、いずれも見えない。

 荷風氏の臨終写真は、没した当時、何かで見た覚えがあるのだが、なにせ30年以上昔のことだから、よく覚えていない。
 今回国会図書館で見直してみたしだいであるが、マイクロフィルムに収録されていたから、投影器で映写して見ることになる。
 左右50センチほどに拡大された画面と一時間ほど対面してきた。

 手前で倒れもせず置かれているのが、荷風氏が片時も手から離さなかった「つり下げバッグ」だ。
 この中に預金通帳や元金が入っていたはずである。
 「定期・普通預金合わせて二千五百万円」とは、当時の新聞記事の報じたところである。
 万年床のかたわらにあった火鉢の中に、食べ物を吐き、そのまま倒れたらしい。
 よくみると口のあたりだけ畳が濡れている。

 人物の死体の写真が報道されるのはまれである。
 死者への礼、生者への恐怖をおもんばかって公開がはばかられる。
 しかし、幸か不幸か公開されてしまった写真はさすが、われわれに訴える力は大きい。
 国会図書館にマイクロフィルム化されていたこの写真は、「アサヒグラフ」昭和34年5月17日号に掲載されたものだ。
 警察の検視で現場が立ち入り禁止になる直前、どさくさに紛れて撮影されたのであろう。
 現在、国会図書館まで行かずとも、もっと手軽にみたくば、毎日新聞社「昭和史全記録」(1989)の628ページに小さな写真で出ている。

 奇人変人としてあらゆる関門を潜り抜けてきた最後の姿である。




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2010年1月29日金曜日

: 文化勲章

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● 1994/05[1994/03]



 「ワハハ」という笑い声といえば、荷風さんは昭和27年に文化勲章を貰っている。
 これは並みの人じゃ真似のできないことで、さぞ会心の笑みをもらしたことであろうかと思われる。
 しかし、これに関しても天下の変人たる面目躍如というべきか、なかなかすんなりとコトが運んだわけではない。

 天皇を「天子さま」と称して崇拝してはいたが、官憲に対しては「薩長の田舎ザムライめ」と憎んでいた。
 お上が差し出す勲章など「フン!」とばかりに一蹴するに違いないとの観測が一部にあったのだ。
 そこをうまく介添えした人がいたのか、意外にすんなり受け取った。
 「拒絶されなくて、役人もさぞホッツとしただろう」とか、「年金がつくと聞いて貰うことにしたらしいよ」とか、外野はうるさかったらしい。

 いつもはよれよれの洋服に買物カゴを下げて野菜を買い出しに出かけていた荷風さんも、11月3日にはちゃんとモーニングを着用して皇居へ出かけていった。
 モーニングは他人に借りたということだ。
 受賞式後の記念写真では、前列左から辻善之助、熊谷岱蔵、梅原龍三郎、、後列左から安井曽太郎、朝永振一郎、永井荷風の順にかしこまって並んでいる。
 たぶんその晩であろう。
 知人が開いてくれた祝宴で、首から勲章をぶる下げて笑っている写真もある。
 相好をくずして、開けた口に抜けた前歯の欠けが見え、ほほえましいことこの上ない。
 あの口から出る笑い声は、息が漏れて「ファツファツファッ」といったところではないだろうか。

 「ぼくの最高傑作は荷風日記36巻かもしれませんぜ」とか、「これからはカタいものを書きましょう」と言っていた荷風さんだが、記録映画でインタビューに答えているのを見ると「別に感想ってないんですがね、もういいものを書くったって、トシとって、もうだめですしね」と語っていた。



 ただ、そのインタビュー場所が「千葉県市川の永井荷風氏宅」だったからたまらない。
 立ち退きを申し立てられている、荷風氏の暮らしぶりの乱雑さ。
 「アベック」の記事はそれを実に見事に描写してくれる。

 四畳半ならぬ立派な八畳間に、古新聞を敷いて古七輪を据え、ハンゴウを火にかけたあたりが台所兼食堂、それと並んで机とペンと、何冊かの本の積み重ねられているあたりが書斎、床の間の前の万年床が敷きっぱなしになっているところが寝室、ということになろう

 荷風氏の背後には七輪、茶碗、コップ、マッチ、大小のビンや缶や箱、机、書物、手紙、布団、コウモリ傘などが、畳の上にところ狭しと並んでいるのだった。






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: 「大荷風」の成立事情

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● 1994/05[1994/03]



 押しも押されもせぬ「立派な奇人変人」になるのは容易なことではない。
 たった一人、山奥で暮らす仙人ならいざ知らず、人の世を渡りながら奇人変人を貫き通すには並々ならぬ覚悟も必要だ。
 家庭内の調和や世間の常識から多くの点で外れていた永井荷風という人間がいかにして出来上がったか。
 奇人変人の見本の一人として、その成立過程をたどってみよう。

 生まれ育ちの最初からたどる必要はない。
 満33歳のとき父親を失った、その前後を見ておけばいい。
 妻を捨て、母親や弟と縁を切り、大学教授の職をなげうち、他人が容易に手出しのできない「大荷風」と化した顛末のすべてがそこに集中している。
 女人の往来もめまぐるしく、食うに困らぬ大金を手にしたのもこのときである。

 偉い父親だった。
 アメリカ遊学などの後、満22歳で官界入り。
 44歳で文部省会計局長を最後に実業界へ。
 日本郵船に入って上海支店長を3年弱、横浜支店長を12年弱勤め、亡くなる一年ほど前に退職、悠々自適の暮らしだった。
 残した遺産は株券(時価で)4万円。
 敷地1千坪に及ぶ豪邸。
 場所は現在の新宿区余丁町、フジテレビや東京女子医大に隣接した高台である。
 当時の評価額でおよそ4万円。



 あわせてしめて8万円。
 米および酒の値段を参考に現在の金額になおすと2億4千万円。
 現在の東京の「地価」で換算するとこの50倍(註:100億円)になる。
 コワイ父親だったが、衣食の不自由を感ずることなく生活できたのはすべて、この父親のおかげだった。
 そして、何だかんだ言っても長男は長男、莫大な遺産は荷風氏がすべて引き継ぐことになる。
 土地半分は慶応大学を退職する直前に売却して2万円ほどの現金に変えたが、その後残りも売り払った。
 これらはすべて永井荷風氏の資本となり、弟はもちろん、母親にも分配されなかった。
 
 身内との断絶、女に対する身勝手、大金の独占。
 「職業は?」と問われれば「小説家」と答えるしかない永井荷風氏の生活基盤はこのようにして成立したのである。
 数多くの作品でわれわれを喜ばしてくれる荷風氏。
 それを愛するということは、実にとんでもない常識外れの人物を愛好することになる。
 読者たるわれわれ自身こそ、とんでもない身勝手なものだと思わざるを得ない。
 お互いの身勝手を百も承知の上で、飄々と散歩していた永井荷風は「先生」や「大先生」といったものではない。



 「大荷風」と呼ぶよりいたし方のない魔物である。




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★ 永井荷風ひとり暮し:松本哉

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● 1994/05[1994/03]



 はじめに

 みんないろんな物を食べて大きくなった。
 そして、いろんな物を食べながら老いていくはずである。
 今まで好きだったはずのものがマズくなったり、それまで見向きもしなかった物が意外に「うまい」 と発見することもある。
 こんなうまい物を食わないなんてどうかしている。
 
 永井荷風を知ってしまった人は幸なのか不幸なのか。
 ある程度の年齢に達しないとわからない珍味の一つである。
 食わず嫌いで一向にさしつかえないし、知らずにすんだほうが幸せかもしれない。
 その代表作は「濹東綺譚」か「雨潚々」か、「四畳半襖の下張」もあるし「日和下駄」や「断腸亭日乗」も。
 いやいや、作品より荷風という人間が面白いのだ。
 どうだい、あの反俗精神。
 反俗? 半俗じゃないのかい。
 文化勲章もらうほどエライのに下駄ばきで買物籠下げて出歩く。
 めっぽう女好きでもあったらしいね。
 そしてあの死に方、カネも名誉もありながら‥‥。

 生きていたときの荷風さんは自分のことをとやかく言われるの、すごく嫌っていたんですがね。
 ここだけの話に荷風さんの話は放っておけませんよ。
 ひょんなはずみで荷風に陥った人と語り合う内輪話。
 せいぜい目を細めて楽しみたい。




 あとがき

 本文中のどこかで、さりげなく触れておいたが、本書は一昨年末「永井荷風の東京空間」という本を出す頃から書き始めた。
 その刊行後すぐに思い知らされたことがあったのである。
 荷風ファンが全国に意外に多数潜伏していることが第一だったが、荷風などまったくご存じない方もまた多いのである。
 荷風という名前からして、「何と読むの?」という質問があった。
 「あなたが喜々として書いている荷風って一体何なのサ」というわけだ。
 人はさまざま、世間は広いのである。

 前著は荷風ゆかりの地を訪ねた本、今回は荷風さんの人間を見た本と申し上げられる。
 「人間」となると、永井荷風という個人名を知っている知らないにかかわらず通用する内容にしなければならない。
 これは大変なことのはずであったが、永井荷風という人にはホント救われる。
 見れば見るほど変わっていてタネがつきない。
 すなわち本書に書き記した通りであって、荷風を大作家として心酔した読者が面食らうこともしばしばだ。
 同じ「人間」として見飽きることがなく、あやしい魅力さえ感じてくる。
 同じ穴のムジナとして共感を覚える人もあるのではないか。
 年齢を越え、時代を越えて、その存在感は不滅である。

 風説をいくら並べ立てても本質は見えてこない。
 永井荷風に関しては詳細な伝記がすでにある。
 それをなぞり直しながら自分が納得のできる形に「整理」することも重要だった。
 第一の章「『大荷風』の成立事情」がそれであるが、多くの人が病みつきになる秘密が見えてくる。
 その他、浅草にしろ、葛西橋にしろ、永井荷風ということを離れても(離れ切れないが)、自分なりの感銘を覚えたことを書き綴っていった。

 書き始めに三省堂出版局から「ひとりぐらし」というテーマを貰い、永井荷風を題材にしてそれを書きませぬか! という奨励を受けた。
 まさに独り暮らしを絵に描いたような永井荷風。
 読んでみたいし書いてみたい抜群のアイデアだった。
 取材でいろいろな話をお聞かせくださった方々の好意は忘れがたい。
 参考文献は本文中でそのつど明記した。
 永井荷風作品からの引用は岩波書店の旧版「荷風全集」により行った。
 便宜上ごくわずかの場合について句読点や送りかな、ルビを加えた。
 挿入してある絵は筆者が書いたものである。
 装丁に関しては旧知の士、菊池信義氏のお世話になった。

 平成六年一月二十日(木)





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2010年1月28日木曜日

: 聖徳太子の「神仏儒習合」思想(しんぶつじゅしゅうごう)

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● 1992/02[1991/11]



 崇峻天皇の後に位についたのが推古天皇だが、この方は歴史記述に残る、東アジアでのはじめての「女帝」である。
 韓国にも中国にも、この前には女性の王はいない。
 韓国の新羅に女性の王が出現するのは、これより半世紀後であり、中国では長い歴史の中で女性皇帝はただ一人、唐代の則天武后だけであり、推古天皇より百年近くも後になる。

 このとき、天皇家に大天才が現れた。
 聖徳太子である。
 太子は伯母にあたる推古天皇の摂政として、政治的発言権を確保するとともに、仏教と天皇制を両立させる道を作りだす。
 いわゆる「神仏儒習合」の思想である。
 太子は、「神道を幹とし、仏教を枝として伸ばし、儒教の礼節を茂らせて現実的繁栄を達成する」という詭弁的論理を編み出し、一を加えても「一を加えても、他を否定することはない」と主張したのだ。
 これは当時の多くの日本人が悩んでいた問題に対する適切かつ現実的回答であった。

 神々は敬わなければならない。
 敬ってなを祟るのが日本の神々である。
 その祟りを鎮めるものが仏である。
 だから、われわれは仏も拝まなければならない。

 神々への恐怖を強調することにより、これを廃することを抑え、その半面で慈愛を説く仏の一面を強調することで、その信仰をも肯定したのである。
 これは、宗教を体系的にまるで考えない便宜主義である。
 およそ世界にこれほど、独創的現実的な思想を発見したものは他に例をみない。

 聖徳太子の「習合思想」の凄まじさは、一神教の仏教と多神教の神道とを、それぞれ別の宗教として、その体系のままで同時に信仰することを許容し推奨した点にある。
 宗教論理的には詭弁としかいいようがない。
 が、現実的な政治効果は絶大であった。
 おそらく当時の日本人の圧倒的多数は、一方において新しい仏教とそれがともなってくる技術とに憧れていたであろう。
 だがその反面では、父母の信じた祖先崇拝も捨てたくはなかった。
 こういう二律背反に悩んでいた人々にとって、理論的な不整合などはさして妨げにはならなかった。
 このため、聖徳太子の唱えた「神仏儒習合」思想はたちまちに広まったのである。

 二つの宗教がともに国家公認として、一人の人間が二つを同時に信仰する道が開かれた。
 まさに「宗教における堕落は、政治における飛躍」だったのである。
 この「神仏儒習合」思想が普及した結果、日本には深刻な宗教対立はなくなる
 同時に厳格な宗教論理も信仰心もなくなった
 その意味で聖徳太子は、世界ではじめて「宗教からの自由」を表現した思想家だったといえる。

 これが、後の日本に与えた精神的影響は、実に重大である。
 複数の宗教を同時に信仰できるとなれば、各宗教のなかから都合のよい部分だけを取り出す「いいとこどり」の慣習が生まれ、「絶対不可侵なる神の教えと掟」は存在しなくなってしまう。
 このことが、文字を知ったのと同じくらい早く起こったために、神道はついぞ聖典や戒律を定める必要に迫られなかった。
 そればかりでなく、外来の仏教でさえも、この国に入ると急速に聖典と戒律を失い、「いいとこどり」の対象になってしまった。
 つまり体系的な形での絶対的正義感がこの国では育たなかったのである。
 日本人の考える宗教との差とは、宗教儀式の違いに過ぎない

 宗教の違いとは、本質的な倫理感の違い、つまり「何が正しいのか」という点での対立である。
 厳密な意味での宗教とは、何が正しいか何が悪いかを客観的事実や利害得失によってではなく、神の教えた聖典と戒律によって定めたものである。
 したがって信仰とは、それを議論するまでもなく、「信じ守る」ことに他ならない。
 そうした宗教信仰の」慣習を持つ人々は、他の事柄に関しても、とかく「絶対的正義」をもちたがる。
 それがなければ不安であり、言動の基準を失ってしまうような気がするらしい。

 ところが複数の宗教を同時に信仰する習慣を持った日本人には、唯一絶対神の教えも、不変の掟もない。
 結局、頼るべきものは「みんなの意見」、つまり、そのときその場にいる人たちの最有力な多数が正しいと主張することだ。






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2010年1月27日水曜日

: 唯一「殺害された」と明記された天皇

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● 1992/02[1991/11]



 仏教はキリスト教と同じく厳格な一神教であり、神道はヒンズー教を上回るほどの多神教である。
 この本質的にまったく違った2つの宗教を、一人の人間が同時に信仰できるのが日本人である。
 これは世界に類例の乏しい特徴であろう。

 どこの国でも、一人の人間がある時点で信仰している宗教は一つなのだ。
 本来、宗教とはそうした排他性(非寛容の精神)を持つものなのである。
 一見、日本と似ているのは中国だ。
 ここでは道教、仏教、儒教、祖先崇拝などが同時的に行われている。
 しかし、これらは長い間に相互に混合し合って、「中国的宗教総体」(余英時氏の言葉)を形成しているのであって、別々の宗教を同一人が信仰しているわけではない。

 どうしてそうなったのか、じつはこの外国人には信じがたい現象こそ、日本人が抵抗なく欧米の近代文明を受け入れ得た基礎になった気風、いわばこの国の民族性なのである。

 神道はごく素朴な、いわば自然発生的な信仰である。
 外国人はまず「神道の聖典は何か」と尋ねる。
 だが、これには答えようがない。
 神道には聖典がまったくないのである。
 「じつは神道には聖典がないんですよ」と答えると、外国人は「あの結婚式や起工式で神主が読んでいるのは何か」と聞く。
 「あれは、その都度、よさそうなことを書くのであって、特定の聖典から抜粋したわけではない」というと、もう一度驚く。
 神道は誰でも何時でも「預言者」になれるのである。

 次には「神道の戒律は何か」という質問がくる。
 ここでもまた答えられない。
 神道には戒律も存在しない。
 要するに「悪いことをしてはいけない、ということです」というものの、その「悪いこと」が何かを規定した文章やいい伝えが何処にもない。
 古事記を何度読んでも戒律らしきものには出会わないのである。
 神道における「八百万神」の概念は、雷や台風などの自然現象、山、滝、大石などの自然物であり、それに祖先崇拝の思想が重なって出来上がっている。
 このこと自体は世界中どこでも起こりやすい宗教の原初的形態といってもよい。
 しかし、その原初的形態が、今日にいたるまで聖典も戒律もないままに続いてきたのは珍しい。
 つまり神道は、宗教としての絶対的価値観、つまり「神の言葉と掟」を持たないのである。
 この絶対的価値観を持たないことによって、他の価値観と共存できたのである。

 仏教は新しい知識と技術を伴っていた。
 医療薬学、建築、利水、金属鋳造などの技術が仏教とともに流入し、そういう技術を持つ帰化人には仏教徒が多かった。
 仏教徒に先端技術者が多かったことが、経済的文化的な興味と現世的な利益と絡まって、この新宗教を非常な勢いで普及させたのである。
 これによって古代大和の王国が栄え、産業が活発になり、土地開発が進んだ。
 新しい宗教の布教活動には現世利益が常につきまとっている。

 仏教の国教化をめざす崇仏派と、日本古来の「随神の道」(かんながら)の護持を主張する排仏派との間で大戦争が起こった。
 蘇我・物部の戦である。
 日本史における、唯一の宗教戦争である。

 天皇家が最高位にある理論上の根拠は、神道神話にある。
 日本(大和朝廷)は、天照大神の子孫の神武天皇が降臨して建てた国ということになっている。
 その神武天皇の子孫が天皇家であるという神道神話に依って、天皇家(おおきみ)が日本の支配者となっている。

 この頃には仏教だけでなく、中国や朝鮮半島の思想や歴史情報が全面的に入ってきているはずである。
 その中には、中国ですでに確立されていた「易姓革命(えきせい)」の思想が加わっていたはずである。

 天子は徳を以って国を治めるべく、天命を受けた人物である。
 徳の高い人がまず天子になり、その子孫が祖先の徳によってこれを引き継ぐ。
 だが、天命が尽きて徳のない人物が子孫に現れるときはその王朝は滅びる。
 そして別の徳の高い人に天命が下り、これまでとは違った新しい王朝(姓の異なる王家)がはじまる。
 したがって、王朝の姓が易(かわ)るのは、天命に従った正当な変革である

 というものである。
 この「易姓革命」思想は、周の文王が殷を滅ぼして周王朝を興したとき、それを正当化するために生まれたとされている。
 殷-周-春秋戦国-秦と変わり、そして漢が生まれる。
 やがて漢も天命がつきて徳がなくなると滅亡する。
 こうして数々の王朝が興亡していたので、「易姓革命」思想は政治概念として定着した。

 この思想には、極度の革命性を持つと同時に、有力者が君主に反逆することも可なりとする倫理を含む戦闘的な内容を持っている。
 易姓革命の思想からすれば、日本では天皇家の徳が尽きれば、別の家系の徳の高い人物がこれに易(かわ)ってよい、ということになる。
 こんな思想が「先進国」から伝わっただけでも天皇家の地位は危ない。
 蘇我氏らの崇仏派から擁立された崇峻天皇も、それに気づくと神道擁護の反仏教にならざるを得なかった。
 崇峻は、言を左右にして仏教の国教化を先送りにし、神道を守り通そうとする。
 その結果、即位五年で、蘇我馬子に殺されてしまう。
 日本の歴代天皇のなかで、「殺害された」と明記されているのは、「崇峻ただ一人」である。
 
 日本には、どんなに政争が激しい時代にあっても、「天皇だけは殺してはならない」という考えがあるが、この時代にはそういう概念は確立されていなかったのである。






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2010年1月26日火曜日

: 水は血より断然濃い、集団主義

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● 1992/02[1991/11]



 狩猟牧畜時代を経ることなく、稲作農業をはじめた日本の歴史は、この国の社会に数々の特色をもたらした。
 その一つは「動物とのかかわり」が乏しかったことである。
 家畜を飼育し使役するには、意思をもった相手を制御し、抑圧することが必要だ。
 羊や牛馬は意外と強い意思を持っているし、集団になると御しがたい行動に走る。
 それを制御し使役するとなれば、人間と動物の間に支配・被支配の関係が生まれる。
 そうした経験の中から、意思をもった相手を支配することを正当とする思想と技術が生まれる。
 これは当然、人間にも適用されていく。
 つまり、牧畜生活や有畜農業からは奴隷制が発展しやすい条件が生まれてくる。
 日本は、意思あるものを支配する経験が乏しかったため、奴隷制が発達しにくかった。

 この国の風土を生んだもう一つの重要な歴史的欠落は「都市国家」ないし「都市国家時代」がなかったことだ。
 峻険な山地と狭い平野で構成された日本では、稲作が始まったときから、これを襲う遊牧民族がいなかった。
 異民族との過酷な戦争がなかった。
 そのおかげで、この島国では古来、防衛費はきわめて安く、徴兵の度合いもすくなかった。
 なにしろ日本人は、「城壁のない都市」をつくった世界唯一の民族なのである。
 大砲が発達して城壁の軍事的意味がなくなるまでは、世界のすべての都市は城壁で囲まれていた。
 アテネもローマも、パリもバクダッドも、デリーやペキンも、すべて堅固な都市城壁で囲われていた。
 城壁に囲まれていたところを都市(ポリス・シテイー)と読んだのである。

 日本にも戦争はあったが、このほとんどが内戦、つまり日本人同士の戦いだった。
 そしてその日本人とは、ほとんどすべて農耕民だった。
 日本の戦争で、住民皆殺しが行われた例は、織田信長の伊勢長島攻めくらいであろう。
 大量の労働力を必要とする稲作を行うためには、土地とともに人も支配しなければならなかった。
 このため、隣の土地を支配した者は、そこの住民を殺すよりも働かせた。
 年貢徴収や労働課役は行っても皆殺しにすることはなかったのである。
 一般住民も、戦争の間だけ他の場所へ避難して、終わればすぐに戻ってくればよかったのである。
 日本の都市にだけ城壁がない。
 日本にあるのは城下町(城の側の町)であって、「城内町」(城に囲われた町)ではない。

 日本の特殊な気候と地形から、「牧畜有畜と大規模奴隷制と都市国家」の3つを、我々の先祖は経験しなかった。
 このことは、気象や地形そのもの以上に大きな影響を日本文化に与えた。
 つまり日本人は強烈な支配・被支配の関係を嫌う「嫉妬深い平等主義者」になったのである。


 文明の初期に稲作農業が発達したため、日本ではすべてを均質化する要素を持つことになる。
 稲作は労働集約的であり、水の維持管理のための共同作業と共同分配が必要となる。
 したがって、完全な稲作農業社会においては、個人または家族が、他の集団から独立して生きることは不可能なのである。
 「あいつの田には水をやらない」といわれたら、それで終わりである。

 ジンギスカンの伝記を書いた「元朝秘史」によると、ジンギスカンの父親は部族の長だったが、若くして毒殺された。
 このため、それまで反主流だった者が族長となって集団を率いることとなった。
 が、これを快しとしないジンギスカンの母親ホエルンは、群れから離れて一家だけで十年暮らしたと記されている。
 遊牧民には、それも可能なのだ。
 しかし、水田農業社会の日本では、ひとたび村落共同体から追放されると生きられない。
 織田信長に追放された佐久間信盛は高野山から熊野の山奥に行ったものの、早々と餓死してしまった。
 「水田が駄目なら山がある」
というわけにはいかないのである。

 日本人が離れがたく帰属する村落共同体の紐帯は、宗教や血縁ではなく、稲作という「経済的生産機構」である。
 「血は水より濃い」といわれるが、日本の場合は逆で、水は血より断然濃い
 血のつながりのない養子制度が発達し、土地、家屋、ノレンなどの生産手段を守ることが重要視されるのはこのためである。

 稲作というのは勤勉な共同作業を必要とするが、その内容は毎年同じことの繰り返しであり、急激な変化に対応する判断は必要ない。
 動物を制御することがなく、支配・非支配の発想も希薄な日本では、みんなが一緒にやろうという集団主義が定着したのも不思議なことではない。
 この国のリーダーに求められるのは、先見性や決断力ではなく、稲作共同体を平穏無事にまとめる温厚さと、率先して労働に従事する自己犠牲の精神である。
 日本型共同体で何よりも大切なことは、リーダーの選出にあたっては、誰もが納得できる客観的な基準で選ぶことだ。
 これを間違えば共同体の和が乱れてしまう。
 その最も客観的な基準は「年齢」だ。

 日本人はつねに、有能なリーダーを選ぶことより、リーダーが強くなりすぎないことの方に留意した。
 その究極の解決策は、リーダーをつくらないことだ。
 いわゆる「傘連判」がそれである。
 「傘連判」の風習は16世紀中ごろまで全国に広く見られた。
 これが消滅するのは戦国時代の後期、リーダーシップが必要な大規模な戦闘が広まった後である。
 リーダーシップの乏しい集団では、権限は多数に分割され、みんなが協議して事を進める集団主義が生まれる。
 実際主義に次ぐ社会精神基盤、いわば日本の「気性」は、この集団主義といってよい。






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★ 日本とは何か:実際対応主義:堺屋太一

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● 1992/02[1991/11]



 日本は「経済大国」と言われているが、その実態は「規格大量生産型工業」のみが大いに発展した「工業モノカルチャー社会」だ。
 そうなったのは「最適工業社会」がこの国で出来上がったからだ。
 工業技術が高度に発達した1970年代以降になって、なぜ、この島国に、世界のどの国よりも純粋な最適工業社会が出来上がったのか。
 この問題に答えることは、日本そのものについて語ることに他ならない。

 明治維新の前後、19世紀の半ばに、欧米の近代技術と接触したのは日本だけではない。
 イスラム諸国もインドも、日本よりずっと早く欧米の技術や知識と背職したし、中国にも多くが流入していた。
 ヨーロッパからの移民が主流を占めた中南米諸国には、日本よりはるかに多くの欧米文化や技術が入っていたことはいうまでもない。
 なのに、これらの国々では近代工業が開花しなかった。
 ヨーロッパと北アメリカ以外では、日本だけが近代工業を興し得たのである。
 つまり、知識と技術と制度さえ流入すれば、どこでもすぐに近代工業が興り、社会的に普及するわけではない。
 これを消化し内生化し、全社会的に普及するためには「倫理観と美意識と社会体制」をそれに適合させる必要がある。

 つまり、技術進歩を受け入れ、大規模に利用することを「肯定する」思想背景、いわば近代社会的な倫理観と美意識が、社会全般に定着していることが不可欠なのである。
 ヨーロッパの場合は、こういう近代工業文明を受け入れる思想的背景をつくるために、16世紀のルネサンスから18世紀にいたるまでの300年間にわたる倫理観と美意識の対立、つまり思想的闘争が必要であった。
 ヨーロッパ人は、非常な苦悩に満ちた思想的闘争を経た末に、18世紀にいたって、ようやく技術が普及する社会的条件をつくり得たのである。

 イスラムやインドや中国が、ヨーロッパ近代文明に接しても、それが普及し、大規模に活用され、全社会的な変動を呼び起こすことがなかった最大の原因は、こういう思想的倫理的な条件を欠いていたからである。
 これらの地域では、今日においてもなを、欧米近代工業の普及は多くの抵抗を受けている。
 1979年に起こったイラン革命は、その劇的な現れといえるだろう。

 そもそも日本には、近代工業文明を拒むような確固とした「非近代的思想」が定着していなかった。
 日本人は、古くから「文化を体系的なものとして捉える視点を持っていなかった」。
 あらゆる事柄を、きわめて個別的具体的に考え、実際的に対応する発想しか持っていなかったのである。
 二千年にわたる歴史を通じて、つねに変わらぬ「日本社会の気風」を探すなら、それはまずこの「実際対応主義」を挙げねばなるまい。




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2010年1月21日木曜日

: 「我が秘密の生涯」

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● 1992/10[1992/09]



 アシュビーの類を見ない美点として、自分の読んでいない本や、見ていない本に対してはコメントを差し控えるという能力がある。
 私がこれからとりあげる本は、これまでいろいろな人々によって語られてきたが、私見によるかぎり、そのうち誰一人として、原物を読んだことがないという本である。
 その本の紹介かたがた、まずその本に対する、活字となっているコメントを振り返ってみたい。
 この作業をするこよで、我々が検証を加えているサブカルチャーにおいては、学識と称されるものがどのようなものなのかが、非常によくお分かりいただけるはずである。

 問題の本は『我が秘密の生涯』であり、本書に関して諸家が一致している唯一の点は、この本が稀覯書中の稀覯書であるということだけである。
 ------<略>-----

 『我が秘密の生涯』は同じ体裁の11巻からなっており、総ページ数は「4,200ページ」におよんでいる。
 各巻のタイトルページには「アムステルダム・私家版」という文字が見える。
 日付は入っていないが、印刷は1890年という年を真ん中に挟んだ時期に行われたことはまずまちがいない。
 組版の出来はあまりよくない。
 スペルや構文や句読法の誤りが相当あり、そこから推して組版にあたった者の母国語はフランス語(オランダ語ではなく)だと断定できそうである。
 本文は印刷所においても著者によっても校正がなされていない。
 原稿は印刷者にかなりの分量の一まとまりずつが手渡され、印刷者がそれを仕上げて作者に届けたとき、また新しい原稿を貰うというような具合だったようである。
 たとえば、第3巻の初めのところで、作者は、第1巻、第2巻はすでに印刷が終わっており、それを全部読み通してスペルや字体の誤りに気づいているということを述べている。
 この作品の印刷が完了するのには、少なくとも数年はかかっており、その当時六十代の半ばに達していた作者は、明らかに早く仕上げようと焦っており、「完成の時期の遅れ」を心配していた。

 『我が秘密の生涯』の作者は、完璧にとはいかないまでも出来得る限り自分の身許を秘密にしたいと思っていた。
 その目的のために、彼は日付を出さず、名前を変えたり、場所を違えたり、その他の様々な方法をとったりしている。
 しかしながら、作者はそれをまったくにお行き当たりばったりに行っており、何らの一貫性も周到性もないので、作品の中で描かれている出来事の日時や場所を特定するための手がかりを発見するのは実に簡単である。

 『我が秘密の生涯』全11巻は比類のないドキュメントである。
 それは非常に早い時期から自分自身の記録をつけ出し、それを40年以上にもわたってつけ続けた一人のヴィクトリア朝の紳士の性の記録である。
 全11巻の各巻の註として散在している作者自身の言葉によれば、作者は当時の多くのイギリス人と同様に若いときにつけ始めた「ある種の日記」を持っていた。
 しかしながら23歳から25歳の間のある時期から、彼は自分の性の経験や出来事の詳しい記録を書き始めた。
 彼はそれを相当の期間にわたって続けたのち、やがて「厭きてやめてしまった」。
 35歳ごろ、彼はある女性に出会い、彼女や彼女が紹介してくれた人々との間で「男と女が行うことのできるすべてのことに関して、じっくり話し、聞き、見ることができた」。
 この体験がとても強烈だったので、彼は「その記憶が鮮明な間に、4年間にわたる様々な出来事を綴り始めた」。
 その後、彼はこの女と別れ、すぐに「私の青年期と中年期との間の時期の出来事を書きとめる作業に入った」。
 
 だいたいこの時分に、彼は病に冒された。
 彼は2度、病気になっており、どちらの病気についてもあいまいにしか書いていないが、-----------。
 2度目の病いに襲われ、回復期という「中断されない長い休暇」の時間に、また彼は原稿にとりかかった。
 再読し、「日記を参照しながら、忘れたことを適切な個所に書き加えた」。
 彼の心の中に「20年以上も前に始めたこの作品を印刷してみよ」うという考えが初めてひらめいたのはこのときだった。
 当時、45歳だった彼は「成熟期に入り、人生でもっとも好色な時期にさしかかっていた」と興味深いことを言っている。
 この時期はそれから約20年間続くことになる。
 作者は「事があると、その直後にそれについて書くことを楽しみとし」、また習慣ともしていた。
 「それはかなり省略した形だったから、私はたいがいその翌日にそれを長く引きの伸ばして書いた」。

 まず作者は性体験をもち、それを日記の形で書きとめる。
 それから間をおかずに、たいていは2,3日中に、できる限り詳しいエピソードを丹念に書き上げる。
 そうやって長い時間がたつと、原稿がたまってくる。
 ある間隔をおいて、後になるほど頻繁に、作者はだんだん分量を増してくる原稿を再読し、再配置し、分類し、順序を正し、訂正し、短くし、コメントを加えたのだろう。
 作者が原稿を印刷に付そうと決心したとき、原稿の最終的な再読と訂正がなされた。
 名前を変更し、日付と場所を伏せ始めたのはこの時だった。
 作者はまた全体を通して時制を変更し、統一した。
 原稿の大部分は現在形で書かれていたが、それを過去形に直したのである。
 この再読の過程で、描かれたエピソードや、自分自身の態度や、書かれた時点以後に起こった変化などに対しての批評的あるいは理論的な省察の文章が書き加えられた。
 いよいよ最後の再読と編集のときに、彼はコメントに対するコメントも付け加えた。
 これらのコメントはときに〔 〕印を付して挿入されている。
 また別の場合には全部の文章を書き替えている。








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2010年1月20日水曜日

: ポルノグラフイーの帝王、ピサヌス・フラクシ

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● 1992/10[1992/09]



 1877年3月30日、ロンドンのある印刷所から私家版の一冊の本が出版された。
 部数は250部である。
 およそ2年間にわたって、この印刷所はこの原稿にかかりきりであった。
 この出版は困難をきわめた。
 出版所の規模は小さかったし、本文の内容は複雑かつ専門的で、おまけに数ヶ国語で書かれていたから、校正者たちにはどこに間違いがあるのかわからなかった。
 また、組版にあたった植字工も一カ国語しかしらなかった。
 その結果、著者自身が何度も校正版に目を通すことになったが、その作業は綿密を極めたことは、巻末に添えられた7ページにわたる正誤表にも現れている。

 この本のタイトルは
 『インデクス・リボルム・プロヒビトルム(禁書目録・珍書、奇書に関する書誌学的・図像学的・批評的ノート)』
 という。
 体裁は大きな四つ折本で、淡い色のついた重い紙を使っている(重さは4ポンドにもなる)。
 序文が16ページ、436ページの本文、38ページの参考文献、56ページの索引から成り立っており、補遺(アデイション)などを含めると総ページ数は621ページに達している。

 『インデクス・リボルム・プロヒビトルム』---このタイトルは言うまでもなくローマ・カトリックも検閲目録の名前をもじったものである---は、ポルノグラフィーと性関係文書に関する英語で書かれた初めての書誌である。
 だがこの『インデクス』はある全体の一部にすぎなかった。
 1879年には第二巻『セントウリア・リボルムアプスコンデイトルム(秘本の一世紀)』が、
 1885年には第三巻『カテナ・リボルム・たせんどルム(秘本シリーズ)が出版され、
ここにピサヌス・フラクシの計画が完成した。
 この3部作の書誌は、英語におけるこの種のものとして最初もものであるばかりでなく、疑いもなくもっとも重要なものであり、おそらくどの言語で書かれたものの中でもっとも重要なものである。

 この分野でこの書以後に出版されたものは、すべてこれを土台としている。
 参照するか、直接引用するか、全くの種本とするか、手段はいろいろあるが、ポルノグラフィーにまつわる伝説や噂や、広汎にひろがっている空想などの大半は、元をたどっていくと、鎖文字の不思議な連鎖のように、このピアヌス・フラクシの著作に行き着くのである。
 これほど影響が大きかったのは、著者の知識の該博さや著作の網羅性ということもあるが、そればかりではなく、この著作が書誌という形をとっていたことにもよる。
 この3部作は単にタイトルと発行年月日、エデイションなどをリストにして載せただけではなかった。
 項目のほとんどすべてに著者は内容の要約を加え、自在に引用し、注釈し、自分の観点から批判し、関連のありそうな情報を披瀝しているのだが、その知識たるや恐るべきものであった。

 したがってこの3部作を二次資料とみなすことはできない。
 それらは社会史と道徳史の様々な問題点に触れた、興味の尽きない一次資料なのである。
 さらにこの3部作は富裕な愛書家、ポルノグラフィー収集家たる一人の人間の独特な精神に我々を導いてもくれる。
 
 「ピサヌス・フラクシ」とは「ヘンリー・スペンサー・アシュビー」の偽名である。
 アシュビーは1834年ロンドンに生まれ、『大英人名事典』によれば、若くして「マンチャエスターの大商店コープステイク商会に勤め、----長年そこの仕事であちこちに旅行した」という。
 1860年代の終わり頃までにアシュビーは「かなり財を築いていた」ので、それ以後、余暇は「旅行と書誌作成と書物収集」とに没頭した。
 広範囲にわたり、よく分類されたポルノグラフィー関係文書のコレクションは何処から見ても、かって一人の私人の手によって集められたものの中で、質量とも最高のものである。

 アシュビーは1900年に死んだが、このとき「15,299冊」に及ぶ稀覯書が大英図書館に遺贈された。
 フランスの資料によれば、大英図書館は初めこの遺贈を断ろうとしたそうである。
 しかしアシュビーは、大英図書館がポルノ関係文書を受け入れてくれることを条件に、『ドン・キホーテ』のすべてのエデイションと翻訳書のコレクションを遺贈することとしたために、大英図書館はこの受け入れに同意したのである。
 今もこのコレクションはそのまま大英図書館に残っているはずである。






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2010年1月18日月曜日

★ もう一つのヴィクトリア時代:訳者あとがき

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● 1992/10[1992/09]



 本書は Steven Marcus, 「The Other Victorians」の全訳である。
 序文でお分かりの通り、原書の初版は1966年に刊行され、1974年に第2版が出ているが、新しい序文と若干の註が付け加っただけで、本文に変更はない。
 著者、ステーヴン・マーカスは、1928年ニュヨーク生まれ。
 現在は、ニュヨークのコロンビア大学教授。

 本書はまず何よりもポルノグラフイーの古典、『我が生涯の秘密』の存在を世に知らしめたことで、人々の関心を集めた。
 いや、と言うよりはむしろ、本書によって、『我が生涯の秘密』が、ポルノグラフィーの古典、その金字塔として脚光を浴びることになったと言うほうが事実に近いかもしれない。
 とはいえ、今更言うまでもないことだろうが、本書は、、『我が生涯の秘密』の単なる紹介書ではない。
 本書にとって、『我が生涯の秘密』は、ヴィクトリア朝という時代、文化を浮き彫りにするための一素材であり、かつまた、ポルノグラフィーという文学ジャンルの本質を突くための一つの典型であるに過ぎない。

 「ヴィクトリア朝的」という形容詞で語られているような、取り澄ました偽善的な文化世界と、その時代に花開いたポルノグラフィーに象徴されるような地下世界、その二つの世界が通底しあっていること、いや、その二つが、一つの時代における同じ一つの意識、同じ一つの強迫観念の二つの現象形態、表裏のものに他ならないというのが、本書が実に説得的に論じきった、著者の認識である。
 そして、著者は、自家薬籠中の、文学批評と社会学的分析の手法を駆使して、ポルノグラフィーの内実にまで降り立ち、そこに表現された人間存在とその意識を手繰りだし、そして、それが
 「幼児的な性生活のファンタジー----そして思春期の自慰的な白日夢の中で改変され、再組織されたその同じファンタジー----の再現」
 であることを突き止める。
 こうして、著者はこう結論する。
 「人間の成長にとって、そうした一時期を通過することが避けられないとしたら、我々の社会がその歴史の過程において、そうした一時期を通過してはならないとは、わたしにはどうしても思えない」
 と。
 だとしたら、ヴィクトリア朝とは、筆者にとって、我々の社会の思春期であったということになるだろう。

 では、思春期を経た、今日の我々の生きる社会とは、成熟期を迎えた社会ということになるのだろうか。
 だが、それにしては性についても、ポルノグラフィーについても相変わらず未解決のままである。
 いや、ヴィクトリア朝の時代にもまして問題含みのものになっていると言うべきであろう。
 今はまさに、人間の性衝動について、ポルノグラフィーについて、フェミニスト的観点から問題提起が活発に為されているという状況がある。
 しかし、ともすれば、現象的な功罪論に終始しがちなそうした議論に、ポルノグラフィーの歴史と内実に迫った本書は、一石を投じ得るものと確信する。

 1990年7月






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2010年1月16日土曜日

: 貧乏は敵だ!

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● 1991/08



 昭和58年1983年、日本は貧乏を正式に禁止した

 すなわち、いかなる理由があろうとも「貧乏」をすることは許されざること、となったのだ。
 貧乏はすなわち違法となったのである。
 貧乏人には強制的に、ウムをいわせず、無理やりに金が押し付けられた。
 この執行を妨害、拒否する者は、受領義務金のほかに多額の罰金刑が加算され、いちどきに大富豪にさせられるという極刑が下されることになった。
 国民の懐は重くなる一方で、大金が部屋に充満すると、強制的に大邸宅が押し付けられ、否応もなく富まされるのだった。
 無論貧乏時代を懐かしむことも固く禁止され、陰で貧乏を楽しんでいるのが知れれば、たちまちのうちに、気の遠くなるような莫大な財産が課されて、とどまることを知らぬげに私有財産は増える一方の有様なのだった。



 「もうたくさんだ!!」
 と、決起したのは、ケッキ盛んな学生、不満分子の兵士たちで、彼らは「オレたちに金をくれるな!!」、罰金はたくさんだ、金なんぞいらない!!、と、口々に絶叫した。
 しかし、こんな講義は、しょせん蟷螂の斧にすぎなかった。
 一年のうちに、日本国中の貧乏は一掃され、オダイジン一色に塗りつぶされてしまったのである。
 恐るべき富有主義の嵐だった。

 一年後、もはや富有主義は津々浦々まで徹底し、近隣に少しでも貧乏の徴候が現れるや人々は争そって金をなげつけるのだった。
 もはや国がワザワザ公権を公使する必要もなくなったのである。
 人々はこの残酷無比の行為を「助け合い運動」と呼びならわした。
 もはや、一片の貧乏も世間には許されなくなって、「びんぼう」はほとんど抽象的な死語となっていたが、相変わらずその糾弾だけは周到に用意されていくのだった。
 人々はすでに貧乏の意味さえ忘れていたが、昔日を回想することも不可能なまま、いたずらに貧乏を嫌悪する、意味もなく貧乏を忌み嫌う単なる金持ちに成り果てていた。

 「ムロン、貧乏はいけないのであるが----」
 と、男は思った。
 体の奥の方から聞こえてくるなにか原始的な叫びに耳をかたむけた。
 「ムロン、金があるにこしたことはないのだが」
 しかし、それ以上はもはや考えが及ばなかった。
 あとはもう、どんなイメージも沸いてくることはなかのだった。

 199*年、日本は世界一のお金持ちなのだった。






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: 板の間インテリア

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● 1991/08



 なんだかんだといいましても、日本人(タイシュー)はリッチですねエ。
 ヨーフクも買いました。
 食い物にもうるさいもんだから、山本益博の本に出ている店はシラミ潰しにあたってます。
 今の世の中は、タイシューが「王侯貴族を追体験する時代」なんです。
 しかしまア、金があるったって、限度はあるから、そう湯水のようには使えない-----。
 んが、シカシもはやタイシューの欲望する物は、衣食から「住の部」へ突入しておりますよ。
 そう!! インテリアには、大いに興味を示しておりますんでございます。
 
 インテリアといえば、当今はなんといっても板の間である。
 板の間がなくちゃ、ナウでありません!!


 CMをごらんなさい。
 板の間のないCMがありますか?
 もはや板の間なしでは現代のインテリアは語れません!!

 そういうわけで今回は、板の間のインテリアの注意事項、陥りやすい間違いを、チェックしておきたい----と、このようにおもいますです。

 キンモツ その1:「縁側的なるもの

 ナウなインテリアの板の間には、置いちゃイケナイものがあります。
 コーデイネイトを間違えると、単なる「縁側に逆戻り」。
  座布団にチャンチャンコ、
  白黒のブチネコ、
  菊の盆栽、
  湯呑み茶碗にキュース、
 これはイケナイ。
 つまり「年寄りがキンモツ」です。


 キンモツ その2:「教室的なるもの」

  ランドセル、ゾーキン、バケツ
 というのもいけません。
  ウワバキ、ゾーリ袋
 等にも気をつけたい。
  黒板、黒板フキ
 等もしりぞけなくてはいけないものです。
 つまり「ガキがキンモツ」。


 キンモツ その3:「銭湯的なるもの」

 しかし、なんといっても一等キンモツは----。

  脱衣カゴ、
 あれがイケナイ。
  体重計、ロッカー
 等もイケマセン。
  センメンキ、石鹸箱、タオル掛け、柄の短いホーキ
 もマズイです。
 もちろん、
  アンマ椅子
 を置いてしまったりしちゃ、ダイナシなのであります。
 
 インテリアは思想であります。

 CMのように生きること、

 これが現代人の希望であり、現代人の理想なんです!
 畳をカーペットで隠している諸君!
 とりあえずその上にスノコを敷きつめよう!
 スノコを敷けば、そこはもう板の間だ。

 しかし、諸君。
 この場合はもっと細心の注意が必要だ。
 この思想はややもするとそのまま銭湯的になりがちだからだ。
 さよう、インテリアに最もキンモツなもの、
 それはアンタ!
 「大衆ですよ、大衆、タイシューがキンモツ!!








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★ シンボーの絵と文:otoboke歳時記:南伸坊

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● 1991/08



 一月 january

 お正月には、いろいろやることがたくさんある。


 さんざん見たり、つまみ食いをしたのは「去年のこと」。
 そうして去年のうちは、つまみ食いだから、とてもおいしかった。
 おぞう煮もいそべ巻きも、お正月に食べるより、去年に食べるときの方がおいしかった。
 そうしていざ、ほんとうに食べていいお正月になると、もうすっかりあきてしまっていたのだった。

 つまり、お正月っていうのは、まるで「いまどきのコドモ」のようなのだった。
 なんでもそろっていて、いろいろいっぱいたくさんあれこれあるんで、食べる前から、遊ぶまえから、もうお腹いっぱい胸いっぱいなのである。
 ふるさとは遠くにありて想うものなら、正月は去年のうちに指折り数えて楽しみにする、そのときこそが楽しいもののようだった。
 もういくつ寝るとお正月だろうか?
 と、おもっているときこそが「お正月」なのである。
 ほんとうにやってきてしまったお正月っていうのは、そう、たとえていうなら「現実のお正月」みたいなもんなのだ。




 二月 february

 2月になると、節分といって豆まきをします。


 それにしたって、食べ物を投げつける、ばらまくというような「ソマツ」をするということは道徳に反することです。
 TVなら「お子さんは絶対にマネをしないで下さい」とテロップを流すか、裃に威儀を正した小錦や長島二世に時々その旨を徹底してもらわないといけないでしょう。
 それがどうでしょうか。
 大人がそれを率先して行い、子どもにも豆入りのマスを渡して
  「おまえも、鬼は-外、福は-内! といいながら撒きなさい!」
 と命令したりするわけです。
 しかし、これは道徳に反することかもしれないが、たしかに「面白い」。
 鬼に豆がパラパラふりかかったりしようものなら、いよいよもって面白いというワケです。
 豆を捨てたり、しかも他人の顔にぶつけたりというような反道徳的で、もったいないことを、
  1年に1回はおおぴらにやってよし!
 というワケで、なかなか話のわかった行事なんではないでしょうか。






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2010年1月15日金曜日

: 読むことと、書くことと


● 1984/04



 易経の総論といわれる「繋辞伝」の中に次の文章がある。

 書は言をつくさず、言は意をつくさず

 書とは文字のこと、言は言語のこと、意は心に思うところの思想や感情のことだという。
 そこで通釈文は次のようになる。

 文字はいくら詳しくこれ書いてもことばで述べることを余すところなく書く尽くすことは不可能である。
 言語はいくら詳しくこれを述べても心の中に思っているところを遺憾なく述べつくすことは到底出来ない

 これはかなり強烈な「言語無力説」である。

 東洋の言語観には禅宗の「不立文字」をはじめとして、この言語無力説を底に敷いているものが多いようだ。
 もちろんこれとは逆の立場の「言語言霊説」も強力である。
 改まって「ことばは万能か?」と自分に問えば、即答できない。
 いや即答どころか一生考え詰めても答えは出そうにない。
 つまり、その程度は言語無力説を信じているフシがある。
 もっと厳しくいえば、定見がない。
 定見がないままに、言語無力説にちょっと重心をかけている。
 これが正直なところである。

 近頃は西洋の学者や思想家も、東洋のこの言語無力説を容れて、たとえば-------。
 いずれも
  「はじめにことばありき」
 という西洋の「言語神授説」からの脱出の試みといっていい。
 そこで、こちらとしては
  「西洋の知がいよいよ行き詰って、関心がわが東洋に向いてきたか」
 と気をよくし、言語無力説により重心をかけようとしてしまいがちであるが、これはいけない。
 文章を綴って口に糊をしているのだから、それでは文章様に申し訳がない。
 かといって言語言霊説の信者になるのもいやである。

 そこで持ち出したのが、ことばは時間に対抗するための人間にとっての唯一の武器だという説である。
 この説については前に述べたので、繰り返さないが、筆者はまず、この宇宙で最大の王は「時間」である、と考えた。
 この王の治世下においては、永遠でありたいと願うことは許されない。
 だが、人間として、永遠という言葉を発明してしまった以上、やはり永遠でありたいと願わざるをえない。
 人間はやがてことばが、いささかではあるが、時間を超えることに気づいた。
 こうしてわたしたちは「読書行為」に「過去とのつながりたい」という願いをこめるようになった。
 そして「書記行為」に「できるだけ遠い未来へとつながりたい」という想いをこめた。

 この2つの行為によって、ヒトが言語を手にした瞬間にはじまり、過去から現在を経て未来へとつながっていく途方もなく長い連鎖が見えてきた。
 「読書と書記」という2つの行為によって、わたしたち一人ひとりがその長い連鎖のうちの一環になることができるのである。
 書かれたものを読むことで過去がよみがえり、よみがえった過去に足を踏まえて、未来に向かって書く。
 このようにしてわたしたちは「時間」と対抗する。
 この立場から云えば、「書くことは読むことであり、読むことは書くことである」となる。

 ことばを記すたびに、わたしたちはその同じ語を用いて必死に生きてきた人びとの声を聞く。
 そしてその声を聞きながら、いま自分の思いをこめて同時代に向けて、未来に向けて書く。
 こうして、ことばはわたしたちのところでよみがえり、未来を待つのである。
 「読書と書記」の行為を筆者はこのようにしか考えられないし、この態度が「古くさい」ものなら、古くさくて結構だと居直るほかに手はない。

 書記行為と読書行為を一緒くたいに考えることは、文章を綴るときに大いに役立つ。
 というのは、書き手は自分が書いた文章についての最初の読み手だからである。
 書くということは、書き手が自分の精神の内側で考え、感じ、体験したことを、おごそかに云えば「精神の劇」を、ことばを使って読み手に提示することである。
 読むということは、その逆の経過をたどることだ。
 ことばの列によって提示されることを遡って、書き手の精神の劇に立会い、ついにはその劇をわかことのように体験することである。
 では、いま書き上げたこの文章は、読み手の精神の劇のすぐそばまで連れてくることのできる迫力と明晰さをそなえているであろうか。
 書き手は、文章を書き進めてゆく一方で、読み手を兼ねてその点検を行わねばならないのである。
 よい読み手ほど、よい書き手になるのである。

 「言語の目的は何か
 という根本的な問答を引き伸ばしながら、あれこれ書き連ねてきた。
 もとよりこの問に対する答えは、はっきり見つけている。
 「伝達と表現」である。

 伝達を旨とする文章を書く場合は、すでに出来上がっている手本を十分摂取した方がいい。
 しかし、言語を「表現のために用いる」となると、これは未来永劫むずかしい。
 共通の常識によりかかっていては、表現が粗悪になる。
 逆に、共通の常識を軽くみると一人よがりの送信に終始し、ほとんど読み手に受信してもらえない。
 表現のための文章修行は、個人個人が自分の趣味にいたがって、じりょくで積み重ねていくしかほかはない。
 つまり、画一的な読本があるはずないのである。

 そこでこの読本の唯一の教訓はこうである。

 伝達ではなく、表現の文章を綴ろうとなさるかたは、各自、自分用の文章読本を編まれることになる

 そのためには、やはり、表現のために書かれた文章を数多く読まなければならない、ということになる。





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: 文章の燃料


● 1984/04



 文章を一篇ものにするに際して、その構成については守るべき原則がある---、われわれはそう信じている節がある。
 そして段落の配置に、なにか目当てになるような規則があるのではないか。
 規則が大袈裟なら「道しるべ」でもいい、何か導きの糸があるはずだ。
 そこで書店へかけつけると、たしかにたいていの文章入門書に、
「起承転結法の感覚で、文章の論理を組み立てるのがよいでしょう」
 と、書いてある。

 文章の構成法にコツも秘訣も原則もない、と説く著者も多い。
 こう説く著者は、できるかぎりたくさんのよい文章を読みなさい、とつけ加える。
 われわれとしては途方に暮れるほかない。
「草野球チームの一員としてなんとか内野で重きをなしたい、どうすればいいか」
 と問うたのに、巨人の篠塚や大洋の山下のプレーをよく観なさい、といわれたようなものである。
 冷たく突き放された、という感じをわれわれは持つ。

 三木清の『解釈学と修辞学』の冒頭部分を引く。

 -----すなわち解釈学はすでに作られたもの、出来上がった作品に対して働く。
 文献学者ベエクの言葉を借りれば、
  「認識されたものの認識」
 を目的としている。
 一般的にいえば、解釈学は過去の歴史の理解の方法である。

 よい文章をいくら読んでも、われわれは「解釈」を手に入れるだけではないのか。
 「過去」を得るばかりだ。
 われわれは「いま、どう文章を組み立てるべきか」という難問の前で頭を抱えている。
 「現在(いま)」が問題なのだ。
 それにしても、われわれの大多数は、原稿用紙を前にした途端、なぜ「文章の構成については、なにか守るべき原則があるらしい----」と、怯えるのだろう。

 唐の思想家に韓愈(768---824)という人物がいる。
 「天下の大文章家・韓文公」といった方が分かりやすい。
 おそるべき勉強家で、ありとあらゆる学問を、みな自学自習でやりとおしたという。
 これから引くのはこの韓文公の『科目に応ずる時、人に興ふる書』という文章である。
 ------ 略 -----
 原文わずか二百六十余文字。
 韓文公はなぜこれを書くことができたのだろうか。
 目的があったからだろう。
 書かねばならぬ切実な理由があったのだ。
 だからこそかけたのである。
 これはどうしても書かなくてはならぬと自分に百回も千回も言い聞かせ、誰に向かって何を書くのかをぎりぎり絞り上げる。
 別にいえば、書かないで済むことは書くな となるが、とにかく「書かねばならぬ」という思い込みが文章の燃料になる。
 このときこそ、よい文章をたくさん読むことが大事になる。
 われわれは順序を間違えていたのである。
 というと、何だかやたら精神主義を振り回しているもたいだが、そうではない。
 「燃料の作り方」はちゃんとあるのである。
 
 われわれはなぜ文章を書くのがこれほど苦手なのだろうか。
 だれでもが「いい文章をが書けたらよいうのに」と願っているのに、どうして机の前に座ると、ああ手もなく金縛りになってしまうのか。
 天才を自称する人なら話は別だが、たいていの書き手は机の前に座った途端、ほとんど神に近い読み巧者(ごうしゃ)を、読者のなかに想定してしまう。
 そこで閻魔の前に引き出された嘘つき亡者のように緊張する。
 白い原稿用紙を前にした書き手は「謙虚そのもの」になる。
 よほど図太く居直らないと、この謙虚さを振り落とすのは至難の技になる。
「 ほとんど神に近い読み巧者」と対抗するには、書き手の方も、せめて鉄人ぐらいまでは自己を鍛えあげなければならない。
 なら、その方法はあるのか。

 中島健蔵の文章を引く。

 文章は、自然発生的に生まれるものではない
 まず、「
教えられ、練習させられ」て基礎的な表現が与えられる。
 それが初歩の作文です。
 次に自発的に、自分の内側の動機によって書き始める。
 はじめのうちは作文の続きのようなものでしょう。
 そのうちに、書くことによって自分の考えが育ち、深まることを発見する。
 幸か不幸か、自発的に文章を書き続けるような機会にめぐりあわず、そのまま時を過ごしてしまうと、表現力が停滞し、書きたいことがあっても、うまく書けないことになります。

(「文章を書く心」)

 文章を書くことは、話す、聞く、読むことのように半ば自然発生的なものではなく、強制されてようやく身につく能力であり、それも使っていないとすぐに錆びつくという厄介な能力なのである。
 「強制的」というところに、事の本質がひそんでいる。
 ということは、人間の営為の中で最も人間から遠い行為、それが文章を書くということなのである。
 とすれば、難しくて当然だろう。
 だいたいが、あらゆる表現手段は不完全である。
 とりわけコトバはそうだ。
 コトバは社会が作ったもの、社会共通の慣習であり、社会的形成物である。
 個人からみれば「出来合い」であり、「中古品」であり、「お下がり」であり、「約束事」にすぎない。
 ごくごく、おおざっぱな代物なのである

 コトバは出来合いの約束事であり、勝手気ままに生み落とされたものであり、古ぼけて粗雑なシロモノである。
 これに対して、われわれが書きたいと願っているのは、われわれの「心の生活」だ。
 別に言えば、具体的で、個別的で、まことに特殊で、微妙で、流動的で、生き生きとしていて、不合理な、「体験する意味の世界」なのである。
 この混沌未分の内的体験を出来合いの約束事で形にしなければならないのだから、これは難しいに決まっている。
 穴だらけの網で小魚をすくうような、塗箸でソーメンをつかむような、そして厚い手袋をはめた手で床に落ちている一円玉を拾うような大事業なのである。
 文章を書く難しさの根本はここにある。
 よほど覚悟してかからぬと、この難しさをのり越えることはできないだろう。
 このブ厚い壁を突破するに足る強力な燃料は何か。

 佐藤一斎は幕府儒員で昌平黌教授、渡辺崋山や佐久間象山や横井小楠らの師にあたる人だが、この一斎を三嘆させた手紙がある。
 奥羽の博労で亀という男が書いたものである。

  一金 三両
  ただし馬代
 右馬代 くすかくさぬかこりやだうぢや
 くすといふならそれでよし
 くさぬといふならおれがゆく
 おれがゆくならただおかぬ
 かめのうでにはほねがある

<訳>
   返すか返さぬかこれどうするだ。
   返すというならそれでよし。
   返さぬというなら俺がゆく。
   俺がゆくならただおかぬ
   亀の腕には骨がある

 
 なんのために、何を、どのように、書くこうとしているのか。
 それを必死に考えることが、とりあえずの文章の燃料になる、と筆者は思っている。
 亀の手紙には、この3点がつくされている。

◇ なんのために(目的、動機、用途)
◇ なにを (文章の中心思想)
◇ どのように(語り口、文章形式:フォーム、文体)

 練り上げられ、鍛えあげられた短文、文章の中心思想こそ、文章の燃料にほかならない。

 では語り口はどうするのか。
 あんまりこだわらない方がいい。
 若い世代では「おもしろいこと、新しいことなど、この世にそうたくさんあるわけがない。だから内容より語り口、素材より料理が大事----」という考え方に人気があるようだが、中心思想をじっくり練り上げれば、語り口の糸口はひとりでに見つかるのではないだろうか。







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2010年1月14日木曜日

: 「透明文章」の怪


● 1984/04


 「透明度の高い文章ほど名文である
 という常識がある。
 「常識」というくらいだから、根強く支持されている。
 この常識の、理論的支えとなっているのは「言語=道具」説である。

 たとえば、朝日新聞の元文芸部長で、「社説」や「天声人語」の執筆者でもあった能戸清司は、『文章はどう書くか』(昭和55年、kkベストセラーズ)という文章入門書の巻末を次のように結んでいる。

 最高の文章というのは、文章を感じさせずに、筆者のいおうとしている内容がずばりそのまま相手に伝わるようなものであろう。
 「文章がうまいな」
 と、文章の存在を感じさせるうちは、まだ最高とはいえない。


 川端康成が志賀直哉の『城の崎にて』を引き合いに出して、
 「作者から独立しているこういう文章こそが名文である」
 と、述べている。
 ----
 志賀・川端から野間宏まで、「透明度の高い文章ほど名文である」説は、本邦の文章感の本流をなしている。

 波多野完治は文章心理学の提唱者として、「日本の近代的な文体論を拓いた功績者」(中村明)のうちに数えられているが、波多野は昭和28年にこう述べている。

 文章は果たして、文章そのものを意識しないようになったとき、はじめて名文なのであろうか。
 文章が全面へ出てきているのが名文でないことは、いうまでもない。
 しかし、ある一つの事柄がまさに文章を通じて語られる、という意識をもちつつ読まれることは名文の真の資格ではなかろうか

(『文章心理学入門』)

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 つづいて、この文章が読者諸賢のお目にとまる自分には放送が済んでしまっているが、日本テレビ系列「24時間テレビ 愛は地球を救う 4」(昭和56年8月22日)の企画書を入手したので、このパンフレットから企画趣旨の部分を引用させていただく。

 テーマは「愛」です。
 あなたの「愛」です。
 その愛に、地球の将来を賭けてみよう、という提案です。
 いま、地球の年齢46億歳ですが、あらゆる「種」はそれに較べれば一瞬の生を享受して絶滅していきます。
 恐竜は7,500万年前に突然絶滅しました。
 人類も現在40億人の人口をかかえ、30年毎に倍増しています。
 地球では200億人は生存できないといわれています。
 その限界に達するのは、そう遠い未来のことではありません。
 その間に人類のとるであろう選択は2つしかありません。
 1つは偏見と差別に満ちた19世紀以来の勢力のしのぎ合いです。
 もう1つはとぼしきを分かち合い、人種・性別・階層などで差別しない理性的な人類福祉社会です。
 前者は、究極的にエネルギーや資源の浪費を招き、人類のすみにくさを加速度的に増していきます。
 とすればわたしたちが恐竜にならないですむ方法は、連帯しかありません。
 そこでこの番組は、現代の魔法の鏡テレビを使って、地球の自画像を一日みつめてみようという企画です。
 生き延びるための、「地球人必見! テレビ百科事典」といったところです。
 そして銀河系の小さな蒼い星に過ぎないこの地球のかすかな生命が、せめて心を寄せ合って生きていこうというお互いのブロックサインを「24時間チャリテイー」という形で提案したいのです。


 「修辞」とは読み手に何らかの関心を呼び起こそうという技術だから(とまでいかなくとも、意欲であることにまちがいない)、その部分では一瞬でも読み手を立ち止まらせなくてはならない。
 当然、そこは不透明にならざるを得ないのだ。
 前にも述べたように、不透明な部分が読み手に「その先を知りたい」という欲望を起こさせ、その欲望を次々に充足させて、読み手を前へ前へと引っ張っていく。
 したがって、
 「修辞=まもなく解決される不透明さ」とおくと、
 「修辞は文の宿命である」という命題は、同時に「不透明は文の宿命である」とも代換されるのである。

 番組企画書だが、これはより「芸術文」的である。
 その証拠に、この文では一層活発に修辞術がはたらいている。
 「一瞬の生」は誇張法である。
 「現代の魔法の鏡」はテレビの、「地球人」は人類の、「ブロックサイン」は表明するということの、それぞれの隠喩である。
 また、「銀河系の小さな蒼い星」は代称だ(ケニング:一つの名詞を複合語または語群で隠喩的に表現する技巧)。
 この企画文の前半は対句的構成をとっており、後半では漸層法(力強い文句を次々に重ねて文調を高めていく修辞法)が目立つ。
 このように実用文へも、それとは知らぬうちに修辞術の軍勢が大挙して紛れ込んでいるのである。
 「銀河系の小さな蒼い星」という句に、微少の立ち竦み(すなわち透明度はぐんと落ち)、すぐに「あ、地球のことか」と謎解きをし、言葉や文を実感しつつ小さな快感を覚え、「そうか、地球は小さな星なんだな、大事にしなくては」と思うこと、こういう小さな、しかし素速い脳の働きが、文を読む、ということなのである。
 実用文は文章意識を伴わない文章でなければならない、などと軽々しく提言してはならない。

 谷崎読本を筆頭に、たいていの文章教科書が、「名文中の名文」として賞賛を惜しまぬ『城の崎にて』は、やはり
 「読む側に文章というものの存在を感じさせないで、筆者のいわんとする内容だけがじかに伝わってくる」
 名文なのだろうか。


 或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。
 足は腹の下にちぢこまって、触覚はダラシなく顔へたれ下がって了つた。
 他の蜂は一向冷淡だった。
 巣の出入りに忙しくその脇を這ひまわるが全く拘泥する様子はなかった。
 忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを興へた。
 その脇に一疋、朝も昼も夕も見る度に一つ所に全く動かずに仰向きに転がっているのを見ると、それは又如何にも死んだものという感じを興へるのだ。
 それは三日程その儘になっていた。
 それを見ていると如何にも静かな感じを興へた。
 淋しかった。
 他の蜂が皆巣に入って仕舞った日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。
 然しそれは如何にも静かだった。


 強烈に「文章」を感じる。
 難解な抽象語を一切使わない、語彙を基礎語に限る、比喩や色彩語はなるべく用いない、装飾を加えない、文の構造を単純にする、しょしてそれを積み重ねる----、こういった自己規制を厳守しつつ文を整えていくこと、これが文章意識でないとしたら、一体、何を指して文章意識と言えばよいのか。
 さらに引用の300余文字のうちに、
 「如何にも」が4回、
 「それは」「感じを興へ」がそれぞれ3回、
 「静か」「忙しく」「淋しかった」「全く」が各2回、
 そして「見る」にいたっては5回も繰り返されているのだ。
 これはくどい。
 芥川(龍之介)よりもたれる。

 ただし、この同語反復によって感傷詩の律動が起ころうとしている。
 相当な文章意識だ。
 もっとも注目してよいのは、底に流れる修辞法の逞しさである。
 ここでは接続語を抑えて文意を高める技法、連辞(等位接続詞)省略が全体を支配している。
 読者は、文と分の間に連辞がないので、一回ごとに文と文の隙間に落っこちてしまうのだ。

 読者にこれほど強い抵抗を示す文体があっただろうか。
 志賀直哉の文章を指して「反修辞学的な名文」(吉田精一)とほめるのが礼儀とされているらしいが、とんでもない、この作家は「レトリックの名人」なのである。
 じつに修辞法の大親玉だ。
 芥川に負けない技巧を持ち合わせている。







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2010年1月13日水曜日

: ことばの列(文体論)


● 1984/04



 この文章読本に、読者諸賢が文体論など期待していないことは承知しているけれども、文章読本に文章・文体の項はなくてかなわぬもの、一度は通らねばならぬ関所である。
 調べ揚げると、たとえば文体とは次のようなものそうである。
 -------
 -------
 《 文体とは継続性である。 》

 この最後の定義は、小説を書くことの辛さを誇張したことで有名なフローベルのものだが、この定義集をいくら睨んだところで、少しも霧は晴れない。
 いやかえってその濃さを増すばかりである。

 困ったときの神頼み、丸谷読本を開いてみよう。

 文体という言葉にみんながいろいろな意味を勝手に付与したために収拾がつかなくなったという事情は、今日、誰でも知っている。
 一つにはその混乱を整理するためにあえて言うのだが、この言葉の中心にあるものは、文章を書くにあたっての
 「
気取り方
 である。
 つまりわたしが前に言った、
ちょっと気取って書くということ、あるいは、気取らないフリをして気取るということ、これこそは文体の核心にほかならない。


 数百の文体論の理論書を、
 わずか数行の実践的心得に凝縮するという離れ業

 が、ここでは演じられている。
 そういえば古典時代の定義に、
 『文体とは、何か知らぬ、よくわからぬものである。
 というのがあった。
 研究者や学者たちの努力にもかかわらず、この2,300年、文体の秘密はついに解かれることなく放り出されたままになっている。

 17世紀フランスの法律家にして、数学者のピイエール・ド・フェルマ(1601--1665)は、トウールーズ地方議会の議員でありながら、デカルトと論争したり、パスカルと確率論について意見をたたかわせたり、なかなかに忙しい人物であったらしいが、フェルマの死後、その蔵書の余白に、

 xn + yn = zn (注:「n」は指数)
 において、「n」が2よりも大きい整数のときは、決して「整数」解をもたない。

 と書き付けてあるのが発見された。
 「n=2」の場合はとうの昔にわかっていた。
 (x=3,y=4,z=5)がその解で、いわゆる「ピタゴラスの定理」である。
 問題はフェルマが結論だけを記し、途中の証明を書き残さなかったことだ。
 「n」が「3以上」だったら成り立たないとフェルマはいうが、どうすれば証明できるのか。
 以来、この「フェルマーの大定理」は全世界の数学者をとりこにしてきた。
 そして現在も、まだ証明されていない。
 もしここにこの謎を解いた数学者がいて、彼がその論文を書き上げれば、彼の論文は必ずや真の文体を持っているに違いない。
 彼の全存在が近代数学史の全量と正面衝突し、彼の生命はおどっている。
 こういう精神が文体を生まないわけがないのだ。

 「通俗」たると「純」たるとを問わず昨夏も、これまでの全財産を背負いながら、この時代と対峙し、「人間とはなにか」という謎を解かねばならない。
 人間についてなら、どんな小さな謎でもいいのだ。
 その解を得たとき、これまでの決まり言葉の列が歓びに踊って「文体」となる。
 どんな大作家でも、常に文体を保持しているとは限らない。
 生命のおどって書いたもののみに、文体がある。






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 Wikipediaより

 フェルマーの最終定理(フェルマーのさいしゅうていり)とは、3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせがない、という定理のことである。
 フェルマーの大定理
とも呼ばれる。
 フェルマーが驚くべき証明を得たと書き残したと伝えられ、長らくその証明も反例も知られなかったことからフェルマー予想とも称されたが、360年後にアンドリュー・ワイルズによって完全に証明され、「フェルマー・ワイルズの定理」と呼ばれるに至る。

 ワイルズがケンブリッジ大学で1993年の6月21日から23日にかけて3つの講義からなるコースで証明を発表したとき、聴衆は証明に使われた数々の発想と構成に驚愕した。
 ただし、その後の査読において、ワイルズの証明には一箇所致命的な誤りがあることが判明した。
 この修正は難航したが、約1年後の1994年9月、障害を回避することに成功した。
 ワイルズ自身、その時の瞬間を「研究を初めて以来、最も大事な一瞬」と語っている。
 1994年10月に新しい証明を発表。
 1995年のAnnals of Mathematics誌において出版し、360年に渡る歴史に決着を付けた。
 なお、証明の過程では、まずはコリヴァギン=フラッハ法を用いたが、それでは不十分だと判明したので、以前に採用してから放棄していた岩澤理論を併用することで、最終的な証明が完成した。




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★ 自家製 文章読本:井上ひさし


● 1984/04



 『文章読本』を編むことは、いまやほとんど不可能に近い。
 -----
 『文章読本』を試みるのは滑稽な冒険になるだろうという予測を支える第二の理由、こちらの方が重要なのだが、それは近頃の文学の形勢にある。
 もっと正確には、文学を取り巻く世間の在り方にある。
 だが、急いではならない。
 その前に緒家の説に耳を傾けてみよう。

 谷崎潤一郎の文章読本の瑕を数えればきりがない。
 それらの瑕が読み進むにつれて、やがて笑窪にかわってしまうのは不思議である。
 それこそ文章の力というものだろう。
 そして結句の、
《 この読本は始めから終わりまで、ほとんど含蓄の一事を説いているのだと申してもよいのであります。》
 に至って、キツネにつままれたような気分になってしまう。
 むろんその気分は悪いものではなく、いってみれば、文章術の要諦は授けられなかったかわりに、別の上等な読み物、たとえば『食通読本』のようなものを贈られたのである。

 川端康成を飛び三島由紀夫に至って、その文章読本の要旨をまとめれば、
「 気品と格調こそ、文章最後の理想である。
 その気品と格調は古典的教養によって培われる」
 と、なるだろう。

 中村真一郎の文章読本には卓見がちりばめられている。
 中村読本の前半の主題は、
「 近代口語文の完成は、考える文章感じる文章との統一である。
 いたがってその完成の有資格者は学者であると同時に作家である人が適当であった。
 その実例が、鴎外漱石露伴であった。」
 というところにある。

 丸谷才一の文章読本は掛け値なしの名人芸だ。
 文体論とレトリック論を、大岡昇平の「野火」一作にしぼって展開していく第9章などは、おそろしいほどの力業である。
 なによりも文章が立派で、中村読本に凭れかかって言えば、考える文章と感じる文章との美事な統一がここにはある。
 奇体なことに、丸谷読本以外の文章読本の文章は、それぞれの書き手のものとしては上等とは言い難い。
 金のためにかかれた、あるいは啓蒙読み物として書かれたなどの、執筆時の事情もあるだろうが、日ごろの文章より数段落ちるという印象がある。
 ところが、丸谷読本はこの奇妙な慣わしを打ち破ったのである。
 とくにその上質の諧謔はわたしたちをうっとりさせる。

 これまでの引用個所を、緒家の真意を踏みにじるという暴挙をあえておかしながら、我流にまとめると、次のようになる。
 ヒトが言語を獲得した瞬間にはじまり、過去から現在を経て未来へと繋がっていく途方もなく長い連鎖こそ伝統であり、わたしたちは、そのうちの一環である。
 ヒトは言葉を書き付けることで、この宇宙で最大の王である「時間」というものに対抗してきた。
 芭蕉は50年で時間に殺されたが、しかしたとえば、周囲がやかましいほど静けさはいやますという一瞬の心象を17音にまとめ、それを書きとめることで、時間に一矢を報いた。
 「閑さや岩にしみいる蝉の声」、はまだ生きている。
 時間はいまのところ芭蕉を抹殺できないでいる。

 せいぜい生きても70,80年の、ちっぽけな生物ヒトが永遠でありたいと祈願して創り出したものが「言語」であり、その言語を整理して書き残したのが「文章」である。
 わたしたちの読書行為の底には、
 「過去とつながりたい
 という願いがある。
 そして文章を綴ろうとするときには
 「未来へつながりたい
 という想いがある。

 だが、奇怪なことが起こりはじめているのも確かである。
 かなわぬまでも、時間と対抗しようという、いかにも人間らしい気組みが世の中から、急速に失われていきつつあるらしい。
 時間とたたかう前に、やすやすと屈服して、暴君「時間」のなすがままにまかせているようなところがある。
 わたしが放送台本作家だったころ、ハプニングと格好良く命名されたその手法は一回性というものを重んじ、二度とは放映しないという<テレビ>という思想で支えられている。
 というと人は、テレビと小説とを混同していると腹を立てるかもしれない。
 しかし、そうではないのである。

 これらの風潮の底には、大量生産→大宣伝→大量購買→大量破棄という、この時代の枠組みがある。
 再読、三読に耐えるものなどあっては、後に控えている小説が裁けないから、それではかえって困るのである。
 こうした時代での悲劇は、年に数冊あらわれる名作=古典候補作が「ベストセラーのうちの一冊」と安直にレッテルを貼られ、数ヶ月店頭をにぎわして、それからひっそりと消えてしまうのである。
 こんな時代でなければ、たとえ細々であっても、長々と売れることであろうに。

 こんな状況のもとでは、永遠を目ざす継続性が本質の言語を、
 「フン、嘘っぽいネ」
 と言ってしりぞける若い人たちが大勢いても、別に何のふしぎもあるまい。
 この時代では、過去と未来を結びつけようとする試みの一つである「文章読本」を編むなどは、どうしたって滑稽な冒険にならざるを得ないのである。




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2010年1月7日木曜日

: 城市(まち)

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● 1992/07[1992/06



 明についで、17世紀半ば、清が興った。
 本来、東北地方を根拠地とするツングース系の狩猟民族だった。
 漢人からは野蛮視され、”満達子:マンダーツ”などと呼ばれていた。
 「ヌルハチ」という英雄がこの民族を統一し、その死後いよいよ結束が固かった。

 明王朝は腐敗しきって、自浄能力を失っていた。 
 清がわずか60万人の人口をもって長城の内郭に入り、約300年間、中国全土を支配したということは、明の腐敗がいかに深刻であったかが想像せきる。
 清が、異民族王朝ながら、歴世、中国史上、まれにみる統治能力を示したのは、ひとつには元来、粗放とはいえ農業をあわせもっていたからにちがいない。
 自らの農業を持つという面で、中国という農業社会への理解ができたのである。
 この点、元と異なる。

 また、清王朝は本来狩猟民族だっただけにモンゴルの遊牧についても、多少理解があった。
 清は、勃興期、モンゴルに兵力の援助を受けていた。
 帝国成立後はモンゴル人を優遇し、たとえば"蒙古八旗"と呼ばれる特権的な武人断をもうけたり、内モンゴルにおける草原の保護(漢人による耕地化からの保護)を朝廷命令としてうちだしたりした。
 これによって、漢人がみだりに草原に鍬を入れて、耕地を作ることができなくなった。
 この禁令によって、二千年来の問題が解決された。

 が、清朝も中期ごろになると、様子が変わった。
 異民族であるという後ろめたさもあって、むしろかえって濃厚に儒教化しや。
 儒教は農をもって基盤とし、遊牧をもって夷テキとする。
 やがて清朝は、漢人の侵入者たちが、草原を耕しはじめるのを見てみぬふりをし、ついには進んで農民たちの後押しをするようになる。
 以後、"内蒙古"と中国人が呼ぶこの地域は、ほとんど鍬で砕かれ続けたと言っていい。

 清末、漢人の商業資本が、ロシアに吸い寄せられて、外蒙古の草原に進出した。
 清国商人の草原への進出を誘いだしたのは、帝政ロシアの冒険商人だった。
 かれらのシベリアへの領有運動が、やがてモンゴル人の運命を変えることになる。
 近代とは「カネの世」のことである。
 「広域商業の世」ともいえる。
 人類における他の社会(たとえばヨーロッパや中国、あるいは日本)では、貨幣経済(流通経済)は、人智の発達を促した。
 それら他の社会では徐々に発達したため社会全体に免疫ができ、害よりも益が大きかった。
 一方、自給自足経済でやってきた社会ににわかに流通経済が入ると、劇薬が入ってきたように人々のほとんどが落魄してしまう。
 19世紀のモンゴル遊牧社会はまさにそうで、貧困が草原をおおい、牧畜という、唯一のよるべを失って流浪した。

 清朝は1911年10月の辛亥革命をもって倒れる。
 その最末期における草原への入植製作は、「遊牧の否定」といえるほどにむごかった。
 これにモンゴル人は反抗した。
 清国政府はこれを「蒙匪:モンフェイ」とよんだ。
 清国政府にも、言い分はあった。
 漢人を入植させることで、これを屯田兵のようにし、膨張するロシアの南下を防ごうとしたのである。
 モンゴル人の反抗は広がった。
 清国はこれに対して、兵力を出して鎮圧した。
 20世紀初頭の清国政府の用語で”蒙匪辺患のそう靖”と呼んでいる。
 
 この弾圧が、外モンゴルにおけるモンゴル人をして、帝政ロシア側に走らせる結果になった。
 1911年秋に辛亥革命によって清国が倒れると、モンゴル人たちは、独立を宣言した。
 ただし、ロシアを頼っての独立であった。
 当時のモンゴル人は、この勢いに乗じて、中国に組み入れられている内モンゴルまで含めた「大モンゴル国家」の建設を願った。
 当時の帝政ロシアは中国に遠慮し、結局、外モンゴルの範囲内での自治だけを支援することにした。
 中国と交渉し、キャフタ協定(1912年)を結んだ。
 この協定が、いまのモンゴル人民共和国の版図の上での原形になっており、モンゴル側も別段不服はなさそうである。
 キャフタ協定から5年後、今度は帝政ロシアが倒れた。
 モンゴル人には、漢人がすべて高利貸にみえる。
 彼らは悲鳴をあげ、ロシアの革命政権にたよらざるを得なかった。
 曲折の末、1924年、ソ連についで世界で2番目の社会主義国家をつくるはめになった。
 彼らが、社会主義を選んだのは、マルクスのいう歴史の発展の結果ではなく、だだ中国人から草原を守りたかっただけだった。






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2010年1月6日水曜日

★ 草原の記:黒い砂地:司馬遼太郎

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● 1992/07[1992/06]



 農耕文明は、まちを必要とした。
 農耕文明は「物を蓄える」という特徴がある。
 食物、布、金属、什器、さらにいえば過去や現在の収穫や配分のための記録、あるいは農耕のひまなときに読む書籍。
 ユーラシア大陸では城壁に囲まれた都市が発達した。
 政庁は場内の倉に租税として穀物を積み上げ、また商人は布などの商品をたくわえた。
 遊牧民は、古来、者を貯えない。
 不必要に多量な什器や衣類を持てば、移動ができなくなってしまう。
 モンゴル人は、日常かるがると移動することを愛してきた。
 とはいえ、金目のものとしての宝石や金銀の装身具を持つことはあった。
 そういうものなら、移動の場合に荷重にならない。

 チンギス・ハーンの後継者にオゴタイがなった。
 オゴタイは
「財宝がなんであろう。
 金銭がなんでえあろう。
 この世にあるものはすべて過ぎゆく」
 と、韻を踏んでいった。
 この世はすべて空(くう)だという。
 この当時、モンゴルにはまだ仏教が入っていなかったから、この言葉はモンゴルにおける固有思想から出ているといっていい。
 この草原には、古代以来、透明な厭世思想がある。
 オゴタイは続ける。
「永遠なるものとはなにか、それは人間の記憶である」
 映画も財宝も城郭もすべてはまぼろしである。
 重要なのは記憶である。
 オゴタイにすれば、自分がどんな人間であったかを後世に記憶させたい。
 それだけだという。

 オゴタイ・ハーンほど、モンゴル的な人物はすくなかった。
 かれの寡欲に至っては、平均的モンゴル人の肖像を見るようである。
 むろん、寡欲はどの民族にとっても美徳である。
 しかしながら、世界史の近代は物欲の肯定から出発したため、やがてモンゴル近代史にとって、この美質は負に働いてゆく。
 つまり、物欲がすくないために家内工業もおこらず、資本の蓄積も行われない。
 結局はそれらを基盤とした「近代」がこの草原には生まれにくかった。

 日本文化は室町期も江戸期も好事家の文化であった。
 室町期は好事(こうず)のことを「数奇」といい、江戸期では「道楽」といい、家を失い未を滅ぼすとされた。
 西行も芭蕉も宣長も富永仲基も山片バン桃も、何ごとかトクになるためにそれをやったのではない。
 好事への傾斜につき動かされて生涯をおえた。
 この傾向は、アジアの他の地域にはあまり見られない。







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2010年1月4日月曜日

: 海と高原の運命

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● 1986/06


 モンゴル人は13世紀のはじめから1世紀半にわたってユーラシア大陸にモンゴル帝国を樹て、中国を征服して元帝国を樹て、これを諸汗国の宗家とした。
 滅びるときは、意図を抜かれた衣服のように、はらはらと解けた。
 元の場合、帝国維持が不可能とみると、じつに淡白だった。
 中国内部にいたあらゆるモンゴル人が、騎乗する馬に鞭をあて、武装したままで北のモンゴル高原を目指して帰ってしまった。
 当時、漢民族は、この歴史的現象を
 「北帰
 と呼んだ。
 東は遼東半島から西は甘粛省におよぶ広大な元の領域から、数十万騎という人馬が、一斉に北をめざして帰っていった。
 明代になると 「北虜南倭」という言葉ができた。
 清になると「北虜」であるモンゴル人は弱くなった。
 明という漢民族王朝を滅ぼした清は異民族王朝だった。
 女真族(ジュルチン)などと呼ばれたこともあったが、牧畜と狩猟、それに多少の農業を営んでいた。
 ほぼ定住の半牧であるため遊牧のモンゴル族より戦闘能力は劣るものの、農業をもっているということで、漢民族と重なっていた。
 環民族よりはるかに戦闘力があり、モンゴル人とすら退行することができた。
 彼らは、ふつう満州人と自称・他称した。

 満州人の中国支配は、歴史の奇蹟といってよかった。
 わずか男女60万、70万人という人口の民族が、長城の内側になだれ入り、人口数億の大陸を支配したということだけでも驚くべきことであるが、その統治能力は(清朝滅亡後、中国人は正直に評価したがらないが)、歴史上のどの王朝よりも卓越していた。
 (近代以後の中国の知識人も、また中華人民共和国も、清朝の功績を認めようとしない。その理由は、異民族王朝であったこと、中国近代史のはじまりは「滅満興漢」という合言葉から出発したことによる)
 清朝は中国の領域を、史上最大の版図にひろげた。
 
 満州(清)王朝が、結果として漢民族のためにやった最大の功績は、モンゴル高原を中国の版図に入れたことである。
 外蒙古(モンゴル高原)という広大な台地が、完全に清国領になるのは、1690年である。
 また1755年には、中国の新疆ウイグル自治区が、清朝のものになりこれは今日に引き継がれている。
 

 明治末年から日本は変質した。
 戦勝によってロシアの満州における権益を相続した。
 がらにもなく"植民地"をもつことによって、それに見合う規模の陸海軍を持たざるを得なくなった。
 "領土"と分相応の大柄の軍隊を持ったために、政治までが変質していった。
 その総決算が"満州"の大瓦解だった。
 この悲劇は、教訓として永久に忘れるべきではない。
 国家が為すべきでないことは、他人の領地を併合して、いたずらに勢力を誇ろうとすることだろう。
 その巨大な領域に見合うだけの大規模な軍隊をもたねばならず、もてば兵員を絶えず訓練し、おびただしい兵器を間断なくモデル・チェンジしてゆかねばならない。
 やがては過剰な軍備と軍人、あるいは軍事意識のために自家中毒を起こし、自国そのものが変質してしまうのである。

 歴史の中の日本人というのは、貧しいながらも穏やかで、どこか貧乏にたいしてトボケタところのある民族だと私は思っている。
 だが、重軍備をもったあとの近代史の中の日本人は、浅はかで猛々しく、調べていても遣りきれない想いがしてしまう。
 ロシアについても同じことがいえる。
 
 「ヤルタ協定」
 は、全三項から成っている。
 すべて日本および中国に関係する内容である。
 日本国外務省条約局『主要条約集』の「ヤルタ協定」の項の翻訳(仮訳とされている)によってみてみる。
 協定の参加国の集団呼称として、
 「三大国(ザ スリー グレート パワーズ)」
 という言葉が使われている。
 こういう表現も、詩劇的である。

 協定は3つの条項からなっている。
 その第一項こそ、最重要の内容である。

 『外蒙古(蒙古人民共和国)の現状が維持されること』

 「現状」
 つまり、ソ連傘下でありつづけること。
 そういう意味である。
 言い添えると、昔のように、中国の影響力は外蒙古には及ばない、ということになる。
 スターリンが、対日参戦を承諾するにあたって、この第一項を、他の二つのパワーに再認識させたのである。
 さて、第三項である

 『千島列島が、ソビエト連邦に引き渡されること』

 これによって、いわゆる日本の「北方領土」は失われた。
 もっとも協定でいう「千島列島」とは、どの島からどの島まで指すのかという地理的規定は話し合われていない。
 だから、ソ連が解釈しているままに、島という島がゴッソリ対象にされたかのようであり、事実、ソ連はすべての島々をとりあげ、日本側が、そこはいわゆる千島ではなく、固有領土だとする四っつの島までとりあげた。
 「そのうちの4つの島は、昔から私のものだ」
 と事実を述べるべき日本は、この席にはいない。
 3人の勝利者の分け前談義なのである。
 情け容赦があろうはずがない。

 広大なモンゴル高原と、ちいさな千島列島とが、それぞれ一条項を立て、等価値であるかのように合い並んで記されているのである。
 これにより、アジアにおける戦後領域が決められたのである。
 このことは千島列島(たとえそのうちの一部であったとしても)をソ連が日本に返還するとすれば、モンゴル高原もまた中国側からの返還対象になってしまうのである。

 私は日本が大した国であって欲しい。
 北方四島の返還については、外務省が外交レベルでもって、相手国に対して、たとえ沈黙で応酬され続けても、それを放棄したわけではないという意思表示を恒常的に繰り返すべきだと思っている。
 しかし、それを国内的な国民運動に仕立てていくことは有害無益だと思っている。
 有害というのは、隣国についても無用な反感をあおるだけだということである。
 ロシア史においては、他民族の領土をとった場合、病的な執拗さでこれを保持してきたことを見ることができる。
 ヤル気なら喧嘩を買ってもいい。
 という考え方を伝統的にとってきたロシアが、日本と北方四島返還騒ぎにのみ例外を設けることはないのである。
 今日のソ連政府としては、千島列島(クリル)とモンゴル高原とが、ヤルタ協定でセットになっていることは十分承知している。
 北方四島を日本に返すことは、モンゴル高原を中国に返すことと同じ論理であると思っているのである。

 日本人が、北海道東端の沖に浮かぶ島を見て、同時に北アジアに隆起する大高原を思い合わせられるようになれば、日本人もやっと一人前のアジア人になれるのではないだろうか。







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